2019年09月09日
下北沢X物語(3839)―さすらいの町:小田原と下北沢一

(一)下北沢文士町人士と小田原は関係が深い。両町に関係するのは福田正夫、三好達治、坂口安吾、藪田義男、井上康文、渡辺順三、北原武夫などだ、北原白秋も間接的には関係してくる。こうして並べてみて気づいた。共通するのは漂泊者である。7日、その小田原散策を試みた。歩けば土地が分かる、一つは気候だ、温暖な地は昔から別荘や別邸として使われていた、療養するにも好適地だった。もう一つは小田原は鉄道線が交わる場だ、行き来しやすい。漂泊者には好都合である。以上のことは土地の気風にも影響した、さすらい人は外来文化を持ち込んだ、進取の風を生む要因となったのではないか?
小田原駅に降りて真っ先に向かったのは城山だ。ここに二基の詩碑が建っている。井上康文と福田正夫のものだ。ともに民衆派詩人である。福田正夫の詩碑は「民衆碑」と呼ばれる。
「われらは郷土から生まれる
われらは大地から生まれる
われらは民衆の一人である」
大正6年(1918)雑誌『民衆』はこの小田原で福田正夫によって創刊された。その創刊一月号の表紙を飾った詩が刻まれている。この詩はこう続く。
世界の民である。日本の民である。われ自らである。われらは自由に創造し。自由に評論し。真に戦ふものだ。われらは名のない少年である。しかも大きな世界のために立った。いまや鐘は鳴る。われらは鐘楼に立って朝の鐘をつくものだ。
民衆派の力強い宣言だ、いわゆる大正デモクラシーだ、その思想を口語自由詩で歌い上げたものだ。福田正夫24歳だった。冒頭では「われらは郷土から生まれる」と切り込んだ、小田原に対する強い郷土意識がここにある。
城山へは山を登っていく、しばらくしてふり返ると相模湾が見えてくる。海と山、そして降り注ぐ陽光、詩が生まれてくる処だ。
その愛する郷土だが大正12年(1924)9月1日に、関東大震災に遭遇する、小田原も大きな被害を受けた。福田正夫はすべてを失う、これがきっかけとなって上京する、住んだのが「東京市外世田谷下北沢809番地」である、創作拠点がここに移った。この彼を慕って多くの詩人が集まってきた。下北沢文士町の嚆矢となるものだ。

(二)
民衆碑のすぐそばに井上康文碑がある。彼は雑誌「民衆」の創立メンバーだ。詩碑にはこう刻まれている。
梅は古き枝に蕾をつけず新しき青き梢に花ひらく
温暖な小田原は梅の名所もある、当地での経験を口語自由詩に詠んだものだろう。
雑誌民衆を福田正夫とともに井上康文は創刊した。世田谷に越してきた福田とは長く交流を続けていた。前から気になっているのは井上康文の住まいである。
「世田谷代田小学校は昭和27年創立したのです。開校時代に務めていました。そのときに校歌を作るということになって近くに住んでいる井上康文さんにお願いに行って作ってもらったのですよ」
昨年暮れに亡くなった井手一枝先生から聞いた話だ。作詞は井上康文である。
むさしののおか 日をうけて
学びの窓の 明るさに
誇りは高し わが代田
みなともに 手をつなぎ学び進む
在校生だった人は、「誇り」というのは、「埃」だとばっかり思っていたという。大山下ろしが吹き荒れるとたちまちに埃が舞い上がった。一帯にはまだ畑もあった、いっそうにひどかったようだ。
け高き富士を 仰ぎみて
鏡にうつす この心
つねに正しく 輝きて
みなともに 美しくきょうをはげむ
校歌のポイントは富士が見えることだ。井上康文は学校を訪ねて校地の環境を確認したと思われる。開校時の仮称は「羽根木小学校」だったようだ。「誇りは高し羽根木小学校」では意味は通じない。「開校にあたり、学区域に代田をもつことから、校名は『代田小学校』と正式に決定した」そうだ。
井上康文の家はどこでしたか?井手先生に聞いておけばよかった。彼の住まいは分からない。
(三)
城山にはもう一つ文学碑がある。小田原出身の牧野信一だ。この彼と坂口安吾は関係が深い、小田原ではもう一人三好達治がここに住んでいた。安吾が取手にいるときに寒いと伝えたら達治はこちらは温かいと言って彼を来させた。
安吾、達治、信一、三人三様であるが共通しているのは漂泊人だ。
信一の詩碑にはつぎの詩が刻んである。
長い間のあらくれた
放浪生活のなかで
私の夢は母を慕うて
蒼ざめる夜が多かっ
た 母の許へ歸らね
ばならぬと考へた
牧野信一
詩碑に刻まれた文言だ、牧野信一は、彼は小田原の生家で悲劇的な縊死自殺を遂げた。享年39歳だった。
(写真上、城山から見た相模湾、写真下、民衆碑)



















