2015年07月07日

下北沢X物語(2832)〜代田春宮家所蔵疎開学童資料分析2〜

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(一)「戦後七十年」、これを迎える終戦記念日が近づいてくる。大きな節目となることからしきりとこの言葉が使われる。が、この内容は危難、危機である。圧倒的なリアリティ持った戦争経験の記憶がどんどんと抜けて行くという恐ろしさだ。戦場での経験、原爆被爆経験、疎開経験など一切合切が闇に葬られようとしている。

 戦争末期になっての学童たちの強制疎開のことも忘れ去られてつつある。この学童疎開について「都会地の児童の生命を戦禍から守る目的であった。その意味からいえば大事業は成功した」と浜舘菊雄は『学童集団疎開』(太平洋出版社)でいう。が、ここが大事だ。「直接児童補導の任に当たったわれわれ教育者のたちばから見たときは、完全な失敗であったことを率直に認めないわけにはいかない」とこの方策への批判をしている。浜舘は、その内実を「異常心理がかくされ、自己をあざむいた虚偽の精神生活に終始した」と衝く。
 強制的に隔離された疎開学童は精神が安定せず異常に陥り下級生や仲間を徹底していじめ抜いた。裸にされた女児を血祭りにして徹底的に肉体の欠陥を言い合う。自分の番も回ってくるから恐怖だ。異常心理の中で徹底してけなす、色が黒い、形が悪いなど。凄惨ないじめである。

 仲間同士の虐めもある。また、疎開先の地元の子との軋轢もある。

「皆さんのお話では疎開に行かれたという方々が中心です。が、私は受け入れた方の農家に住んでいました。農家だから食べ物が豊富だろうと思うわけですが、そうではないのです。一つは疎開学童への供出、それから国への供出、その頃米は多くはできないのですよ。反辺り六俵でした。こちらが飯米に困るくらいでしたね。それで都会から来た疎開学童は皆地元の子にさんざん虐められたと言われます。けどね、全く違うのですね、私らは田舎でのんびりと育っておりました。勉強なんかそうできるものではありません。が、都会から来た疎開学童は頭の回転がはやくみな勉強ができました。それで馬鹿にするわけですよ。そのことががまんできずに喧嘩となります。向こうは体力がないからやられますけど、それを虐めというのですね。私たちの方がどれだけ心を傷つけられたか……」
 先だって第8回「戦争経験を聴く会、語る会」を開いたが、受け入れ側だった人が証言をした。

 戦時に疎開が行われた。二度とこんなことはないだろう。が、先の原発苛酷事故があって放射能から学童を守るために疎開させるというのもあった。戦時中の虐めを経験している人が、疎開は絶対にしてはいけないと言っていた。



(二)
 お母さんお元気ですか。ぼくも元気です。三十日に荷物がつきました。もうおかしが送れなくなりました。こんどはめんかいがあるそうです。ミーが大きくなったとの手紙を見ました。知也たちは今なにをしていますか。学校は田んぼの道をとほつていきます。と中のところにはくるみの木があります。小柳には毎日自動車が来ます。この間は吉田中大さがはなしをしてくれました。またこんどハガキをおだしします。ではさやうなら
 
 疎開先の小柳旅館から春宮惇君が、世田谷にいる母親に出した手紙である。消印は10月10日となっている。
 腹を空かせた学童は一斉に「おかしを送れ」と自宅に手紙を書いた。が、東京も物資が欠乏している。手当をして送った親もいたがお菓子の来た子こない子の差があまりにも大きくて先生方はお菓子を家に送れと書いてはならぬと指導したのだろう。
 彼らは旅館で座学を受けていたが、何回かは、地元の学校、岡田小学校に通っていた。御真影のあるところに通う必要があったからだ。
 19年10月の段階である。松本五十連隊から大佐が来て講話などをしたのだろう。

 年が明けて20年1月の消印のあるものには、「夜はけいかいけいはうがでました。はんしようがとても大きな音でなりました。とてもうるさかったです」
 敵の爆撃機B29が飛来してくるようになった。戦況は悪化してくる。
満州の特攻兵から生内泰子さんにきた葉書絵
(三)
 3月になると小柳の湯にも特攻兵がやってきた。下級生だった春宮惇君はこのあたりのことは分からない。が、当時五年生だった小市泰子さんは彼らと接している。彼らは一旦は、松本飛行場を飛び発って九州新田原へ飛んでいる。ところがどういうわけか特攻には行かず満州へ戻っている。その彼と文通をしていた人がいる。山崎小の彼女に会って話を聴いたことがある。

「山崎小の学童はやはり山の手の子ですね。色が白くて垢抜けています。特攻隊員は地方出の青年が多かったのです。都会から来た子には憧れを持ったと思います……、そうだ、小市さに聞きたいことがあります。小柳の湯の特攻隊員の中に坂本わたるさんという人はいたのですよね?」
 もっとも私が知りたかったことである。
「はい、おりましたね」
「その時の印象はどうだったのですか?」
「何かね、そのときはずっと若い、少年みたいな…、お兄さんという感じだったの」
「そうすると、イメージとしては白いマフラーを巻いたお兄さんという印象ですね。わかるなぁ」
 当時の男の子でも見ほれた姿だ。女子が憧れないわけはない。
「それで、満州から、可愛い女の子の絵を送ってきたでしょう……、そんなことから自分でも相手のイメージを膨らませていたのかもしれません」
「ということは、手紙のやりとりをしていたということですよね?」
「私も一生懸命手紙を出したり、向こうからも来たりしたんでしょう。その手紙と手紙の間で空想というの?…。それぞれに思いを高めていたのでしょうね」
 坂本さんも恋の夢を見、彼女もまた彼の面影をイメージの中で作り上げていた。
「それがね、戦後だいぶ経った頃に、その坂本さんが大坂から上京されて、家を訪ねてきたのですよ。ところが会ってびっくりしたの。もうそのときはすっかりおじさんになっていたのね……」
 彼女の「乙女心が吹っ飛んだ」という場面である。
「その後、いっぱい持っていた手紙は捨ててしまいましたね……」
 この話を聞いて、私は時の残酷さを思った。それと、もう一つ思ったことがある。特攻の物語が伝説化されていないかということである。
 言えば、特攻で死んだ者の物語は、時の断面の物語だ。死んだことでそこで時が停まっている。それが遺影として飾られていたり、備えられていたりする。死んだという事実はあまりに大きい。それを見ただけでもう頭が上がらなくなる。特攻で突撃して死んだという事実は、人に有無を言わせないものがある。(了)
(写真上は春宮家疎開学童資料にあるハガキ、「小柳の湯」この写真は往時を写したものとしては貴重だ。.下は満州からきたイラスト入りのハガキ)
・注記 記述の(三)は、自著『特攻隊と褶曲山脈−鉛筆部隊の軌跡』からの引用である。


rail777 at 20:00│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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