2013年10月29日
下北沢X新聞（2432)〜戦争と平和と下北沢２〜
（一）
人間とは何か？、まず無があって、有を得て、そしてまた無に還る。人間として事をなしている時は有である。たまたまこの今に生を得て生きている。
誕生以前のことは全く不明である。生を授かったばかりのときも記憶はない。この時私自身は人生の中でもっとも苛酷な道を歩いている。敗戦後二ヶ月経って生まれ、そして満州から引き揚げてきた。零歳の私にまったく記憶はない。
母親はとっくに死んでしまった。生きるのに忙しく引き揚げ時のことについては聞かなかった。三つ違いの姉は辛うじて記憶がある。「無蓋車に乗った」、「ごはんがこうりゃんだった」、「引き上げのときの船が大揺れに揺れた」、これぐらいである。
私は、満州新京から引き揚げてきた天内みどりさんの話を姉にした。
「それは運命だわね、引き上げがどんなに大変だったか。具体的にはわからないけど、生前の母が、そのときのことは書き記せば幾らでもあると言っていたけど、結局何も残さないで死んだのよ。その人ほどではないにしても、苦労は同じだったろうと思うわ。あなたの記憶の代わりをしているものだと思うけん、大事にせんと……」
博多に住んでいる姉は言った。
特攻隊武剋隊、武揚隊は満州新京で編成された。式が終わって、内地に向けて旅立ち、昭和二十年二月、一週間ほどで松本飛行場に着いた。天内みどりさんの場合は、帰国するまで一年以上掛かっている。
苦難の逃避行である。襲ってくる飢え、寒さ、そして病気、暴徒と化した民衆、圧制下の怒りを日本人に向けてくる。全くの四面楚歌だ。ソ連兵は女狩りをしては女を連れ去っていく。
何時のたれ死にするか、病気で死ぬか、あるいは陵辱されるかわからない。天内みどりさんは常に小袋に忍ばせていたものがある。青酸カリだ。いざというときは自決しようと思った。
（二）
平壌での苛酷な収容所生活では人間が人間であること忘れる。特に子供の場合はそうだ。それで親たちが心配して臨時の学校を作る。
「自分がどこの国の誰であるか、これだけはしっかり覚えていて下さい」
これがこのにわか学校で習ったただ一つのことだが、最も大切なことだった。
漫然と日を送っていると人間は自分が分からなくなる。とくに苛酷な状況にある異国でではそうだ。中でも子供には基盤ができていない。このくだりを読んで、レーゾンデートルはどこの国で生まれたかを出発点として築かれるのだと知った。
彼女は書いている。必死になって、自分は誰か、何人か、名前はなんというのか。それをひっきりなしに口に出しては自問自答していたという。
自分は日本人であることを確認ができると、そこから郷愁が生まれ、希望も生まれてくる。日本の山河が懐かしいと思えてくる。
（三）
彼女は、ほうほうのていで逃げ帰った。数年経った後に、「引き揚げて、いつも代沢のお友達の疎開後のことばかり考えていました。代沢小学校を訪ねてみました」とある。彼女は二十二歳になっていたという。たまたま一年生のときの担任の常田先生がいて、「きむらみどりさんね」と言われて泣き崩れてしまう。
その後「ひとりで下北沢をぶらぶらしてみましたが、友人のひとりもみつけこともできずに帰ってきました」と。
町は昔の町あらず、見知らぬ人ばかりで通りもすっかり変わっていた。
天内さんは、文中にいくつもの短歌をちりばめている。
生け贄のごとく女を差し出して還へりし命ぞ大事に生きむ
その一首だ。野獣となったソ連兵が女を二人奪って、逃避行の集団に行ってよしと指示した。彼女らはなぶられ、いたぶられ、陵辱され、その後どうなったのだろうか。
彼女は終戦の日のことを書いている。
日本が負けたということはどういうことだろう。一人になっても戦うはずではなかったのか。そのために私達は一生懸命薙刀練習したはずだ。負けたら玉砕のはずだ。負けて日本があるなんておかしい。
十二歳の彼女が言う。竹槍でもってして一人でも戦う。徹底抗戦して負けて本当の負けだというのだろう。純粋である。皇民化教育はここまで来ていたことだ。（了）
（玄界灘、唐津沖）
平壌での苛酷な収容所生活では人間が人間であること忘れる。特に子供の場合はそうだ。それで親たちが心配して臨時の学校を作る。
「自分がどこの国の誰であるか、これだけはしっかり覚えていて下さい」
これがこのにわか学校で習ったただ一つのことだが、最も大切なことだった。
漫然と日を送っていると人間は自分が分からなくなる。とくに苛酷な状況にある異国でではそうだ。中でも子供には基盤ができていない。このくだりを読んで、レーゾンデートルはどこの国で生まれたかを出発点として築かれるのだと知った。
彼女は書いている。必死になって、自分は誰か、何人か、名前はなんというのか。それをひっきりなしに口に出しては自問自答していたという。
自分は日本人であることを確認ができると、そこから郷愁が生まれ、希望も生まれてくる。日本の山河が懐かしいと思えてくる。
（三）
彼女は、ほうほうのていで逃げ帰った。数年経った後に、「引き揚げて、いつも代沢のお友達の疎開後のことばかり考えていました。代沢小学校を訪ねてみました」とある。彼女は二十二歳になっていたという。たまたま一年生のときの担任の常田先生がいて、「きむらみどりさんね」と言われて泣き崩れてしまう。
その後「ひとりで下北沢をぶらぶらしてみましたが、友人のひとりもみつけこともできずに帰ってきました」と。
町は昔の町あらず、見知らぬ人ばかりで通りもすっかり変わっていた。
天内さんは、文中にいくつもの短歌をちりばめている。
生け贄のごとく女を差し出して還へりし命ぞ大事に生きむ
その一首だ。野獣となったソ連兵が女を二人奪って、逃避行の集団に行ってよしと指示した。彼女らはなぶられ、いたぶられ、陵辱され、その後どうなったのだろうか。
彼女は終戦の日のことを書いている。
日本が負けたということはどういうことだろう。一人になっても戦うはずではなかったのか。そのために私達は一生懸命薙刀練習したはずだ。負けたら玉砕のはずだ。負けて日本があるなんておかしい。
十二歳の彼女が言う。竹槍でもってして一人でも戦う。徹底抗戦して負けて本当の負けだというのだろう。純粋である。皇民化教育はここまで来ていたことだ。（了）
（玄界灘、唐津沖）
