2013年12月07日
下北沢X新聞(2458)〜地形と文学と街3〜

(一)
「トントン豚舎が飛んで行く」
豚だけではない、鶏も牛もである。都市が広がると邪魔だ、臭いということでこれらはどんどん飛ぶように郊外に転舎していった。
人間そのものも動物だ。武蔵野が開発されて家が建て込んでくる。すると郊外に引っ越したくもなる。北沢の丘に住んでいた文学者も当地からの脱出を考えてもいたようだ。
私は外国から帰った直後のこと、何とかしてじかに一度土地というものへの愛情を感じて見たくなり、少し自分で持ってみたいと思ったことがあって、義弟のいる玉川附近を二人で歩き廻ったある日のこと、むかしの神社の跡で八幡山という小高い丘の前へ立った。
�垳�利一『夜の靴』の一節だ。彼は、1936年(昭和11年)2月20日に神戸を出航し半年間、ヨーロッパへの旅行をしている。これから帰ってきてのことだ。
この八幡山という山は、すっかり建物は建ったが、今もその地形は残っている。場所は用賀である。矢沢川左岸の崖線である。文章はこう続く。
「いいな、ここは。」と私は云った。
私はそこを買いたかった。赤松が沢山生えている傾斜地で、手ごろなここの空地は日をよく浴び草も柔かった。
「いいけれども、この赤松で首吊りがあったのですよ。」と義弟は一本の枝ぶりの良い松をさして云った。
ふと文句なく私は不快になった。
「じゃ、駄目だ。」
八幡山の傾斜地には今も松が残っている。ここからの眺めも抜群だ。遥か向こうには丹沢山塊が見え。その奥には富士が聳え立っている。
(二)
赤松が生えている傾斜地は北沢にもあちこちにあった。ところが近くに帝都線ができたことによって便利になり、一気に宅地開発が進んだ。彼には安住の地ではなくなった。そのことから郊外への転居を考えていたようだ。
用賀への土地の下検分に行って、この用賀の地をぐるりと巡ったようだ。そして、地主ともこんな交渉している。
「あそこはもうすぐ電車が通りますのでね。」と地主はうすぼんやりした顔をして答へた。「電車が通るのはいやだな。喧しいですからね。それぢや、一寸待ってください。」
『春園』�垳�利一全集 第十二巻 河出書房
これは小説『春園』の中の話だ。が、具体的な話を下敷きにしている。本当は八幡山の地所を購入したかったが、先手を打たれていた。さる有名な、歴史上に残る政治家がそこを購入していた。そのことから彼は、ここを断念し、八幡山から東に続く西のり面に購入地を変えたようだ。
地主との会話からその頃の様子がわかる。近くに電車の予定線があった。用賀の向こうは深沢だ。ここには駒沢ゴルフ場があった。東京オリンピックが開催されるはずだった。そのことから東横線が会場に延びてきたり、また、これに合わせた南北縦断線も考えられていた。そのことを指すのだろうか。
(三)
�垳�利一は、彼は、1945年(昭和20年)6月、山形県鶴岡市に疎開した。半年後そこを引き揚げてくる。そのときの印象を彼は、こう語っている。
梶が東京の我が家へ初めて戻ったときは季節は寒さに向っていた。彼が帰って家の周囲を見渡すと今までの広い空地はどこにもなくなり、東西南北家がぎっしり建っていた。僅か半歳あまりにこのように人家の密集する都市の膨脹力を思うと、半歳の間の日本の変化も実はこれと同じにちがいないと梶は思って驚いた。 『厨房日記』
一帯は空襲で焼けなかった。それだけに空き地は狙われた。随所にあった雑木林も欅の木も倒されてそこには家が建っていた。
もうあの武蔵野は武蔵野ではなくなっていた。
彼が帰ってきたばかりのとき次男が迷子になってしまったことがある。手を尽くして探したところ、
交番の椅子にぼんやり腰をかけているのが見つかった。
梶は腰を重くあげて夜道を交番の方へ歩いていった。もうここの警官にだけは一生頭が上らないと彼は思いながら、夜気に湿った草原の中を勢い良く歩くのだが、世界の思想や状勢に頭を使い、日本のあれこれを思い悩んだ自分の考察も、根元から吹き上げられてはこのように無力なものになるのかと、今さらおかしく淋しくなって来た。
この交番はどこだろう。居宅からは、「草原の中を勢い良く歩く」とある。森厳寺左岸崖線を下っているのではないか。するとこの交番、旧東北沢4号踏切そばにあるものではないだろうか。
(八幡社跡の石碑が今ものこる)
赤松が生えている傾斜地は北沢にもあちこちにあった。ところが近くに帝都線ができたことによって便利になり、一気に宅地開発が進んだ。彼には安住の地ではなくなった。そのことから郊外への転居を考えていたようだ。
用賀への土地の下検分に行って、この用賀の地をぐるりと巡ったようだ。そして、地主ともこんな交渉している。
「あそこはもうすぐ電車が通りますのでね。」と地主はうすぼんやりした顔をして答へた。「電車が通るのはいやだな。喧しいですからね。それぢや、一寸待ってください。」
『春園』�垳�利一全集 第十二巻 河出書房
これは小説『春園』の中の話だ。が、具体的な話を下敷きにしている。本当は八幡山の地所を購入したかったが、先手を打たれていた。さる有名な、歴史上に残る政治家がそこを購入していた。そのことから彼は、ここを断念し、八幡山から東に続く西のり面に購入地を変えたようだ。
地主との会話からその頃の様子がわかる。近くに電車の予定線があった。用賀の向こうは深沢だ。ここには駒沢ゴルフ場があった。東京オリンピックが開催されるはずだった。そのことから東横線が会場に延びてきたり、また、これに合わせた南北縦断線も考えられていた。そのことを指すのだろうか。
(三)
�垳�利一は、彼は、1945年(昭和20年)6月、山形県鶴岡市に疎開した。半年後そこを引き揚げてくる。そのときの印象を彼は、こう語っている。
梶が東京の我が家へ初めて戻ったときは季節は寒さに向っていた。彼が帰って家の周囲を見渡すと今までの広い空地はどこにもなくなり、東西南北家がぎっしり建っていた。僅か半歳あまりにこのように人家の密集する都市の膨脹力を思うと、半歳の間の日本の変化も実はこれと同じにちがいないと梶は思って驚いた。 『厨房日記』
一帯は空襲で焼けなかった。それだけに空き地は狙われた。随所にあった雑木林も欅の木も倒されてそこには家が建っていた。
もうあの武蔵野は武蔵野ではなくなっていた。
彼が帰ってきたばかりのとき次男が迷子になってしまったことがある。手を尽くして探したところ、
交番の椅子にぼんやり腰をかけているのが見つかった。
梶は腰を重くあげて夜道を交番の方へ歩いていった。もうここの警官にだけは一生頭が上らないと彼は思いながら、夜気に湿った草原の中を勢い良く歩くのだが、世界の思想や状勢に頭を使い、日本のあれこれを思い悩んだ自分の考察も、根元から吹き上げられてはこのように無力なものになるのかと、今さらおかしく淋しくなって来た。
この交番はどこだろう。居宅からは、「草原の中を勢い良く歩く」とある。森厳寺左岸崖線を下っているのではないか。するとこの交番、旧東北沢4号踏切そばにあるものではないだろうか。
(八幡社跡の石碑が今ものこる)
この記事へのコメント
2. Posted by きむらけん 2013年12月08日 10:25
[交番]
迷子になったご本人がおられるので機会があれば直接伺ってみたいと思います。
迷子になったご本人がおられるので機会があれば直接伺ってみたいと思います。
1. Posted by きむらたかし@三田用水 2013年12月08日 09:25
[交番]
青空文庫で『厨房日記』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2156.html
を読んでみたのですが、確かに実際の横光の家の周囲の光景が反映しているようですね。
手許の「北澤警察署管内図」(正確な年代はわかりませんが、だかの代田連絡線があるので、おおまかには小説と時期が整合しています)によると、東北沢4号踏切の脇の交番(北澤四丁目派出所)は当時もあったのですが、横光邸からは、その南にあった草原とは方向違いの北西方向。草原を南に横切った先にある交番となると、今の「淡島の交番」こと、当時の「(下?)代田派出所」ということになります。
ちなみに、周辺にある派出所としては
北澤五丁目派出所 今の北沢中学校あたり
北澤一丁目派出所 代沢小学校の北沢川の対岸あたり
中原派出所 今の代田の香風のあたり
がありました。
「淡島の交番」は戦前の地図にもあり、そのころは、横光邸のすぐ近く、今のNHK社宅入口の向かいにも交番があったようです。
青空文庫で『厨房日記』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2156.html
を読んでみたのですが、確かに実際の横光の家の周囲の光景が反映しているようですね。
手許の「北澤警察署管内図」(正確な年代はわかりませんが、だかの代田連絡線があるので、おおまかには小説と時期が整合しています)によると、東北沢4号踏切の脇の交番(北澤四丁目派出所)は当時もあったのですが、横光邸からは、その南にあった草原とは方向違いの北西方向。草原を南に横切った先にある交番となると、今の「淡島の交番」こと、当時の「(下?)代田派出所」ということになります。
ちなみに、周辺にある派出所としては
北澤五丁目派出所 今の北沢中学校あたり
北澤一丁目派出所 代沢小学校の北沢川の対岸あたり
中原派出所 今の代田の香風のあたり
がありました。
「淡島の交番」は戦前の地図にもあり、そのころは、横光邸のすぐ近く、今のNHK社宅入口の向かいにも交番があったようです。



















