2020年08月22日
下北沢X物語(4070)―戦争と特攻と言葉―

(一)時は静かに過ぎてゆく、散歩の途中、小さな張り紙をみつけた、閉店のお知らせである。老夫婦が営んでいた下馬の小さな菓子店だ、「あの方は家に畑を作って鍬で耕しておられました、そこの路地を左に曲がった奥ですよ」奥さんに旧居跡も教えてもらった。行くとすぐ側に駒沢線鉄塔39号が聳え建っている。別の機会だった、通り掛かりの古老は「あの鉄塔に焼夷弾が落ちてものすごい大きな音を立てていましたね、ガァン、ガァンと…長官を狙ってB29は焼夷弾を落としていったのですよ」と言う。人は戦争を伝説化して語る。下馬の長官は連合艦隊司令長官豊田副武海軍大将である。この彼から自決用の短刀を授かった人がいた。もう亡くなってしまった元特攻隊員、斎藤秀雄氏である。
彼は加計呂麻島から人間魚雷?に乗って特攻出撃するはずだった。が、終戦を迎えて出撃は取り止めとなった。我らは戦争経験を聴く会、語る会を何度も開いてきた。これに参加されていた。が、彼は一切口を開かなかった。寡黙な人だった。
昨日、大槻統さんから得た情報、「第一師範附属小にP-51の銃弾痕が長い間残っていた」を紹介した。情報が情報を生む。
終戦記念日を前に「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」へ行った。これによってP-51の終戦末期における行状を深く知ることになった。わかってみるとひどい、一般市民を襲って各地でこの機の餌食になっている。疎開中の学童も撃たれて亡くなってもいる。
SNSで長谷川順一さんは「妻は宇都宮に住んでいましたが、学校帰りにP51マスタングの機銃掃射を受け、どぶの中に逃げ込んで助かり、ずぶ濡れになって家に帰ったそうです」とのコメントもあった。
ムスタング情報はさらには第一師範附属小の襲撃を明かした。
戦後における日本には敗残意識というものが残っているように思う。戦争を仕掛けたがこてんぱんにやられた。プライドを失った我々はアメリカものを言えなくなったように思える。アメリカさんにはいちゃもんはつけられない。日米地位協定は典型例だ。
原爆投下、また、P-51の終戦末期における残忍な所業は忘れてはならない。
(二)
学芸大附属高校の東隣りに特攻平和観音がある。お参りに行かないことはない。が、「神州不滅特別攻撃隊の碑」には違和感、抵抗を覚える。この国は本当に不滅なのかという疑義が自分にはある。
くだんの元特攻隊員斎藤秀雄さんは、月命日には行かないで日をずらして毎月行っていた。寡黙な人だった。
「戦争は語ってこそ伝わる」
人は言う。しかし、語らないで死んでしまった人の方が圧倒的に多い。語られざる戦争証言への想像力も本当は必要なのだと思う。
特攻はこれまで多く取材してきた。人々はこれを美化し、飾って伝えようとする。
「きけわだつみのこえ」に市島保男の証言が収められている。彼は、四月二一日、海軍の谷田部飛行場を出発する。
十三・00 指揮所前整列
同期の者が何から何まで世話をしてくれ、機上に八重桜を飾ってくれる。
飛行機は零戦である。同期生がちょうど咲いていた桜を持ってきた。このときのことを
「まるで市島は桜の花に埋まっているように見えた」と書いている書物があった。これを読んで美しいと思った。
「いや、操縦室には桜の花を挿すところなどはないのですよ。風防の溝に二三手折った花を挿しました。桜の花に埋まるなんてことはありません」
市島機に桜の花を持っていった当事者の言である。
(三)
言葉は何か、本質的には飾り立てて伝えようとする道具である。戦争で亡くなった者を悼むあまりその死を美しく飾ってしまう。
元特攻兵に取材したときの言葉は今も忘れられない。一度飛び発てばもう祖国に戻ることない、自分の命も消えて行く。特攻機で離陸寸前に彼が思ったことが掛け値なしに言い表されている。扶揺隊の久貫兼資軍曹の言葉だ、その彼も亡くなられた。
あれは、知覧を出て行く最後のときだね。テントに設えられたピスト、まず、ここで司令官に報告をするんです。これから出撃しますということを報告して、駐機している飛行機に向かうんだ。そのときに脇に生えている草とか、土などに無性に触りたくなったんだ。もう飛んでしまうと自分が立っているこの本土とはお別れだ。頬ずりしたり、はだしで土を踏みつけたりしたかったんだ。ところが他の仲間もいるのでそんなことをしたら、自分がいかにも未練がましいように思われて不格好に見える。それで手にツバを吐きかけるような仕草をして、動作をごまかしたんだ。何となくやっているふりをして草とか土とかに触った………
(中町小学校に世田谷平和資料室があったそこで撮らせてもらったもの。この短刀は斎藤さん本人が寄贈したものだ)
学芸大附属高校の東隣りに特攻平和観音がある。お参りに行かないことはない。が、「神州不滅特別攻撃隊の碑」には違和感、抵抗を覚える。この国は本当に不滅なのかという疑義が自分にはある。
くだんの元特攻隊員斎藤秀雄さんは、月命日には行かないで日をずらして毎月行っていた。寡黙な人だった。
「戦争は語ってこそ伝わる」
人は言う。しかし、語らないで死んでしまった人の方が圧倒的に多い。語られざる戦争証言への想像力も本当は必要なのだと思う。
特攻はこれまで多く取材してきた。人々はこれを美化し、飾って伝えようとする。
「きけわだつみのこえ」に市島保男の証言が収められている。彼は、四月二一日、海軍の谷田部飛行場を出発する。
十三・00 指揮所前整列
同期の者が何から何まで世話をしてくれ、機上に八重桜を飾ってくれる。
飛行機は零戦である。同期生がちょうど咲いていた桜を持ってきた。このときのことを
「まるで市島は桜の花に埋まっているように見えた」と書いている書物があった。これを読んで美しいと思った。
「いや、操縦室には桜の花を挿すところなどはないのですよ。風防の溝に二三手折った花を挿しました。桜の花に埋まるなんてことはありません」
市島機に桜の花を持っていった当事者の言である。
(三)
言葉は何か、本質的には飾り立てて伝えようとする道具である。戦争で亡くなった者を悼むあまりその死を美しく飾ってしまう。
元特攻兵に取材したときの言葉は今も忘れられない。一度飛び発てばもう祖国に戻ることない、自分の命も消えて行く。特攻機で離陸寸前に彼が思ったことが掛け値なしに言い表されている。扶揺隊の久貫兼資軍曹の言葉だ、その彼も亡くなられた。
あれは、知覧を出て行く最後のときだね。テントに設えられたピスト、まず、ここで司令官に報告をするんです。これから出撃しますということを報告して、駐機している飛行機に向かうんだ。そのときに脇に生えている草とか、土などに無性に触りたくなったんだ。もう飛んでしまうと自分が立っているこの本土とはお別れだ。頬ずりしたり、はだしで土を踏みつけたりしたかったんだ。ところが他の仲間もいるのでそんなことをしたら、自分がいかにも未練がましいように思われて不格好に見える。それで手にツバを吐きかけるような仕草をして、動作をごまかしたんだ。何となくやっているふりをして草とか土とかに触った………
(中町小学校に世田谷平和資料室があったそこで撮らせてもらったもの。この短刀は斎藤さん本人が寄贈したものだ)



















