2017年06月18日
下北沢X物語(3301)−宮脇俊三と北沢4の354�掘�
(一)昨日、地域風景資産の「風景づくり交流会」が北沢タウンホールで行われた。七版地図を持参し参加者に配布した。「もうこれで六万部」だと紹介したところ、感嘆する声が上がった。そして、終わった後、駅前市場が閉じられるいうことイベントが行われていた。下北沢北口駅前には大勢の街歩きスタイル人がいた。何と驚いたことにみな手に手に「下北沢文士町文化地図」を持っている、「どうして皆さん、これを持っているのですか」と感動して声を掛けた。「あなたが、きむらけんさん」、「はい」、「この方が地図を作られた方です」というと「ああらびっくり」とひとしきりざわめいた。予期せずに自分たちが作った地図が活用されているのは嬉しいことだ。このところ北沢四ノ三五三、三五四、ここを話題にしている。改めて地形を検証することにして訪れた。建物が大分建て込んでいて景色を塞いでいる。戦争時代、鉄道はダイヤ通りに動かすことができなかった。それでも現業職員は懸命に列車を動かそうとした。これへの感動が彼の文学の核である。
昭和二十年三月十日、東京大空襲では大きな被害を受けた。夕べは上空を通り過ぎるB29の大群を見た。鉄道は各所で分断されたのたのではないかとの心配がある。ところがそれは案に相違した。
私は驚いた。小田急や井の頭線が走っていることは私の家から見えるので分かっていたが、山手線や上野からの汽車が動いていることが不思議だった。
宮脇俊三 鉄道紀行全集2 『増補版 時刻表昭和史』 角川書店
晴光園後に行ってみた。当時の区画はそのまま残っていた。茶沢通りに並行して暗渠が走っている。森厳寺川だ、その左岸の段丘に家はある。が、今はすっかり高いビルに囲まれて周りの景色が見えない。当時、宮脇俊三は二階から外を眺め、井の頭線も小田急線も走っていることを確認した。鉄道は空襲にめげることなく走っている。
今は建物が高層化したことで両線は見えない。十字架さえ見えなくなった。
世田谷カトリック教会は戦後に立った、屋根の十字架は小田急線からも井の頭線からも見えた。
「電車の窓から十字架を見てやってきた人っていますよね」
「ああ、いたいた」と関根神父は言っていた、ところが今は十字架も見えなくなってしまった。
(二)北沢四丁目二三三近辺を歩いてみる。昭和二十年に出された立川さんの手紙には自宅のは杏の木とかぶどう棚もあることが書かれている。緑が多かったが、今も路地に入ると木々が生いしげっている。そんな中に表札をみつけた。何と、「北沢四の三五三」と書かれている。その表札の前で立ち話をしている人がいた。
「あれ、これって昔の番地そのままですね」
「そうそう」と奥さん。
「この同じ番地に立川さんって住んでいましたね」
「ああ、覚えているわ」
「私は、ここの番地から出された手紙を多く持っていて土地のことが書かれているものですから調べにきたのですよ。ここ三五三の隣が三五四、ほら晴光園という旅館があったでしょう」
「うん、あったあった。」
「立川さん覚えていますか?」
「ええ、わたしはお嫁にきたので後になってからです。お母さんとおばさんと裕子さんが住んでおられました」
「あのおばさんは、茶沢通りの踏切の向こう、三号踏切で自殺したみたいなんです。それであの踏切のことを『おばちゃんの踏切』と言っていたそうなんですよ」
「えっ、そうなんですか、知らなかった。」
(三)
そのうちにご主人が出てこられた岩崎さんは昭和十一年生まれだ。
「池の上小学校で東条英機の孫と同級生だったんだ。転校していくときに赤鉛筆をもらったのでよく覚えているよ。貴重品だったんだ」
「今はここは建物が多く建っていますが、富士は見えたのですよね。」
「うんうん、見えていた。」
「ということは、小田急線も帝都線も見えていましたよね」
「そうもっと景色は広かったね」
「立川裕子さんはご存じですか?」
「よく知っている。長いドラマでしてね、彼女が八王子のマンションを引き払ったのですね。そのとき手紙の束があって、ちょうど戦中あたりのハガキ切手は値がたかいので捨てられずに骨董市に出されたのですよ。そこに近代戦争史の歴史が眠っていたのです……」
(上は、岩崎さんと私、旧晴光園前で下、駅前市場閉鎖のイベント)



















