2020年08月21日
下北沢X物語(4069)―下馬第一師範附属小P-51機銃掃射痕―

(一)日々散歩をする。下馬中央公園はよく通る。立ち止まって思いに耽る。この場所は第一師範附属小があったところだ。戦時中世田谷の七校は浅間温泉に疎開する。この附属小もその一つだ。不思議な因縁話だ、この公園のすぐ北に元東大原小の疎開学童だった太田幸子さんが住んでいた。彼女に取材に行ったとき日記を見せてもらった。昭和20年3月28日の日記「午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゅうかえりもした」とあった。吉原さんは誠第32飛行隊の吉原香軍曹だ。出撃が近づいていたので宿舎の学童にデモンストレーション飛行を見せた。このときのことを第一師範の疎開学童だった大槻統さん。絵日記に描いていた、彼は女鳥羽川で遊んでいるときに一機の飛行機が飛んできて、手を振った。描かれている機は九九式襲撃機だ。縁もゆかりもない人が偶然同じ飛行機を日記に記したようだ……ふしぎふしぎの物語だ。
昨日のことだ、その大槻統さんから久しぶりにブログに書き込みがあった。彼は小学校のときから航空機ファンだ。描かれた機の機種が特定できるほどにうまい。コメントにはこうあった。
1945年2月17日(?)、私は駒沢高射砲陣地を襲撃するカーチス・ヘルダイバー(艦爆)を見ています。
この前日の2月16日に敵の艦載機が東京を襲った。自由自在に空を飛び回って地上に機銃掃射を加えた。
「敵小型機は、機銃掃射を行うにつき、とくに警戒を要す」
ラジオは繰り返して放送したようだ。
さて、大槻さんの指摘である。私にとっては空襲辞典、一色次郎の「日本空襲記」(文和書房)に当たってみる。2月17日だ。
私は、外出の支度ができていたので、戦闘の模様が気にかかった。待避の半鐘が鳴ったので、土手へのぼってみる。アパートの女たちは、機関銃の弾なら、あたっても死ぬのはひとりだけだ、とのんびりしているが、ここへきてみると、広い東京の空は、高射砲の弾幕で一面塗りつぶされている。その中をいろんな形の戦闘機が、むちゃくちゃに飛び回っている。正面からみるとW字形になていて、翼の先がまるいヴォート・シコルスキー、反対に、翼の先が切り取ったみたいに角張ったグラマン、そのほかに、急降下爆撃機も二三種類いるようだった。
(二)
一色次郎は、このとき下北沢静仙閣に住んでいた。「土手」というのはアパート裏手の小田急築堤の上である。
このときは敵機が入り乱れて襲ってきた。駒沢高射砲陣地の内藤悌三中隊長は大変だった「撃て!」との命令を下していた。この音を一色次郎も大槻統さんも聞いていたはずだ。
一色次郎はこの日急降下爆撃機もいたと証言している。大槻さんの記憶にあるカーチス・ヘルダイバーはその急降下爆撃機である。
大槻統さんは、駒沢高射砲陣地を襲う艦載機を目撃した。彼はこの当時この近くに住んでいた。「文化的田園理想的住宅地」である「仙緑園」である。このとき師範学校男子部付属国民学校の三学年であった。
今でこそ駒沢高射砲陣地はよく知られるようになった。この陣地のことは大槻さんから聞いて初めて知った。その彼の話をこのブログに書き記していた。これを検索で拾ったのが内藤悌三中隊長の甥御さんだ。「八千穂町で健在です」との報を得て私は取材に伺った。そして駒沢高射砲陣地の全貌が分かった。その記録を「戦後70周年記念記録集」(きむらけん:北沢川文化遺産保存の会発行 紀要第四号 駒沢高射砲陣地についての証言)に載せたものである。
大槻統さんで感心するのはきちんと記録を取っていることである。
三月十日、やはり上空を通るB29に対して駒沢高射砲陣地は応戦した。そのときのことを「外では高射砲をどんどん撃っています。時々大きな音で『ぱ〜ん、ぱ〜ん』と高射砲が鳴りあたりが『ぴかぴか』光ります」とその恐怖を記録している。翌十一日のことはつぎのように記している。
三月十一日
今日は学校へ行くとき東の空から黒い煙が出ていました。昨夜の空襲で焼けたのでしょう。そして学校(の屋上)から見たと時黒い煙がどんどん上がっていました。学校の帰りやけどをした人に会いました。それはよその おじいさんとおばあさんでした。僕はかわいそうでたまりませんでした。
(三)
そして昨日の彼からのコメントにはこうも書いてあった。
75年前の11月、集団疎開から帰ってきて見たのはあの鉄筋コンクリートの校舎 正面にムスタングによる機銃掃射の跡があり、長いこと残っていました。
大槻さんは第一師範の鉄筋コンクリート三階建て屋上から東の空を望み見た。その校舎であろう。疎開から戻ってくるとP-51に機銃掃射を受けた跡が残っていたという。このムスタングには成らず者が乗っていた。駅や学校など所構わず撃ちまくっていた。
「第一師範の附属小学校も機銃掃射を受けたのか!」
自分にはちょっとした感懐があった。
この校舎は今は跡形もない。が、第一師範の附属小も機銃掃射を受けていたということは覚えていたいと思った。(写真は現在の下馬中央公園)
一色次郎は、このとき下北沢静仙閣に住んでいた。「土手」というのはアパート裏手の小田急築堤の上である。
このときは敵機が入り乱れて襲ってきた。駒沢高射砲陣地の内藤悌三中隊長は大変だった「撃て!」との命令を下していた。この音を一色次郎も大槻統さんも聞いていたはずだ。
一色次郎はこの日急降下爆撃機もいたと証言している。大槻さんの記憶にあるカーチス・ヘルダイバーはその急降下爆撃機である。
大槻統さんは、駒沢高射砲陣地を襲う艦載機を目撃した。彼はこの当時この近くに住んでいた。「文化的田園理想的住宅地」である「仙緑園」である。このとき師範学校男子部付属国民学校の三学年であった。
今でこそ駒沢高射砲陣地はよく知られるようになった。この陣地のことは大槻さんから聞いて初めて知った。その彼の話をこのブログに書き記していた。これを検索で拾ったのが内藤悌三中隊長の甥御さんだ。「八千穂町で健在です」との報を得て私は取材に伺った。そして駒沢高射砲陣地の全貌が分かった。その記録を「戦後70周年記念記録集」(きむらけん:北沢川文化遺産保存の会発行 紀要第四号 駒沢高射砲陣地についての証言)に載せたものである。
大槻統さんで感心するのはきちんと記録を取っていることである。
三月十日、やはり上空を通るB29に対して駒沢高射砲陣地は応戦した。そのときのことを「外では高射砲をどんどん撃っています。時々大きな音で『ぱ〜ん、ぱ〜ん』と高射砲が鳴りあたりが『ぴかぴか』光ります」とその恐怖を記録している。翌十一日のことはつぎのように記している。
三月十一日
今日は学校へ行くとき東の空から黒い煙が出ていました。昨夜の空襲で焼けたのでしょう。そして学校(の屋上)から見たと時黒い煙がどんどん上がっていました。学校の帰りやけどをした人に会いました。それはよその おじいさんとおばあさんでした。僕はかわいそうでたまりませんでした。
(三)
そして昨日の彼からのコメントにはこうも書いてあった。
75年前の11月、集団疎開から帰ってきて見たのはあの鉄筋コンクリートの校舎 正面にムスタングによる機銃掃射の跡があり、長いこと残っていました。
大槻さんは第一師範の鉄筋コンクリート三階建て屋上から東の空を望み見た。その校舎であろう。疎開から戻ってくるとP-51に機銃掃射を受けた跡が残っていたという。このムスタングには成らず者が乗っていた。駅や学校など所構わず撃ちまくっていた。
「第一師範の附属小学校も機銃掃射を受けたのか!」
自分にはちょっとした感懐があった。
この校舎は今は跡形もない。が、第一師範の附属小も機銃掃射を受けていたということは覚えていたいと思った。(写真は現在の下馬中央公園)



















