2014年02月09日

下北沢X新聞(2499)〜赤い屋根の『小さいおうち』はどこ8〜

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(一)
 彼との出会いはもう何年前のことになるだろう?。数年前の春、安吾文学碑前で、例によって下北沢文士町地図を配っていた。そのときにミュージシャンの明石隼汰さんが現れた。代沢小の疎開学童が唄っていた歌について長く話し込んだのを覚えている。

 戦時中、疎開先で代沢国民学校は特異な音楽文化を育んでいた。皇民化教育一色だった中で、楽器を演奏したり、自分達の寮歌を唄ったりしていた。劣悪な環境の中で音楽が大きな影響を与えていたのでは?そんな話をしたように覚えている。

 明石さんは、『小さなおうち』を読んで、舞台は世田谷だと思ったという。この指摘に端を発して、私自身本を買いに行き、その「おうち」はどこか?。この推理を長々と楽しんできた。そろそろけりをつけなくてはならない。

 この物語、最終章に入ると語り手が変わる。「僕の大伯母、布宮タキが、戦後初めて東京に出たのは、昭和二十一年の正月だった」と描かれる。
 亡くなった大伯母と親しくしていた私の視点で描かれる。戦後になって彼女は「おうち」を訪ねて行った。ところが、「タキが住んでいた東京郊外の西北エリアも、五月二十五日の山の手大空襲ですっかり焼き払われてしま」っていた。その場所が次第に明らかにされる。地域が絞られてくる。

 なんだか多摩川あたりに思えるけれど、当時の郊外はもっとずっと都心に近く、彼女が私鉄と呼んでいたのは新宿から西に延びる鉄道の一つで、赤屋根の洋館があったのは、新宿からそう遠くない、今では高級住宅地に数えられている地区だ。
 

 「新宿から西に延びる鉄道」、この私鉄も絞り込まれる、京王と小田急だ。前者は市内線延長タイプ、後者は、急行の名がつくとおり、郊外へ素速く旅客を送り込むことを狙いとしている。速度に見合った家々が沿線に建った。赤いおうちもあれば白いおうちもあった。小田急に間違いない。


(二)
 「彼女が地名を駅名も明かしていない」、それで、私は「だいたいこのあたりと聞かされた場所へ行ってみれば」。

 そこには広い幹線道路が走り、これから先も再開発と整備が予定されている地区とのことだった。地元の図書館で調べた情報によれば、空襲で建物が一切なくなった際に、大規模な区画整理や道路整備が行われたので、その土地はかつての風貌をまったくとどめていないらしい。
 

 最終章にかかって話は具体的になってきた。一帯は5月25日の山の手空襲で丸焼けになった。そこには「広い幹線道路」が突っ切っている。

 小田急沿線地域で広範囲に焼けた箇所は一つしかない。すなわち、代田、大原地区だ。ここをオリンピック道路、環状七号線が縦貫している。

 この道路に関しては「再開発と整備が予定」とある。下北沢の北を横断する都市計画道路補助54号線のことではないかと考えられる。

 「小さなおうち」は物語だ。だからその場所を無理に当て嵌めて考えることもない。が、一つ一つ見て行くと当てはまってしまう。

(三)
 昭和二十一年正月、布宮タキはあのおうちを訪ねる。ところが、そこには「焼け残された石造りのポーチ」だけが建っていた。

 そこに座り込んでいるとかつての知り合いに偶然出会う。その彼に「促されて、タキは駅の反対側の、奇跡的に焼け残った地区に住む知人を訪ねた。」

 「おうち」があったのは、駅の北の方である。こちらは広く焼けた。実際、世田谷中原の北は焼けている。駅の南はどうか、東側は焼けた。が、代田八幡神社の前辺りは焼け残った。その辺りに知り合いは住んでいたのだろうか。
 
 訪ねて行った先で、布宮タキは、「平井夫妻が防空壕で亡くなった」ことを知る。「赤屋根の家の持つ庭の、椿の木の下」にあった防空壕で……。

話のけりをつけようと思ったが……
(写真は、駒沢公園で今日撮ったもの)


rail777 at 20:00│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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