2013年12月24日
下北沢X新聞(2469)〜代田散歩:地形と街並と人間2〜

(一)
代田橋は土臭くて面白い。辺境にあるからだろう。淀橋台の地形の屈曲部分に自ずと境界が敷かれたのではないかと思う。あちらは豊玉郡、こちらは荏原郡である。
交通路線においてもここ代田橋には境界があった。それは区間運賃だ。京王線の起点駅は新宿だ。まず新宿から改正橋(現初台)までは一区で運賃は四銭だ。つぎの二区、代田橋までは八銭である。この運賃境界駅は重要だ。
現代人の感覚では理解するのが難しいが運賃の四銭の差は大きい。代田橋以遠は八銭となる。どうしたか皆、交通費を浮かそうと歩いた。駅前の伊東薬局は運賃境であることからここに薬の卸問屋を開いたという。西の方から唐草模様の風呂敷を背負った薬局の小僧さんたちがやってきた。えっさかほいさか歩いて薬を仕入れに来ていた。
京王線二区運賃の末端は、当然のことながら手前の笹塚よりも下宿代が安い。そういえば思い出した。代沢小で代用教員をしていた坂口安吾は、最初学校の近くに下宿していた。ところがそこの娘、大女に惚れられて弱ってしまった。それで学校の主任が営んでいる下宿屋に引っ越してくる。これがやはり代田橋にあった。
昭和初期ぐらいからは一帯には、下宿屋ができた。駅近くの玉川上水沿いに古びた大谷石の門柱が建っている。右の門柱には「代田荘」とあり、左には「御下宿」とある。
地方から出てきた小倉服を着た男は、ここに立って、「頑張らなくてはいかんな」と思った。辛いこともあったが、何とか乗り切った。「御下宿」の思い出だ。
代田橋近辺には物語が眠っている。和田堀浄水場は五十メートル、この高さから水を供給すれば丸ビルへも供給できる。そんなことで当地に作られたと聞く。いつだったかその近辺を歩いていたら、お婆さんがいて、「私丸ビルでタイピストをしていたの」と。

(二)
大原GOGO公園には活発な女の子二人がいた。歴史に興味を持っていた。多摩川左岸の古墳群に「おじちゃんたちも行ったといったら」、話が弾んだ。将来の歴女が生まれるかもしれない。
この公園の近くに福田正夫旧居があった。昭和二十年五月二十四日、二十五日に一帯は空襲を受けほとんどが焼けてしまった。
焼け残った人たちは、トタンを集めてきて屋根をつくり、取り敢えず雨風を凌げる壕舎を作った。
キリヤコンキリリコンコロロン
壕舎は啼きますうたひます メゾ・ソプラノの擅音(トレモロ)で
うたはせるのは風なのですね
微風にさへもキリリコンコロンと焼けトタンのきしり鳴き
物侘びしげな様子が音によく現れている。この風こそ下手、吹上げから吹いてきて、そして中原で少し勢いをつけ、大原では、壕舎はトレモロを響かせる。土地ならではの音だ。
(三)
やっぱり代田は、ダイダラボッチが面白い。右足の、親指の辺りで説明をしていたら自転車に乗って通り掛かった人が停まった。
「私はここから電信柱五六本向こうに住んでいます。先生には学校で御世話になった双生児の〇〇です」
そういわれたのだが、顔が浮かんで来ない。



















