2017年06月15日
下北沢X物語(3299)−宮脇俊三と北沢4の354−
○言語の基本は繋がりだ、が、今これが崩壊しつつある……私たちの伝統的な言葉観というものがある。歌や言葉が人々の幸福をもたらすという考えだ、まず、力を入れることなく世界を動かし、次に、人の目に見えない鬼神も感動させ、そして、男女の仲をやわらげ、さらに猛々しい武士の心さえも動かす、これは歌であり、言葉である。今から千百年も前に成立した『古今和歌集』は、言葉への賛歌を高らかに述べている。が、現今の政治や社会では、こういう言語観はまったくない。特に政治の世界で跋扈しているのは言葉が人々の不幸をもたらすという、逆行現象が起きていることだ。政府の責任者は後ろに狸の尻尾がまるまる見えているのに「私が尻尾を出して居るって?あんた、気のせいですよ」と煙に巻く、この国家では言葉なるものが崩壊している。言語教育というのは教育の根幹だ、「青年よ大志を抱け、これからの世界は嘘こそ命だ、嘘に命を張って生きていくのだ」と言っているようなものだ。共謀罪は言葉を一層に危うくする、これには反対だ。(一)鉄道紀行作家、宮脇俊三は北沢四の三五四に住んだ。感受性の豊かな青年期にここで過ごしている。そのことが彼の鉄道観に何らかの影響を残しているのか、文士町は鉄道の街であるゆえに深い興味が持たれる。彼が著したもので誉れ高いのは「時刻表昭和史」である、時刻表を軸に昭和史を概観しているところは素晴らしい。この中に北沢の家でのことが記されている。「北沢の家鉄道昭和史」をちらりと覗いてみる。
まず事実として、北沢四の三五四に何時から住んだのか。「自筆年譜」(『宮脇俊三鉄道紀行全集6)にはこうある。
昭和十年(一九三五)六月 父は世田谷区北沢に新居を建てる。私は帝都電鉄(現在の井の頭線)で通学。
この地がどのようにして選ばれたかはわからない。しかし、二年前の昭和八年に帝都電鉄が開通している。これによって利便性が増した。都心に出るのは容易になった。これに伴って一帯に新築ブームが起こった。この頃の商店街のあちこちに「ポンプ屋」というのがあった。井戸掘り屋、井戸を掘ってそしてポンプを取り付ける。水は井戸水でまかなっていた。地番三五四は森厳寺左岸尾根筋から水が流れてくるところである。
「いい水が出るところですよ」
これが決め手となったかもしれない。
二・二六事件(昭和十一年)の朝、小学三年生の私はいつものように帝都電鉄(現在の京王帝都井の頭線)の池之上(現在は池ノ上)から渋谷行きの電車に乗った。
その前年の六月に私の家は渋谷から池之上に引っ越していて、帝都電鉄と市電とを乗り継いで青山五丁目(現在の青山三丁目)まで通うようになっていた。
宮脇俊三 鉄道紀行全集2 『増補版 時刻表昭和史』 角川書店
往事、は井の頭線とは言わずに帝都電鉄と言った、近隣の古老はいまでも「帝都線」という。そのように言う人は古くからこの沿線に住んでいる人だ、井の頭線よりも、こちらのほうが重みがある。
宮脇俊三は、青山師範学校の附属小に通っていた。小三の子には帝都線と都電とを乗り継いで学校に行くことはきっと面白かったろうと思う、いわゆる鉄ちゃんである。
(二)
その朝はかなりの雪が積もっていたので、長靴ででかけた。帝都電鉄は昭和八年八月に開通したばかりの新しい郊外電車で、車両は鋼鉄製、ドアは自動式であった。当時の郊外電車はまだ手動式が多かったからであろう、ドアのガラスには、
「此の扉は自動的に開閉しますから注意してください」
と刷られたセロファン紙が貼ってあった。漢字にはフリガナ付されていたが、「自動的」が「ひとりでに」、「開閉」が「あけたて」となっていた。
帝都線の電車は子供には人気があった。この電車に出会ったとたん「かっちょいい!」と誰もが叫んだ。最新型は100形だ。
100形に最初に出会ったのが昭和十年頃のことだったと思う。父につれられて浅草に行った折に下北沢駅のホームで、入ってきた電車を見てなんとスマートな電車だなあと子供心に思ったものだ。当時の電車はヘッドライトが屋根の箇所にあるものが多かった時代に100形は窓の上部(オデコライト)にあり、そのうえ運転台の上部に小さいながらもヒサシがついていて、スマートさに花を添えているような感じを受けたものである。
『帝都100形の運転』 新見善太郎 鉄道ピクトリアル
最新型の郊外電車に乗って青山の学校に行く。スリリングであった。渋谷の手前では隧道に突入する。これも二連続だ。渋谷で降りて乗り換え、改段を下っておりて東口に出るとはるか高いところを地下鉄が走っている。
(三)
都電も見所、聞き所が多い。渋谷を発車した都電は右に急カーブを描いて、坂を上っていく。宮益坂だ。
ぐぅぅぅぅんとモーターの音が低く響く、走るに連れどんどんと高度を稼いでいく。少年の心にこれは希望を抱かせた。
その朝はかなりの雪が積もっていたので、長靴ででかけた。帝都電鉄は昭和八年八月に開通したばかりの新しい郊外電車で、車両は鋼鉄製、ドアは自動式であった。当時の郊外電車はまだ手動式が多かったからであろう、ドアのガラスには、
「此の扉は自動的に開閉しますから注意してください」
と刷られたセロファン紙が貼ってあった。漢字にはフリガナ付されていたが、「自動的」が「ひとりでに」、「開閉」が「あけたて」となっていた。
帝都線の電車は子供には人気があった。この電車に出会ったとたん「かっちょいい!」と誰もが叫んだ。最新型は100形だ。
100形に最初に出会ったのが昭和十年頃のことだったと思う。父につれられて浅草に行った折に下北沢駅のホームで、入ってきた電車を見てなんとスマートな電車だなあと子供心に思ったものだ。当時の電車はヘッドライトが屋根の箇所にあるものが多かった時代に100形は窓の上部(オデコライト)にあり、そのうえ運転台の上部に小さいながらもヒサシがついていて、スマートさに花を添えているような感じを受けたものである。
『帝都100形の運転』 新見善太郎 鉄道ピクトリアル
最新型の郊外電車に乗って青山の学校に行く。スリリングであった。渋谷の手前では隧道に突入する。これも二連続だ。渋谷で降りて乗り換え、改段を下っておりて東口に出るとはるか高いところを地下鉄が走っている。
(三)
都電も見所、聞き所が多い。渋谷を発車した都電は右に急カーブを描いて、坂を上っていく。宮益坂だ。
ぐぅぅぅぅんとモーターの音が低く響く、走るに連れどんどんと高度を稼いでいく。少年の心にこれは希望を抱かせた。
この記事へのコメント
1. Posted by きむらたかし@三田用水 2017年06月16日 00:01
〔池ノ上台地は…〕
たしかにいい井戸水が出ます。
今でも、かつては2本あった井戸のうち1本は残してあって、非常用に用意してある電動ポンプをつなげば水が出るようにしてあります。
かつて世田谷区が調べてくれた結果では、やや鉄分が多く飲料水として常用するには向かないようですが、スイカなんぞを冷やすのに最適でしたし、雑菌がいるわけではないので震災時などの当座の役には十分に立つでしょう。
不思議なのは、このあたり、かつて三田用水が流れていた荏原郡と豊島郡の稜線部に近いのに、意外に地下水位が高いことで、稜線の頂上にあたる三角橋あたりの標高が40メートル、我が家のあたりが39メートルなのですが地下水位は、たったの-3.5メートル。なぜなのでしょうね。
なお、東北沢駅あたりの地下水位については
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita03.htm
の末尾をご参照。
たしかにいい井戸水が出ます。
今でも、かつては2本あった井戸のうち1本は残してあって、非常用に用意してある電動ポンプをつなげば水が出るようにしてあります。
かつて世田谷区が調べてくれた結果では、やや鉄分が多く飲料水として常用するには向かないようですが、スイカなんぞを冷やすのに最適でしたし、雑菌がいるわけではないので震災時などの当座の役には十分に立つでしょう。
不思議なのは、このあたり、かつて三田用水が流れていた荏原郡と豊島郡の稜線部に近いのに、意外に地下水位が高いことで、稜線の頂上にあたる三角橋あたりの標高が40メートル、我が家のあたりが39メートルなのですが地下水位は、たったの-3.5メートル。なぜなのでしょうね。
なお、東北沢駅あたりの地下水位については
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita03.htm
の末尾をご参照。



















