2013年12月27日

下北沢X新聞(2471)〜代田散歩:地形と街並と人間4〜

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(一)
 ダイダラボッチは単なる奇譚ではない。代田地域固有の伝承である。特記すべきは多くの固有伝承が消えていった中でこれが残ったことの意味は考えるべきだ。柳田国男もこの問題に関連して『自分たちはこれを単なる不思議と驚いてしまはずに、今すこししんみりと考えてみたい」と述べている。

 ダイダラボッチが今の箇所になぜにできたのか。地形形状は大きな影響がある。先に、淀橋台から分岐した「代田半島」の縦ラインの字名を記した。荻久保、大原、中原、吹上、砂利場 である。北から順に並べたものだ。北端の荻久保は神田川に転がり落ちる傾斜だ。その南手は玉川上水を戴いている尾根だ。みなみには微傾斜で順次下っている。

 この場合、背尾根となる玉川上水は、44、5メートルだ。微傾斜で下って、ダイダラボッチの低いところでは、37,2メートルほどだ。最高地点より、七、八メートル低い。一般的に湧水は関東ローム層の下部と武蔵野礫層の下部から出てくる。このダイダラボッチの場合もそうだろう。大原一帯の浸透水を集める役割を果たしていた。

 ちょうどこの箇所は、西の丘から流れてきた宇田川湯を源流とする流れ、それと北から流れてきたダイダラボッチ川が合流する地点である。その箇所に湿地帯ができていた。柳田国男は、ここを訪れ、調査した。

 ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研(やげん)になって居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。ダイダラボッチとなる。
 「ダイダラ坊の足跡」 柳田国男集 筑摩書房


 民族学者は北から歩いてきた。堀之内道だろう、そこから左手に見えてきたのがその箇所である。ざっと見積もるとその大きさは、長さ180メートルほどだ。足は爪先あがり、下北沢方向を向いている。そこに大きな窪地が形成されていた。彼はすでに、伝説やいわれは承知している。こここそがダイダラボッチだと。代田とダイダラボッチの地名関連も当然であるという書き方だ。

 

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(二)
 ダイダラボッチ伝説は人々の想像力の問題である。長い長い口承伝承の時代を経てほそぼそと受け継がれてきた。

 一つには、生活用水に欠かせない水源であったことによるものだ。ゆえに、この池には水の神様である弁財天を祀っていた。

 もう一つには、話の色合いや意義付けがある。老翁が口承でもってうけついでいた。
「代田は、中原にしても、大原にしても広いところじゃ。東を見れば、遠くには筑波嶺、そして男体山もみえる。西に目を転じると、丹沢の上には富士、もっと北に行くと秩父連山、その向こうには淺間山があるんだ。なあ、ダイダラボッチは、キセルで煙草を吸うときは、長い長いキセルを淺間までのばして火をつけたんだからな…」

 土地の旧家の囲炉裏で老媼や老翁がこの話を伝承してきたのだろうと思う。
彼らなりに特別な土地という思いはあった。ダイダラボッチ伝説のあるとこには近隣に古墳があるというのが条件でもあった。まさにこの場所は、縄文中期の包蔵地にあたる。

(三)
 代田地域に、ダイダラボッチ伝説が口承されていたことは興味深い。ここに土地に眠る大きな文化である。このことは土地の形状と大きく関わることだ。当時、武蔵野一帯が緑におおわれていたとき、高台からは三方向に特徴的な山が見えた。見える山を想像の手掛かりにしてダイダラボッチ伝説を作りあげたのはあるだろう。

 もっと深い問題がある。
氷河期は海面が浅く北海道と大陸とは地続きであった。北方民族がマンモスなどの獲物を追って南下し日本に定住した。彼等のミトコンドリアDNA分析では、「N9b」が顕著に見られるという。この遺伝子は、北海道縄文人では、65パーセント、東北縄文人では、60パーセント、関東縄文人では10パーセントが含まれているという。北方渡来というのは科学的にも説明できるものだ。「わたしたちはどこから来たのか」(NHKBS)

ダイダラボッチがどのように伝わり、これが土地の名称としてどのように使われるようになったのか。恐らくは大和朝廷成立以前の問題である。そういう深い深い問題が、わりげなく代田半島のあちこちに転がっている。

 この問題は、単なる怪異的な伝説としてしまわないで、「今少ししんみりと考え」、土地の誉れとしての伝説を再構築する必要がある。世田谷代田駅前広場には「ダイダラボッチの足跡」が計画されているが、それまでにはしっかりと考えたい。(了)

〇上の写真は代田半島の先っぽ。キャロットタワーが見えている。下の写真は表札「十」だけが見えている。「七島寮」だ。工事で壊されつつある。

要望
 「七島学生寮」の表札の保存
 この表札をもらいたいのです。つまり、下北沢地域には相当数の寮があった。これも文化現象の一つだ。多分近々壊され、この表札も捨てられるのではないか。これを手に入れて保管したいのですがルートはありますか。


rail777 at 20:00│Comments(2)││学術&芸術 | 都市文化

この記事へのコメント

2. Posted by きむらけん   2014年01月05日 20:17
[十島寮看板]
 
 小笠原村は権利を移譲したことから現地主への要望は多分難しいと思います。むしろ、工事をしている人に事情を話し、譲ってもらうようにすれば可能かもしれません。

 「北沢川文化遺産保存の会」の展示館みたいなものができるといいとは思っています。学校が消えてなくなる花見堂とかの学校に展示室を作ってもらうといいとは思いますが……
1. Posted by 三島啓介   2014年01月05日 06:53

小笠原村のHPには「財団法人七島学生寮」があったので、「総務課総務係」にといわせてみては如何でしょうか。


http://www.it-ogasawara.com/sonmin/useful/pdf/education.pdf


平成16年に廃寮になったとあります。

http://chichipen-blog.seesaa.net/article/688134.html

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