2020年08月13日
下北沢Ｘ物語（4064）―日本鉄道文学史物語（６）―
（一）「鉄道は一大芸術である」と謳った時代があった。昭和４７年に刊行された「鉄道１００年・文学と随筆撰集『汽笛一声』」はその所産物である。トップ散文作品は、志賀直哉「網走まで」、芥川龍之介「蜜柑」、中野重治「汽車の罐焚き」である。いずれもが鉄道を舞台とした小説だ。この中野重治作品の蒸気機関車の激走場面は圧巻である。彼の作品では「しらなみ」も有名だ。難所親知らずを行く機関車を描いた詩だ。高校の国語の教科書に載っていて多くが慣れ親しんでいる。鉄道への関心の深さは容易に想像できた。それで下調べをしたことがある。中野重治全集全２８巻、目次調べから始まる。全集点検は必須だ。これで傾向が分かる、汽車に乗ったら窓辺を見ている人、思索にふけっている人の区別がつく。中野重治は後者、書斎派だ。鉄道を舞台とした作品は多くはなかった。
中野重治の「歌」という詩はよく知られている。「お前は歌ふな／お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな／風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな」で始まる。汽車で言えば、別れが描かれる。情緒に流されやすい。
ところが中野重治の場合は、汽車は「数学」として描かれる。「歌」の後に「機関車」という詩が出てくる。
彼は巨大な図体を持ち
黒い千貫の重量を持つ
彼の身体の各部はことごとく測定されてあり
彼の導管と車輪と無数のねじとは隈無く磨かれてある
中野重治全集 第一巻 「詩集」より 筑摩書房 一九七八年刊
これを読むといつもD51を思い起こす。散歩区域にこれが置いてある公園がある。家の前の呑川緑道をひたすら川に沿って下る。すると東調布公園に行き着く。ここにD51428号が静態保存されている。
いつ見ても深い感銘を受ける、とにかく大きいことだ。よくもこんなに大きくて重い機関車を動かしていたものだと思う。つい半世紀ほど前は現役で動いていた。
蒸気機関車の活躍といえば伯備線のD51三重連がある。D51428の来歴を見るとなんとこの三重連の一台として活躍していたという。
東調布公園の機関車の運転台に乗って目をつぶる。すると、シュワシュワという音が断続的に聞こえてくる。これは公園のすぐ南を走る新幹線の音だ。これは風情も何もない。
が、中野重治の機関車からは懐かしい音が聞こえてくる。
（二）
中野重治「機関車」はこう続く。
彼の走るとき
軌道と枕木といっせいに振動する
シャワッ シャワッ という音を立てて彼のピストンの腕が動きは
じめるとき （同著）
シャワッ シャワッという音を想像するとピストンから噴き出る蒸気が思い出される。
「ほんとうに機関車は勇壮だったなあ」と思う。すぐに連想されるのが
夏草に汽缶車の車輪来て止まる
山口誓子の俳句だ。五七五で情景を見事に切り取っている。
赤茶けた引っ込み線に機関車がシャワッ シャワッという音を立ててゆっくりと近づいてくる。ブレーキがぎぎぃと鳴って、カッテンと止まる。巨大な銀色の動輪が目の前にあった。とたんに夏草が匂い立つ、虫の音が聞こえて来た。
巨大な重量物の圧倒的な存在感。シィシィとシリンダーからは蒸気が漏れている。機関車という物体の呼吸である。生きている機関車が身近に感じられる。
青い菜っ葉服の作業員が青旗を揚げる。すると機関車はポゥと一声吠えて、ゆっくりと後進しはじめる。「機関車」の続きだ。
旗とシグナルとハンドルとによって
輝く軌道の上をまったき統制のうちに驀進するもの
その律儀者の大男の後ろ姿に
おれら今あつい手をあげる
旗は鉄道員が振る、ハンドルは機関士が動かす。
人間自身の意志による統制によって、かっちりきっちりと動く。
その後ろ姿はりりしい、熱い共感を持って手を挙げて見送るものだ。
（三）
さんきちが、はじめてきしゃにのったときのこと、そのはやいこと、はやいこと、でんしんばしらだの、やまだの、おうらいをあるいていっているひとだのがどんどんうしろへとんでいって……
中野重治全集 第一巻 筑摩書房 一九七八年刊
この文章「きしや」と題されたもので「コドモノクニ」に載ったものだ。自身の子ども時代の経験が書かれたものだろう。窓辺に見える景色のすべてが後ろにどんどん飛んでいってしまう。不思議な経験だ、言えば「時間と空間の抹殺」である。が、窓辺に移り行く景色を否定したものではない、むしろ感動である。
汽車の速度に感銘を受けていた時代は幸福だった。目で理解できる早さが人間の限度である。リニアなど一瞬で消えてしまう。
夏草にリニアの車輪来て停まる
リニアが引っ込み線に入ってきて側に止まっても何の感動も感銘も与えない。大事なのは間である、時間のしたたりなのである。
「日本鉄道文学史」は、文学でなくてはならない、文学は時間の滴りであり、たゆたいだ、これが認められるのは明治、大正、昭和である。最後の昭和で鉄道文学史は終わったのである。
中野重治「機関車」はこう続く。
彼の走るとき
軌道と枕木といっせいに振動する
シャワッ シャワッ という音を立てて彼のピストンの腕が動きは
じめるとき （同著）
シャワッ シャワッという音を想像するとピストンから噴き出る蒸気が思い出される。
「ほんとうに機関車は勇壮だったなあ」と思う。すぐに連想されるのが
夏草に汽缶車の車輪来て止まる
山口誓子の俳句だ。五七五で情景を見事に切り取っている。
赤茶けた引っ込み線に機関車がシャワッ シャワッという音を立ててゆっくりと近づいてくる。ブレーキがぎぎぃと鳴って、カッテンと止まる。巨大な銀色の動輪が目の前にあった。とたんに夏草が匂い立つ、虫の音が聞こえて来た。
巨大な重量物の圧倒的な存在感。シィシィとシリンダーからは蒸気が漏れている。機関車という物体の呼吸である。生きている機関車が身近に感じられる。
青い菜っ葉服の作業員が青旗を揚げる。すると機関車はポゥと一声吠えて、ゆっくりと後進しはじめる。「機関車」の続きだ。
旗とシグナルとハンドルとによって
輝く軌道の上をまったき統制のうちに驀進するもの
その律儀者の大男の後ろ姿に
おれら今あつい手をあげる
旗は鉄道員が振る、ハンドルは機関士が動かす。
人間自身の意志による統制によって、かっちりきっちりと動く。
その後ろ姿はりりしい、熱い共感を持って手を挙げて見送るものだ。
（三）
さんきちが、はじめてきしゃにのったときのこと、そのはやいこと、はやいこと、でんしんばしらだの、やまだの、おうらいをあるいていっているひとだのがどんどんうしろへとんでいって……
中野重治全集 第一巻 筑摩書房 一九七八年刊
この文章「きしや」と題されたもので「コドモノクニ」に載ったものだ。自身の子ども時代の経験が書かれたものだろう。窓辺に見える景色のすべてが後ろにどんどん飛んでいってしまう。不思議な経験だ、言えば「時間と空間の抹殺」である。が、窓辺に移り行く景色を否定したものではない、むしろ感動である。
汽車の速度に感銘を受けていた時代は幸福だった。目で理解できる早さが人間の限度である。リニアなど一瞬で消えてしまう。
夏草にリニアの車輪来て停まる
リニアが引っ込み線に入ってきて側に止まっても何の感動も感銘も与えない。大事なのは間である、時間のしたたりなのである。
「日本鉄道文学史」は、文学でなくてはならない、文学は時間の滴りであり、たゆたいだ、これが認められるのは明治、大正、昭和である。最後の昭和で鉄道文学史は終わったのである。
