2013年12月16日

下北沢X新聞(2464)〜旧陸軍桶川飛行学校取材行2〜

P1040367
(一)
「そこの荒川の太郎右衛門の橋の上に来ると、真ん中あたりで四、五人の男が大きな日の丸の旗を振っているんですよ。見送りですね」
 昭和二十年四月五日、桶川飛行場から九九式高等練習機十二機の特攻機が飛び立った。その偵察員席に同乗しいていたのが柳井政徳さんだ。
 彼もその人々に「さようなら」と手を振った。特別な感慨があったという。

「さようなら」は、別れの言葉だ。別離のときに使うもっとも代表的なものだ。

 このさようならは、「左様ならば」から来ている。「そのようであるならば…(まあ、ここでお別れしましょうか)」、お別れを明確に言ったものではない、別れを漠然とぼかしているものだ。主体的な意志表示ではない。田中英光は言う、「『さようなら』という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。」(『さようなら』)と。彼はさらに手厳しく、これには「ヒュウマニテも感じられぬ。」と断言する。

 言おうにも言えなかったという長い歴史を背負っていたということはある。指導者、支配層の強さ、それは圧政の歴史だった。市民、庶民は長い物には巻かれるしかなった。

 戦争を采配する者たちは、物言わぬ市民を知り抜いていた。兵隊は機械の単なる部品程度にしか考えていなかった。そういう歴史である。特攻作戦というのも、支配層が日本人の民族性を活用したものと考えてもいい。兵隊にごちゃごちゃいうものはいない、「どうせ長い物には巻かれろ」と思っているんだ、そこを利用すればいいんだぐらいなものだろう。無意識にそういう考えが働いたということはあるだろう。

 「さようなら」は、今も毎日使われる。が、この言葉の背景には長い民族の歴史があった。いえばその民族性は、根本的に変わっていない。

 例えば、特定秘密保護法は、民意と政治とが大きく乖離したままた強硬採決された。民主主義は反古にされた。これで体質が分かる。一つあれば、二つある。意見を汲み取って社会を動かしていく、民主主義の基本だ。どうもその民意がないがしろにされつつある。否応なしに、また再び戦場に行かされる危険性を未来に感じる。


(二)
「艦載機に襲われたときには、墓に逃げこんではだめなんですよ」
 柳井さんから聴いた話だ。桶川飛行場にいるときに機銃掃射されたことがあるそうだ。
「墓石がいっぱいあるから大丈夫だろうと逃げこむのです。すると弾が墓石にはね返ってそれがとんでもないところから飛んでくるんですよ」
 墓石に弾が当たってクキィン、クキィンと鳴って、はね返って飛んでくる。
「それがね、どこから飛んでくるかわからないのですよ」
「墓に弾が当たって、そこに穴が空いて、斜め下に飛んで来るのです」
 このことは経験しなければ分からない。しかし、平和な時代において「戦闘機が来たら墓に逃げこむな」という戒めはほとんど意味をなさない。

「私はね、最初は話すつもりはなかったんですよ。」
 戦争経験のことだ。桶川から出た唯一の特攻機に同乗して行ったことは証言者としても重要だった。しかし、生き残ったことへの負い目があったようだ。

  一度、飛行機に乗って、行を共にするとその機に愛着が湧いてくるものらしい。

(三)
 満州新京から飛び立った武剋隊の九九式襲撃機には整備員が付き添った。行をともにするうちに自分達も出撃するんだという気持ちになった。
 沖縄中飛行場について特攻機が飛び立っていくときに同乗継続を願ったら、隊長廣森中尉はその申し出を拒絶した。
 同乗整備員は、機への同情が湧く。柳井さんにもそういう思いがあったように思う。



rail777 at 20:00│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔    星