2016年12月12日
下北沢X物語(3176)〜洗足池妄想幻想行〜
(一)家の前は呑川遊歩道だ、足が左に向かうと下流の大田区、右だと上流世田谷区だ。その日の気分によるがこのところ南を選択することが多い。遊歩道沿いにいくと目黒線、ここを越えると開渠になって川が姿を現す。すぐに大田区に入る。石川台まで下ると鉄橋が見えてくる。この右手に十六階建てのマンションが聳えている。いつも必ず見上げる。詩人石垣りんが住んでいた。「私が住んでいるアパートの三階と平行の高さで、少しはなれた土手の上を、私鉄の電車が横一文字に走っている。」(『焔に手をかざして』)その電車は池上線だ、三両編成がのんびりとコトコトと走っている。石垣りんという詩人と池上線の三両編成は絵としても詩としてもフィットしている。この頃思うのは大田区が老熟した文化都市であることだ。のんびり感漂う、大田区、その象徴が池上線である。東急線ではある、本線は東横線である。こちらの線には各駅ごとに東急ストアがある。が、池上線にはない、東から順にスーパーの名を言うと長原駅は、オリンピック、洗足池駅は、トップ、石川台駅はピーコック、雪が谷大塚は、オオゼキである。スーパーの出店風景にローカル感が滲み出ていて興味深い。
石川台駅には希望ヶ丘商店街がある。キャッチは、「未来をみつめてウィルビーロード」である。今は歩きでいくが、自転車時代からよく通る街だ。
「なんかここもすっかり寂れてしまいましたね」
数ヶ月前だ、会員の川口信さんに出会った。彼の家は近い、洗足池でもよく彼にあった。この頃は姿を見かけない、どうしたろうか?
昨日は、洗足池まで行った。私が歩く範囲でもっとも風光明媚なところは洗足池である。東横線学芸大学そばの碑文谷弁天池もよく通る。この間、ここに切り刻んだ死体を池に捨てた若い男がいた。池の亀が肉片を食っていたと。捨てられたみどり亀がうようよいる。亀の天国は、どぶ臭く、かつ閉塞感がある。ボートに乗るなら、何といっても洗足池だ。
地理的には南から順に大田区、目黒区、世田谷区となる。開けたのは南部が先だ。文学の舞台としてもここは明治期の作品に出てくる。一番驚いたのは、明治四十年六月に発表された江見水蔭の『蛇窪の踏切』である。何とこの書き出しは「洗足小池」から始まる。
主人公は露代、姉が洗足池に別荘を持っていて、そこを訪ね、助力を乞うがけんもほろろ、この露代、結核を患っていた、大池、小池からは品川道の稲毛道があって道なりにいけば東海道線にぶつかる。ここの踏切で自死するという話だ。

(二)
昨日は思いついてこのそばにある図書館に行った。そして貸し出しカードを作ってもらった。
図書館ではどこの棚に行くか、やはりもっとも面白いのは地域資料である。とくに地方に取材に行ったときは重要だ。本棚にあるものは大概ISBNがついている。これはどこでも手に入る。が、地域のものはそこでしか閲覧できない。
早速借りたのが季刊『わが町あれこれ』第14号ー小特集・洗足池界隈ーである。小冊子だが、記事内容は豊富だ。冒頭エッセイは「北洗足再見」(大林清)である。劇作家北村小松のことを最初に記している。
その北村家から北千束駅方面へ坂を戻ると、その辺にまだ少女だった岡田茉莉子が母親と暮らしていたらしい。母親は松竹映画の美男スター岡田時彦の愛人だった。
自身は目黒区八雲の家を出た。わかってみるとなるほど、この北千束から私の家の隣に引っ越してきたらしい。家の隣は岡田茉莉子さんの家だった、結核を患った彼女の父が療養していた。一昔前の話では、呑川上流域は結核患者の家が多くあったと。
「榊の垣根は抗菌性があるんで、結核患者の住む家にはあったんだよ…」
お隣は確かに榊の生け垣があった。しかし、それもなくなり今は全く別人が住んでいる。
(三)
「わが町あれこれ」は、マニアックだ。『洗足池界隈文士往来年譜』は子細だ。
一九三二(昭和七)年 9.1 中原中也(詩人)北千束町六二一の淵江方に寄宿。
この場所は、洗足池の北側の丘上だ。中也はここに住んでいたときに南の方から響いてくる太鼓や鉦の音を聞いた。「十月の十二日、池上の本門寺」で始まる「お会式の夜」という詩がある。ここでの作詩である。
ここの現住所は、大田区北千束二丁目四十四番である。この南手が狢窪、つまりダイダラボッチが立って小便をした。そのとき左足が狢窪、右足が大岡山摺鉢山だった。狢窪の窪地に音は響いて詩人の耳に届いた。詩にはこうある。
来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。
吐く息は、一年の、その夜頃から白くなる。
遠くや近くで、太鼓の音は鳴っていて、
頭上に、月は、あらわれている。
詩の生まれた土地、前にこの場所は探したことがある。そこで詩が生まれたのか?そう思って今日その場所へ行ってみた。
近くに行くとたまたま家から出てくる老夫婦がいた。「お会式の夜」に音は聞こえてくるのかと問うた。
「あんた、そんなの初めて聞きましたよ、私はずっとここに住んでいますけどね。お会式のときに鉦や太鼓が聞こえることなんてありません…」
にべもない返答だ。
この一言ですべて了解をした。中原中也はここから電車で池上にいったんだ!」
北千束駅から電車に乗って旗の台で池上線に乗り換えて寺にお詣りをした。昭和七年十月十二日のことだ。
(上、洗足池、下、北千束二丁目四十四番地、左手)
この記事へのコメント
4. Posted by きむらけん 2016年12月18日 17:34
[お会式の夜の万灯行列]�兇�
確かに、千束の家で音を聞いていたとも。詩の最後に
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとおす、
太鼓の音の、絶えないその夜。
とあるところから、ふと、池上まで彼は歩いていったのかとも思いました。
確かに、千束の家で音を聞いていたとも。詩の最後に
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとおす、
太鼓の音の、絶えないその夜。
とあるところから、ふと、池上まで彼は歩いていったのかとも思いました。
3. Posted by 千束村住人 2016年12月18日 10:09
[お会式の夜の万灯行列]��
何よりも北千束の丘上を想像したのは、
「頭上に、月は、あらわれている。」
の一文です。
ここは、東から上ってくる月がよく見えて、
大きくて綺麗なのです。
高い建物のない当時はなおさらだったのではないかと。
川瀬巴水の描いた「馬込の月」ならぬ「千束の月」といいたくなるほど
月の名所だと個人的には思っています。
目蒲線の線路際に立ち、中也が月を見上げている情景を思い浮かべてしまいます。
何よりも北千束の丘上を想像したのは、
「頭上に、月は、あらわれている。」
の一文です。
ここは、東から上ってくる月がよく見えて、
大きくて綺麗なのです。
高い建物のない当時はなおさらだったのではないかと。
川瀬巴水の描いた「馬込の月」ならぬ「千束の月」といいたくなるほど
月の名所だと個人的には思っています。
目蒲線の線路際に立ち、中也が月を見上げている情景を思い浮かべてしまいます。
2. Posted by きむらけん 2016年12月14日 18:33
[お会式の夜の万灯行列]
中原中也が住んでいた洗足の家で鉦や太鼓の音を聞いていたと私自身も思っていました。しかし、地元の住民の方が言われるので聞こえなかったのかなと。
「お会式の夜」には、「東京はその夜、電車の終夜運転」と二回も出てくるので中也も池上に行ったのかなと。
確かに池上道を練り歩く人も当時はいましたね。どう読み取るかおもしろいものです。いずれにせよ土地のにおいのする文学であり、詩ですね。
中原中也が住んでいた洗足の家で鉦や太鼓の音を聞いていたと私自身も思っていました。しかし、地元の住民の方が言われるので聞こえなかったのかなと。
「お会式の夜」には、「東京はその夜、電車の終夜運転」と二回も出てくるので中也も池上に行ったのかなと。
確かに池上道を練り歩く人も当時はいましたね。どう読み取るかおもしろいものです。いずれにせよ土地のにおいのする文学であり、詩ですね。
1. Posted by 千束村住人 2016年12月14日 18:07
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[お会式の夜の万灯行列]
高齢の母からよく聞いていたのが、昔は(おそらく昭和30年代)、
南千束3丁目辺りでも、大岡山南口商店会の通り(東工大正門前の道)を、
白装束姿の人たちが中原街道に向かって列をなし、鉦や太鼓の音でたいそう賑やかだったそうです。
この通りは古道池上道でもあるので、そうした行列が本門寺まで延々と続いていたのでしょうね。
昭和のはじめ頃のお会式の夜には、北千束の丘の上だったら、それこそ“遠くや近くで”太鼓の音が響いてきていたのではないかと想像してしまいますが…。
[お会式の夜の万灯行列]
高齢の母からよく聞いていたのが、昔は(おそらく昭和30年代)、
南千束3丁目辺りでも、大岡山南口商店会の通り(東工大正門前の道)を、
白装束姿の人たちが中原街道に向かって列をなし、鉦や太鼓の音でたいそう賑やかだったそうです。
この通りは古道池上道でもあるので、そうした行列が本門寺まで延々と続いていたのでしょうね。
昭和のはじめ頃のお会式の夜には、北千束の丘の上だったら、それこそ“遠くや近くで”太鼓の音が響いてきていたのではないかと想像してしまいますが…。



















