2017年06月02日
下北沢Ｘ物語(3291）−浅間温泉疎開七校最終授業案−
（一）組織は縦割りが主だ、横断的に情報を知るには聞き込みしかない。ここ数年、松本浅間温泉に疎開していた学童のことを調べてきた。当地には世田谷から七校の学校が疎開してきていた。昭和二十年三月、連合軍はいよいよ沖縄を攻めてきた。これを迎え撃つための天号作戦が命令された。これに伴って準備のために多くの特攻隊が松本浅間温泉に来ていた。一校の学童が飛来してきていた彼らと接していた。一つあれば二つある、しかし、学校の組織、同窓会は縦割りが主だ、横断的な情報は個別に当たらないと分からない。七校全部に一つ一つ当たって、戦争末期において松本が天号作戦の一つの本拠地だったことがようやっと分かった。疎開学童は数多くの資料を残している。手紙、日記、作文などだ。これらに当たると当時の軍の動きが分かる。例えば、飛行機好きの少年は重爆撃機キ６７「飛龍」の飛来記録を克明に残していた。戦後、軍関係の資料はほとんどが焼却され残っていない、が、疎開学童が所持するものには多くの事実が書き残されている。これらを丹念に集めれば失われた戦争史がよみがえるのではないか。
先の、戦争経験を聴く会、語る会で、今後、これを継続していくにはどのようにしたらよいか提案をしてもらった。元山崎国民学校の疎開学童長谷川直樹さんは一つの案を出された。
「浅間温泉へは、世田谷から七校の学校が疎開して行っている、もう多くの人が高齢化してきている、今まで、この人々が一堂に会することはなかった、これを一回開いてみてはどうか…」
これまで十回会を行っていたなかで疎開のことは何度か取り上げた。それで疎開学童だった人が多く参加された、いつも参加されていた方がこられなくなったというのもある。この企画何度も開けない、行うとすれば最初にして最後となる。が、戦争史の一端を語るものになるかもしれない。行う価値はある。
（二）
浅間温泉に疎開していた七校は昭和二十年の正月に実は一堂に会している。つぎは、その場面を記録したものだ。自著から引用する。
「富貴之湯」は木造三階建ての大きな旅館だった。ここには代沢校のとなりの学区、東大原校の学童が疎開していた。収録は舞台も備わった百畳敷きの大広間で行われた、七校の代表が一堂に会したが、互いに見知らぬ者同士である。
「皆さん、これから録音を行います。この放送はこの『松の内』に放送されます。東京にいるお父さんやお母さんはきっと聞いているでしょう。大事なことは元気な声を聞かせることです。力づよく歌ったり、演奏したりしてください。お友達がよく歌えたら元気いっぱい拍手を送ってください。じゃあ拍手の練習をしましょうか。私が右手を上下に振ったら拍手です、いいですか……」
番組の司会者が所作をする。これに学童達は大きな拍手をして応えた。
「よしよし、その調子です。拍手のところでは拍手、それと学校によっては漫才をするところがあります。そのときには思いっきり笑ってください…じゃあ、笑いの練習です、笑ってください」
「……………」
誰も笑わない。疎開地に笑いはなかった。笑えといっても無理である。司会者は立ち往生してしまった。そこに助け船を出したのが代沢校の教員だ。
「ハマカンだ！」
舞台に立ったのは浜館だ。真面目な顔をして舞台の中央に出る、両手で顔を覆う、外したとたんひょっとこ顔、しわくちゃ顔、猿顔、蛸顔、お得意の百面相である。
「ゴッホホッホ」
宴会場は異様な笑い声に満ちた。
「先生、笑い声が大きすぎて録音できません、済みませんもうすこし控えめに」
放送局員から注文が出たほどである。会場の空気がすっかり柔らかくなったところでアナウンサーが出てきた。本番である。
皆様、明けましておめでとうございます。私は今、信州淺間温泉に来ております。ここには東京世田谷から約二千五百人ほどの学童がきていて、当地の旅館で疎開生活を送っております。新しい年がめぐってきましたがここの学童たちは元気いっぱいです。これからここの学童たちによる音楽演奏、合唱、漫才などをお送りします。東京のお父さん、お母さんぜひこの元気な声を聞いてください……
アナウンサーが右手を上下に振る。すると大きな拍手が鳴り響く。
それではまず一番手は代沢国民学校の器楽演奏倶楽部の合奏です。日本全国で器楽倶楽部というのはまだ少ないと思います。この学校で初めて生まれたものです。ここの総勢三十二名「代沢浅間楽団」が、「代沢浅間學園の歌」を演奏します。
浜館がオルガンを弾く。これに続いて団員がヘ長調の曲をゆったりと合奏した。歌うものはいない、一番だけの演奏だ。さっきの浜館の百面相が効いたのか団員は肩の力抜いた。それで木琴にせよ、ハモニカにせよ、アコーデオンせよ、よくそろっていた。
「ジャバラララ、ランだった」
帰り道、美奈は茂子に言った。
「お正月になって、東京のお父さんやお母さん聞いてくれるかなあ？」
「放送って日本だけなのかなあ、うちねお父さんが満州にいるの、あの黒い山のずっとずっと向こうが満州なんだよねえ」
「そうだったの」
二人は赤い夕焼け空の向こうに黒く尖っていシルエットを眺めた。北アルプスだ。
（三）
企画としての、「浅間温泉疎開七校最終授業案」は興味深いものだ。個別の情報が集まって歴史の実態が分かってくる。
この浅間温泉疎開組関連で言えば、三つの石碑が建っている。一つは松本市護国神社、ここの特攻勇士の像には、浅間温泉でふれあった世田谷の学童のことが記録として刻んである。二子玉川小は、浅間温泉から伊那郡中川村に再疎開した。ここには「学童疎開の碑」が建てられている。
代沢小の鉛筆部隊の疎開先塩尻郷福寺では寮歌が歌われていた。『鉛筆部隊と特攻隊』は、この歌を端緒として紐解かれたものだ。この寮歌を刻んだ石碑がこの四月に建ったとのこと。疎開先の児童と交流を持ったという母を持つ、息子さんが昨日知らせてくれた。
三年前ほどに郷福寺で講演をしたが、どうも住職は内容が気に入らなかったらしい、このとき以来寺とは疎遠になった。寺側は、歴史的な意味を持った寮歌の存在は知らなかった。あるとき『鉛筆部隊と特攻隊』をたずさえた人が訪ねてきて知ったという。
浅間温泉に疎開していた七校は昭和二十年の正月に実は一堂に会している。つぎは、その場面を記録したものだ。自著から引用する。
「富貴之湯」は木造三階建ての大きな旅館だった。ここには代沢校のとなりの学区、東大原校の学童が疎開していた。収録は舞台も備わった百畳敷きの大広間で行われた、七校の代表が一堂に会したが、互いに見知らぬ者同士である。
「皆さん、これから録音を行います。この放送はこの『松の内』に放送されます。東京にいるお父さんやお母さんはきっと聞いているでしょう。大事なことは元気な声を聞かせることです。力づよく歌ったり、演奏したりしてください。お友達がよく歌えたら元気いっぱい拍手を送ってください。じゃあ拍手の練習をしましょうか。私が右手を上下に振ったら拍手です、いいですか……」
番組の司会者が所作をする。これに学童達は大きな拍手をして応えた。
「よしよし、その調子です。拍手のところでは拍手、それと学校によっては漫才をするところがあります。そのときには思いっきり笑ってください…じゃあ、笑いの練習です、笑ってください」
「……………」
誰も笑わない。疎開地に笑いはなかった。笑えといっても無理である。司会者は立ち往生してしまった。そこに助け船を出したのが代沢校の教員だ。
「ハマカンだ！」
舞台に立ったのは浜館だ。真面目な顔をして舞台の中央に出る、両手で顔を覆う、外したとたんひょっとこ顔、しわくちゃ顔、猿顔、蛸顔、お得意の百面相である。
「ゴッホホッホ」
宴会場は異様な笑い声に満ちた。
「先生、笑い声が大きすぎて録音できません、済みませんもうすこし控えめに」
放送局員から注文が出たほどである。会場の空気がすっかり柔らかくなったところでアナウンサーが出てきた。本番である。
皆様、明けましておめでとうございます。私は今、信州淺間温泉に来ております。ここには東京世田谷から約二千五百人ほどの学童がきていて、当地の旅館で疎開生活を送っております。新しい年がめぐってきましたがここの学童たちは元気いっぱいです。これからここの学童たちによる音楽演奏、合唱、漫才などをお送りします。東京のお父さん、お母さんぜひこの元気な声を聞いてください……
アナウンサーが右手を上下に振る。すると大きな拍手が鳴り響く。
それではまず一番手は代沢国民学校の器楽演奏倶楽部の合奏です。日本全国で器楽倶楽部というのはまだ少ないと思います。この学校で初めて生まれたものです。ここの総勢三十二名「代沢浅間楽団」が、「代沢浅間學園の歌」を演奏します。
浜館がオルガンを弾く。これに続いて団員がヘ長調の曲をゆったりと合奏した。歌うものはいない、一番だけの演奏だ。さっきの浜館の百面相が効いたのか団員は肩の力抜いた。それで木琴にせよ、ハモニカにせよ、アコーデオンせよ、よくそろっていた。
「ジャバラララ、ランだった」
帰り道、美奈は茂子に言った。
「お正月になって、東京のお父さんやお母さん聞いてくれるかなあ？」
「放送って日本だけなのかなあ、うちねお父さんが満州にいるの、あの黒い山のずっとずっと向こうが満州なんだよねえ」
「そうだったの」
二人は赤い夕焼け空の向こうに黒く尖っていシルエットを眺めた。北アルプスだ。
（三）
企画としての、「浅間温泉疎開七校最終授業案」は興味深いものだ。個別の情報が集まって歴史の実態が分かってくる。
この浅間温泉疎開組関連で言えば、三つの石碑が建っている。一つは松本市護国神社、ここの特攻勇士の像には、浅間温泉でふれあった世田谷の学童のことが記録として刻んである。二子玉川小は、浅間温泉から伊那郡中川村に再疎開した。ここには「学童疎開の碑」が建てられている。
代沢小の鉛筆部隊の疎開先塩尻郷福寺では寮歌が歌われていた。『鉛筆部隊と特攻隊』は、この歌を端緒として紐解かれたものだ。この寮歌を刻んだ石碑がこの四月に建ったとのこと。疎開先の児童と交流を持ったという母を持つ、息子さんが昨日知らせてくれた。
三年前ほどに郷福寺で講演をしたが、どうも住職は内容が気に入らなかったらしい、このとき以来寺とは疎遠になった。寺側は、歴史的な意味を持った寮歌の存在は知らなかった。あるとき『鉛筆部隊と特攻隊』をたずさえた人が訪ねてきて知ったという。
