2013年12月10日

下北沢X新聞(2460)〜「北沢の丘の石畳弁当」2〜

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(一)
 「北沢の丘の石畳弁当」は、垳利一文学顕彰碑の建立を記念して作った。この石畳は、彼の作品『微笑』に記述されている。言えば、この石は文士町のシンボルでもある。夢を描いて何人もの文学青年がこれを渡っていった、成功した者もいれば失敗に終わった者もいる。ただ単に有名な文士の足音が聞こえたということだけではない。この石には数知れぬほどに物語が潜んでいる。

 これまで九年間、地域一帯の文化を掘り起こしてきた。ときに具体物に出会うこともあった。この石はその一つだ。他には偶然に欅の輪切りも手に入った。

 「旅思ふ欅を春の露はしり」というのは加藤楸邨の句である。下代田(現代沢)居住時代に詠んだ句である。まさにこれに記録されている欅だ。見あげる樹木が俳人の旅心を誘った。代田七人衆柳下家の大欅だ。

 ささいなものだが、残して置けばよいと思うものはそこここにある。前から欲しかったのは「踏切表示板」だ。小田急地表線の踏切にはすべてこれが掲げられていた。例えば、「東北沢6号踏切」などはぜひとも残して置きたかった。鷺澤萌の『遮断機』の主舞台となった踏切だ。
「あれは、廃止前にもらっておこう」
 仲間内では言っていたが、いつの間にかこれもなくなってしまった。心にとめておいても時間は経過し、いつのまにか無くなってしまう。

 今、気にかかっているものがある。この間そこを通り掛かったらまだ残っていた。かつての通用口の門柱に「七」の字が見えた。「七島学生寮」の表札だ。ここの敷地は分譲地となって今建物が建ちつつある。伊豆七島の東京遊学組を助ける寮だった。

 「下北沢交点文化」の一つとして寮の密集があった。これも今ではすっかり忘れ去られつつある。
 嘉穂寮などというのもあった。福岡県嘉穂郡の寮だ。産炭地、黒いダイヤが出ているうちはいいが後の発展が見込めない。財産があるうちに人材を育てて置こうと下北沢に作られた。ところが、この寮も今は跡形も残っていない。


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(二)
 鉄道交点一帯も急速に都市化しつつある。その中で絶滅危惧種もある。今、心配しているのは「踏切地蔵」だ。旧下北沢2号踏切は工事中だ。この側のお地蔵さんはまだあった。が、踏切安全を訴えるこの地蔵さんも線路がなくなったことで宙ぶらりんになっている。
 この慰霊碑には地域の歴史が刻まれている。街の発展過程を記したこれは残して置くべきだ。

 私たちの忘年会では、建物や風景が話題になった。
「下馬にある野砲兵兵営が、この間行ったら、半分が壊されていた。あんな貴重なものがたちまちにして壊されてなくなる。今残っている半分だって何時壊されるか分からない。保存を強く訴えていきましょうよ」
 我々はこれに皆同感だった。が、一つ一つが忘れ去られつつある。

 世田谷代田駅からの富士の眺めというのも大きな話題になった。もしかしたらこの景観も失われてしまうかもしれないとの指摘があった。

 世田谷代田駅は、尾根筋道堀之内道を横断していく。その箇所が世田谷代田一号踏切だった。北沢川左岸の背尾根にあるここは富士見景観としてもよく知られていた。

 かつて駅の跨線橋には富士見窓があった。旧下北沢5号踏切跡に建った跨線橋にもこの窓があったほどである。

 世田谷代田駅からの富士見景観はぜひ後世に残したい。

(三)
 小田原急行鉄道は富士を目がけてひたすらに線路を敷設していった。それは開業当時に作られた鳥瞰図によってもはっきりと分かる。富士こそが小田急の命だったと言える。

 世田谷代田駅からの富士の眺めは抜群だった。これに今もなお深い郷愁を感じている人もすくなくない。

 話題になったことは、記録だ。世田谷代田駅からの富士の景観を描いた文章がないか?。単純にそれがいいから残せでは通用しない。価値を訴えるにはプロセスを証明するものを探し出し、それを提示する必要がある。

 世田谷代田駅にまつわる富士見景観、これを記録したものがないか?。広く呼びかけていこうということなった。

 皆さんありませんか?。
(上、忘年会で作道明さんのマジック、下、旧下北沢2号踏切脇の地蔵尊)

rail777 at 20:00│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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