2020年05月30日
下北沢X物語(4014)―「ミドリ楽団」米軍慰問デビュー―

(一)「下北沢文士町」にはひっそりと歴史が埋もれている。その一つが「ミドリ楽団」である。元薔薇族編集長の伊藤文学さんは昭和19年に代沢国民学校を卒業している。6年のときの担任が浜館菊雄先生だ。「あだ名をハマカンと呼んでいた。浜館先生、絵が上手で勉強のできない子の顔を黒板に描いた。この先生の思い出ってそんなことしか覚えていない」と。が、「その浜館先生が、戦後、すごい仕事をしていた」と「ミドリ楽団物語」を読んで文学さんは知った。その楽団を率いていたのは浜館先生で、各所で演奏活動をし、ついにはアニーパイル劇場(東京宝塚劇場)で3日間の連続公演に及んでいる。その評判はアメリカ本国に伝わり全米でテレビ放映された。その立役者が浜館菊雄先生であり、発足時の重要メンバーが安倍圭子さんだったのだ。
安倍圭子さんに二度目の電話をして分かった。彼女が「ミドリ楽団」入ったのは小学4年生のときだった。
「代沢小の3年は担任は常田先生でした。4年生になって担任を受け持たれたのが浜館菊雄先生です。ですからミドリ楽団に入ったのはこの時です」
「とすると、後打ちリズムの入団テストは4年生のときの話だったのですね?」
「そうそうそうなんです」
浜館先生は音楽の先生だ、戦前にもうバンドクラブを作った。戦争に突入し学童たちは浅間温泉に疎開する。そのときに疎開先に楽器を持ち込もうと提案したのがこの先生だ。疎開先では「浅間楽団」を作り子どもらを指導していた。
昭和20年になって戦争は激化してきた。疎開先の浅間温泉も安全ではないということで代沢国民学校は塩尻近辺の寺に疎開する。
洗馬の真正寺は、浜館先生が受け持った。この寺には音楽が好きな子を集め、先生は指導をした。
戦争が8月に終わった。が、東京に戻れたのは11月になってからだ。学校は翌年昭和21年から動き出し、先生は「ミドリ楽団」を発足させた。
(二)
浜館先生は疎開経験を通して大きな経験を得た。苦しい中にあっても音楽を与えれば子どもは元気づくと。帰ってきた東京は焼け跡だらけ、生活も楽ではない。子どもたちも希望を失っている。それで彼は音楽で子どもを勇気づけようと器楽演奏を中心とする「ミドリ楽団」を創部した。これが昭和21年4月のことである。
「みんな、音楽は楽しいぞ、これから新しい倶楽部を作るから入るといいよ。しかしな、音痴はだめだな、テストするから、それに受かれば入団決定だ……」
ミドリ楽団に入るのは簡単ではなかった。安倍圭子さんがそのときのことを自伝に書き残している。「安倍圭子 マリンバと歩んだ音楽人生-A VIRTUOSIC LIFE-」(2011.9)レベッカ・カイト (著), 杉山 直子 (翻訳)
安倍圭子は10歳の時、簡単なテストを受けた。その結果はおよそ単純とは程遠いものとなった。その小学校のテストで、彼女の人生の方向が決まったからである。
圭子の四年生の担任浜館菊雄は、「ヤンキー・ドゥードル」の歌にあわせて自分が手をたたき、生徒たちにそのスピードにあわせて、�爐△搬任船螢坤爿瓩納蠅鬚燭燭�ように言った。やがて浜館が手をたたくスピードを上げると、ついていける子どもたちが少なくなった。圭子はらくらくとやってのけて、教師がどれほど早く手を動かしても、そのリズムにあわせることができた唯一の子供だった。「オーケイ」浜館先生は言った。
これによって彼女のマリンバ人生が始まった。
(三)
「聖路加病院での慰問には行かれましたか?」
「ええ、行きましたね、米兵の兵隊が大勢いましたね」
安倍圭子さんの返答だ。
戦後聖路加病院は米軍に接収された。入院患者は米兵だった。その傷病兵慰問である。
「ミドリ楽団」が結成されて初めての対外公演だった。

聖路加病院へ
「先生、聖路加病院は築地にありますね、都電で行くのですか?」
「それはそうだろう、帝都線で渋谷まで行って、渋谷からは9系統に乗っていけば築地に行けるよ」
これは他の団員。
「あのね、慰問に行くときは楽器も持っていく。大太鼓だってあるんだから。都電は無理だよ」
「先生、じゃあ、どうするんですか?」
「バスですか?」
「そう当たり!」
浜館が答えた。
「都バス?」
「赤十字が書かれた緑色のアメリカ軍のバスだ!」
「えっ、あのバスがここの代沢小まで迎えに来てくれるんですか!」
「そう、その通り!」
「あのバスって交差点で停まらないんだよ。交通整理をしているお巡りさんは他の車は停めてしまうんだ。そこを猛スピードで走っていくんだ」
「かっこいい!。ミドリ楽団のお通りだね」
「だけど、おれ怖い。目の青い米兵の前でハーモニカを吹けそうにないよ……」
(写真はアニーパイルでの公演の様子)
浜館先生は疎開経験を通して大きな経験を得た。苦しい中にあっても音楽を与えれば子どもは元気づくと。帰ってきた東京は焼け跡だらけ、生活も楽ではない。子どもたちも希望を失っている。それで彼は音楽で子どもを勇気づけようと器楽演奏を中心とする「ミドリ楽団」を創部した。これが昭和21年4月のことである。
「みんな、音楽は楽しいぞ、これから新しい倶楽部を作るから入るといいよ。しかしな、音痴はだめだな、テストするから、それに受かれば入団決定だ……」
ミドリ楽団に入るのは簡単ではなかった。安倍圭子さんがそのときのことを自伝に書き残している。「安倍圭子 マリンバと歩んだ音楽人生-A VIRTUOSIC LIFE-」(2011.9)レベッカ・カイト (著), 杉山 直子 (翻訳)
安倍圭子は10歳の時、簡単なテストを受けた。その結果はおよそ単純とは程遠いものとなった。その小学校のテストで、彼女の人生の方向が決まったからである。
圭子の四年生の担任浜館菊雄は、「ヤンキー・ドゥードル」の歌にあわせて自分が手をたたき、生徒たちにそのスピードにあわせて、�爐△搬任船螢坤爿瓩納蠅鬚燭燭�ように言った。やがて浜館が手をたたくスピードを上げると、ついていける子どもたちが少なくなった。圭子はらくらくとやってのけて、教師がどれほど早く手を動かしても、そのリズムにあわせることができた唯一の子供だった。「オーケイ」浜館先生は言った。
これによって彼女のマリンバ人生が始まった。
(三)
「聖路加病院での慰問には行かれましたか?」
「ええ、行きましたね、米兵の兵隊が大勢いましたね」
安倍圭子さんの返答だ。
戦後聖路加病院は米軍に接収された。入院患者は米兵だった。その傷病兵慰問である。
「ミドリ楽団」が結成されて初めての対外公演だった。

聖路加病院へ
「先生、聖路加病院は築地にありますね、都電で行くのですか?」
「それはそうだろう、帝都線で渋谷まで行って、渋谷からは9系統に乗っていけば築地に行けるよ」
これは他の団員。
「あのね、慰問に行くときは楽器も持っていく。大太鼓だってあるんだから。都電は無理だよ」
「先生、じゃあ、どうするんですか?」
「バスですか?」
「そう当たり!」
浜館が答えた。
「都バス?」
「赤十字が書かれた緑色のアメリカ軍のバスだ!」
「えっ、あのバスがここの代沢小まで迎えに来てくれるんですか!」
「そう、その通り!」
「あのバスって交差点で停まらないんだよ。交通整理をしているお巡りさんは他の車は停めてしまうんだ。そこを猛スピードで走っていくんだ」
「かっこいい!。ミドリ楽団のお通りだね」
「だけど、おれ怖い。目の青い米兵の前でハーモニカを吹けそうにないよ……」
(写真はアニーパイルでの公演の様子)



















