2020年08月30日

下北沢X物語(4075)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語1―

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(一)ネット発信を続けて16年、数々の奇遇、奇譚に遭遇してきた。これがきっかけで「鉛筆部隊と特攻隊」は編まれ書籍として発信をされた。情報は情報を生む、因縁の円環は果てもない。昨年、改訂新版「鉛筆部隊と特攻隊」を出してこれのけじめをつけた。ところが戦後75年、76目に入った8月の終わり、この26日に電話が突然に「圏外からです」と告げた。受話器を取ると台湾からの国際電話だった。向こうからは流暢な日本語が聞こえてきた。何と彼が告げたのは山本薫中尉の名である。苦難苦闘一千里、日本から台湾に飛んだ特攻隊「武揚隊」を率いた隊長の名である。「耳を疑う」という卑俗な慣用句がある、が、私はその情報を聞きさして卒倒しそうになった。「まさか!」である。

 この情報の前ぶれは一日前の25日にあった。が、これも唐突だった、こちらの電話は「京都」からだった。この前には「福島」からあった。この県に知人はいない。が、思い当たる節があった、もしやと思った。が、その想像は当たっていた。電話の相手の長島雄一さんが告げた名は、武揚隊の長谷川信少尉である。彼は福島出身である。

 それで今度は「京都」から掛かった、奇縁、因縁は果てがない。相手が口にしたのは何と山本薫中尉の名である。新手の情報だ。が、繋がりが読めない。長島さんの場合には喜多方高校の先輩である長谷川信を研究していると。これを聞いて事情がすべて飲み込めた。

 京都からの電話は京都大の先生だった。ふと戦後史でも研究しておられるのかと思った。後でこのことは分かるが鈴木雄太先生は理系の研究者だった。
 いきさつはこうだ、彼の知人が台湾に住んでいてその人の叔父から私へのコンタクトを頼まれたようだ。

 その叔父さんというのはて87歳で、子どものときに山本薫隊長に出会ったというのである。なんとも「耳を疑う」話である。

 「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」を私は調べた。多くの資料を漁ってきた。

 会報 特攻 平成13年2月 第46号 特攻戦没者慰霊平和記念協会発行に「特攻隊の裏方 飛行第一〇八戦隊 菱沼 俊雄」という文章がある。その末尾だ。

 その夜、八紘荘では武揚隊がささやかな宴をはって壮行会がおこなわれていた。一方、私はこの特攻隊を台湾の基地まで誘導せよ、という命令を受領した。

 その夜というのは昭和20年4月4日のことだ。八紘荘は九州新田原飛行場内にあった乗務員宿舎である。台湾行きを命ぜられた武揚隊はいよいよ目的地に向かう。日本最後の夜だというので祝宴を張った。

 私は、彼らの足跡を求めて新田原飛行場まで行った。八紘荘跡は、兵どもの夢の跡、そこにはどこまでも茶畑が広がっているだけだった。そこで空を見上げては台湾の方を見遣った。ここを飛び発った彼らはどうなったのか?
 


(二)
 私は、この取材の後、「さまよえる特攻隊」を書き上げた。これでけじめがついたと思った。「特攻は不思議なことにずっと因縁がついてまわるのね」とある女性が言った。そう「因果の小車」は果てしない。こんどは四国小松島の山本薫中尉の甥御の山本富繁さんからの連絡があった。

 武揚隊を誘導したのは菱沼俊雄氏である。その新田原以降を記した克明な手記があるとの連絡を受けた。これには日本から中国大陸を経由して台湾に行くまでの苦難の道のりが克明に記されていた。彼ら武揚隊は、陸軍八塊飛行場を基地として訓練に励んだ。このときの宿舎は、「八塊の小学校校舎の一部を宿舎」にしていたとある。そしてこう記す。

 八塊は田舎の部落で面白いところもありませんが、隊員は整備の閑暇には学校のオルガンを弾いたり、近所の子どもたちと遊んだり、トランプをしたりして楽しそうに遊んでいました。
 

武揚隊隊員は浅間温泉では富貴の湯旅館に約四十日ほど滞在した。ここには東京世田谷から疎開していた学童がいた。女子の宿舎に当てられていた。隊員たちは女児たちと近所に遊びにでかけたり、山登りをしたりもした。疎開学童にふれ合っていることだ。

 「鉛筆部隊と特攻隊」は大きな話題となった。それは隊員と疎開学童とが長くふれ合っていたという事実が驚きを生んだ。私はそのことを知っていたので、菱沼氏の記述を見て驚いたことだ。

 八塊の国民学校を宿舎としたならば自然に学童たちとの交流が始まる。子どもにとって若いお兄さん方は恰好の遊び相手である。近所の子どもというのは学童に違いない。

「そうあのときは隊員の人と遊びましたね、毎日のようにです。楽しかったですよ」
 武揚隊の第一陣が出撃するのは5月13日、4月初めにほうほうの体で台湾に着き、以来一月あまり、子どもらとふれ合った。私は台湾に行けば、往時のことを覚えている人がいるのではないかと想像していた。
 日本本土と台湾とで学童たちと長期間にふれ合った飛行隊、まったく類例がない。

(三)
 台湾から電話を掛けてこられたのは邱垂宇さんだ。
「あのときは国民学校の宿直室を宿舎としてみなさんは使っておられましたね」
「そのときに接したのですか、何年生でしたか?」
「小学校三年生です……」

「私は、あなたの本を手に入れて、もう6時間で読んでしまいましたよ。武揚隊のことが本当によく書かれていました」
電話でのやりとりを通してだんだんに分かってきた。邱垂宇さんは山本薫隊長と接触することで航空に憧れるようになった。そして台湾軍のパイロットになったようだ!
(写真は山本家蔵の「山本薫君の霊前に捧ぐ」である。これは山本家から知覧特攻平和会館に寄贈された)




rail777 at 18:30│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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