2019年01月14日
下北沢Ｘ物語(3683)−人間の成長：でんちゃから富士へ−
（一）日々の歩きで跨線橋をよく通る、ここが園児たちの電車観望台になっている。富士も見えはするが「お山！」と言って喜ぶ子はいない、やはり「でんちゃ！」だ。一方、富士観望台にたむろするのは圧倒的に熟年だ。人間はでんちゃに始まりお山で終わるようだ。当方も「でんちゃ」を見ても心ときめかない、新幹線などは「何であんなに急ぐことがあるのか？」と冷ややかだ。過去を振り返ると自分もでんちゃの運転士に憧れた、が、それは消え失せて今は富士の姿を渇望してやまない。でんちゃから富士へ、人間がたどる必然か？
でんちゃからお山へ、子どもはいつ関心を移していくのだろう？
昨日、下北沢小学校の前を通り掛かった。５月にはここの同窓会の講演をすることになっている。新校舎は旧東大原小の跡地に建っている。地形的には丘上に位置し、富士がよく見えた。東大原の校歌はこれを高らかに歌い上げている。その一番（作詞 葛原しげる 作曲 藤井清水）
朝夕あおぐ 神山富士の
正しき姿 清らの心
わが明けくれの かがみとこそ
よき日本人 わがちかい
のぞみ気高き 学舎ゆかし
東大原小学校
「西方に聳えるあの神山富士に倣って正しく清らかに生きよう、日本人の生きていく鑑として誓を立て、望みを気高くもって学舎をより慕わしく思おう」という意か。学校は昭和２年創立、昭和１０年年１０月東京市第三荏原尋常小学校と改称し、校歌制定は昭和１１年だ。卒業生は「第三荏原」だと言って学校を誇りに思っていた。昭和８年に小田急線と井の頭線がクロスした。それを背景とした栄え行く町が背景にあったことは間違いない。
東大原、守山、北沢が統合してできたのが下北沢小学校だ、東大原、北沢は校歌に富士があった。北小は「真白い富士の嶺そびえ立つ／清い姿を身にこめて」とある、作詞は詩人の福田正夫だ。
校歌では富士を褒め称え、そしてあの山を鑑として正しく清く立派に生きよという。校歌における富士の役割は大きいものがある。
富士の山影を活用した情操教育というのが伝統的あった。子どもはほおっておけば「でんちゃ、でんちゃ」で終わる。神山富士を心に植え付けて、そして将来は国家に尽くしてほしい、そんな願いがあったようにも思う。
（二）
人間は「でんちゃ」から富士へ興味を移していくのはいつ頃なのだろう。
田山花袋に「子どもと旅」というエッセイがある。ここにこういう記述がある。
日野春と小淵沢の間で夕日に映つた赤い富士を見た時には、男の児は流石に驚いたやうな顔をして、窓から首を離さなかつた。しかし山や雪や谷や町や、さうしたものは、また稚いものゝ眼には余り多くの好奇心を惹かなかつた。男の児は矢張遠い母親のことを思つて居た。 「日本の名随筆７８ 育」作品社 １９８９年
田山花袋が十歳になる息子を連れて上諏訪温泉に行った。中央線から眺めた景色である。夕日に映える富士を見て感銘を受けたという。が、自然の風物に対しては深く興味を持たなかった。むしろ今は居ない母のことを思った。
ちょうどこの子と同じ年頃の子が疎開した。東大原国民学校や代沢国民学校は浅間温泉で疎開生活を送った。昭和１９年８月１２日のことだ、両校とも下北沢駅を発った。途中「笹子トンネルが長かったこと」、「南アルプスの景観に驚いたこと」、「諏訪湖が海のように見えたこと」を彼らは記憶に残した。しかしその感動も一時のことであった。それでも切なく思った山があった。浅間温泉の裏手に聳える鉢伏山だ。なぜか、この向こうが東京の方向であった。「あの山の向こうに父母が住まう」と思うと涙が止まらなかった。
一つ言えることは、山は郷愁の指標である。
渋谷道玄坂に与謝野晶子の歌碑がある。
母遠うて瞳したしき西の山 相模が知らず雨雲かゝる
彼女は道元坂の下に住んでいた。坂を上りきると西の方に山々が見える。丹沢山塊や富士である。それを見るためにここへ来たようだ。あの向こうの大阪堺に自分が恋い慕う母がいる。丹沢や富士は人を恋い慕うときの方向だ。
子どもは成長して少年少女から青年になっていく。その過程は辛く苦しい。故郷を離れていればなおさらだ。
富士の山に惹かれたり、見入ったりするのは青年期を過ぎてからか。
（三）
青年期になると人は景観や眺めに関心を持つようになる。富士へもそうだ、しかし、憎悪ということがある。太宰治はこういう。
私は、この風景を、拒否している。近景の秋の山々が両袖からせまって、その奥に湖水、そうして、蒼空に富士の秀峰、この風景の切りかたには、何か仕様のない恥かしさがありはしないか。これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。芝居の書きわりである。あまりにも註文とおりである。富士があって、その下に白く湖、なにが天下第一だ、と言いたくなる。巧たくみすぎた落ちがある。完成され切ったいやらしさ。そう感ずるのも、これも、私の若さのせいであろうか。
初出は、「国民新聞 第一六八三五号」で昭和１３年１０月６日だという。太宰治２９歳である。タイトルは「富士に就いて」だ。
富士を秀麗だと思いはするもののあまりにも整い過ぎていて、こちらが恥ずかしくなるくらいだと。若い頃、確かにそんな思いも持ったように思うが、今は富士が見えないとさびしい。今日は、大岡山東工大構内の富士観望台に行った。先客がいた親子づれだ。富士は見えなかった、が、そこからは大井町線や目黒線の電車が行き交うさまが眺められる。
人はいずれ死ぬ、最期にどのような景色を思い描くのだろうか。海か、山か、富士か。きっぱりと言える、「でんちゃ」を思うことはないと。
（上、大岡山の電車観望台、下、下北沢小学校）
