2020年08月31日

下北沢X物語(4076)―会報第170号:北沢川文化遺産保存の会―

タイムトリップ下北沢…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第170号    
           2020年9月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、記録:根津山の防空壕 きむらけん

△「目をはなせば櫟に菫また隠る」という句には、「附近の根津山は櫟美しき山なり」という詞書きがある。根津山を詠った中村汀女の句である。今は羽根木公園、「外のもにも出よ」と言う彼女の句碑が建っている。戦時中ここに防空壕があった。このところ朝ドラ「エール」で話題になっている古関裕而もこれに触れている。自宅から百五十メートルぐらいのところに根津山の防空壕があって自分の子供を避難させたと。ここの防空壕については色々な噂はあった。軍関係の手によるものゆえに頑丈に作ってあった、戦後は空襲で家を失った人が住んでいたとか……根津山の防空壕の記録は少ない。それを紹介する。
『昔の代田』を書いた故今津博さんもこれに触れておられる。「戦時中現在の図書館裏の斜面に、付近住民の手で掘られた横穴式防空壕の埋め戻しを行う等の里山部分の整地作業を行っていた。」と。
 図書館は梅丘図書館である。この裏手に「横穴式防空壕」があった。これは確かだ。
昭和二十年五月二十五日当地が焼夷弾攻撃を受けた。この時に代田二の七二八番地に住んでいた杉山杜美子さんは果敢に戦った。そして火を消し止めた。その時のことをこう書いている。「静まり返った焼け跡のあちこちに遠く近く立ち昇る薄煙が幽霊のようであった。近所の人たちの姿はどこにも見えなかった。すぐ近くの根津山の横穴式防空壕にみんな待避したのだろうか。」と。隣組同士での約束があったのだろう。何かあったときは「根津山の横穴式防空壕に待避しよう」と。
△古関裕而は「鐘よ鳴り響け」という「古関裕而自伝」を記している。

 三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルくらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるかわからぬ悲痛なものだった。集英社文庫 2020年刊

 「わが町梅丘」という冊子がある。「発行 平成十五年三月三十一日、編集発行人梅丘一丁目町会長 中村元之」とある。ここに鈴木壽さん(73歳)の記録がある。

 戦時中は町内会総出で、防空壕を掘ったのですよ。戦争末期の昭和二十年五月二十五日アメリカ軍の空襲で、梅丘を狙った焼夷弾が西からの強風にあおられ、そのほとんどが根津山方面に流れたおかげで町の大部分は焼失を免れたんですよ。しかし梅ヶ丘駅周辺の一部や商店や住宅は焼けました。罹災された方々はほんとうにお気の毒でした。焼け跡をみても、もし風向きが変わっていたら大惨事になっていたと思います。町が助かったのは奇跡だった。そのときの感激は脳裏に焼き付いています。


△昭和二十年五月二十五日、いわゆる山手空襲である。このときに根津山防空壕に避難した人の記録が載っている。
 世田谷区代田二−七三〇に住んでいた竹内直子さんが記録したものだ。タイトルは「一瞬の明暗」である、彼女はこのとき高等女学校の一年生十三歳であった。家の場所は、現在の代田小学校の東側辺りである。

 ともかく根津山の防空壕は、目と鼻の先にある。何とか励まして、母をそこまで連れて来て、壕の中にもぐり込んだ。こうして、ケガをした一家が必死で逃げてゆく上空を、B29は焼夷弾の雨を降らせ続けていた。火のため、すっかり明るくなった夜空は、あの巨体な機体からバラバラッと燃えながら落ちてくる焼夷弾の隊列、自分の現状がどんなものか等考える余裕もないのに、この光景を憎しみの気持ちで見つめるより前に、美しいと思った。 しかし、壕の中は行きながらの地獄であった。真っ暗で何も見えないことが、かえって、さいわいなくらいであった。かすかなひかりにあてて母のケガを調べていると、くびのところに血がながれていた。急いで救急袋から繃帯を出してくびに巻いた。「ナムアミダブツ」ととなえているお婆さんもいた。私は何度も「お母さん死なないで」と叫んでいた。
 ともかく、この壕の中にいた人びとにとっても誰の生涯の中でも、一番長い一夜だったと思う。その夜が明けて、二十六日の朝になった。自宅のあとに行ってみた。火はまだくすぶっていた。焼夷弾特有のあのにおいがたちこめている。みんなすすけた顔をして茫然と立っていた。すぐ近くでも、焼けずに残った家もある。一瞬のうちにわけられた明暗。すぐ裏の奥さんは外に出たとたん焼夷弾の直撃を受けて即死だという。私の家の一帯はかたまっておちたのだ。百数十坪ほどの敷地に四十何発か落ちていた。
東京大空襲・戦災誌第2巻 東京空襲を記録する会 1975年刊 


 根津山の防空壕に避難した人の記録として唯一見つかっているのはこの記述である。どのくらいの広さがあったのか分からない。が、この記述からかなり大勢を収容することができたようだ。資料に当たったところ上記のものが見つかった。これ以外の情報があれば、こちらへの情報提供をお願いしたい。

2、バナナが食べたい!     
                        エッセイスト 葦田 華

 バナナを食べると、ある情景が昨日のことのように思い出される。
 戦争が終わって6年め、私が小学校一年生だった1950年には、学校にお弁当を持って来られない生徒が多数いた。彼らが運動場で鉄棒をしたり、あやとりをしているのを教室の窓から眺めながら、私はカツブシご飯の上に海苔が乗っているお弁当とゆで卵を食べていた。それほどまでに、敗戦後の食料事情は悪かったのだ。
 ある日のこと、担任の渡辺よし子先生が、黄色い見たこともない棒状のものを持って、教壇に立った。私達はそれが何なのか知りたくて堪らなかった。先生はおもむろにその二本の棒を生徒達に見せて、「ハイ!皆さん、これがバナナという果物ですよ。」と言った。そしてまたおもむろに皮をスーッスーッと剥くと、中からうす黄色の中身が出てきた。先生は「バナナはね、こうやって食べるんですよ。」と言って、先端をパクリと噛み、ゆっくり食べると、またパクリと食べ、またたく間に一本食べてしまった。
 私は、「二本めは生徒のみんなに薄く切って、爪楊枝で刺して食べさせてくれるのだろう。」と、ドキドキしながら待っていた。すると先生は二本めもスーッスーッと皮を剥くと、パクリ!と食いついて食べ、モグモグと全部食べてしまったのだ。
「皆さん、これがバナナの食べ方ですよ。」と言った。呆気にとられているちび達にお構いなく、教室の後ろに座っていた少年を指さした。「はい、片桐君、この皮を後ろのごみ箱に捨ててきなさい。」と言った。半ズボンに坊ちゃん刈りの片桐君は、両手に二本ぶんのバナナの皮を捧げ持ち、後ろのごみ箱に捨ててから席に着いた。
 なんの目的で先生が二本もバナナを見せびらかして食べてしまったのか、私には全く意味が解らなかった。
 小使さんが鐘を鳴らして廊下を通った。
 休み時間だ。私はすぐにごみ箱に行き、バナナの皮に触ってみたが、ベラベラとした湿っぽいヘンな代物だった。そして、バナナ授業のことなどすっかり忘れていた。
 それからしばらくして母が私を呼び、「渡辺よし子先生、生徒の前でバナナを二本も食べたんですって?」と尋ねた。「うん、そうよ。ぱくぱくミ〜ンナ先生だけが食べちゃったの。」 「教会の水曜祈祷会のあとでね、その話を片桐君のお母さんから聞いてね、実に驚いたわ。片桐君はね、『皮でもいいから食べたかった!』と言ったそうよ。華はどうしたの?『ごみ箱のバナナの皮を握ってみたら、気持ち悪いクニャクニャしたものだったよ。でも中身は美味しそうだったさ。お母さん、華も皮じゃない、本当のバナナ食べたい。バナナよう。バナナが食べたいよ〜!」と言った。
「戦争に負けて台湾を取られちゃったからねえ、バナナなんて買えません!」と、母は語気荒く言った。翌日、私は果物屋さんに行って、ひな壇のてっぺんに飾ってあるバナナを見つけると「おじさん、バナナは一本いくらですか?」と聞いた。
「バナナねえ、一本三百円なんだよ。」と言った。(ちなみに封書8円、もりそば15円)高価な果物だと身に沁みて判った。
 それにしても、あんな食料事情の悪い昭和25年に、お弁当を持って来られない欠食児童がたくさんいる時代だというのに、渡辺邦子先生はなんとむごいことをしたのだろうかと、私はくやしくなった。渡辺邦子先生はもう40年前に亡くなっている。

 老人になってから、数年前に台湾一周旅行をした。
カレンという場所はとても美しいと聞いていた。案にたがわず大理石の渓谷の底の底に、トルコブルーの川が流れていて、あまりの美しさに目を奪われてしまった。その次の休息所で、本物の台湾バナナが配られた。私が小学一年生で初めてみたあのバナナだった。小ぶりだが、ねっとり甘くとても美味しかった。
 ちなみに<昭和24年、台湾バナナ戦後初めて輸入。>とある本に載っていた。今や日本ではバナナは山ほど売られている。それもお手頃価格の安さである。バナナのほとんどがフィリピン産だそうだ。フィリピンの青年達は「フィリピンの良いものは皆日本に行ってしまう。一番美味しいバナナと一番綺麗な娘さんたちが…。」と、歎いているそうだ。
 それを聞いて、フィリピンの若者の皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


3、タイムトリップ下北沢

 9月21日(月)、22日(火)  場所 カトリック世田谷教会
主催: つなげよう小さな手の実行委員会
世田谷カトリック教会でチャリティーマーケット開催。入場無料。9時〜18時
 多くの店が出るようだ。食べ物、手作り品などが出店される。
  当方は、求められて下北沢の古写真を提供した。主には踏切の写真である。
  『鉛筆部隊と特攻隊』〜戦争伝承への新たな試み〜 
  カマボコ兵舎ではこれのスクリーン上映を行う予定だ。
  また、「下北沢文士町文化地図」8版の配布を行うことにしている。配布活動参加の場合は、当方に連絡を。感染防止、あるいは時間分担などを決めたい。


4、プチ町歩きの案内

 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

第160回 9月19日(土) 13時 小田急線・梅丘駅改札前集合
案内者 きむらけん・米澤邦頼  朝ドラ「エール」の世田谷代田を歩く 
〇コース 未公表。距離は短い。古関裕而と関わりのあった箇所を歩く。雨天実施。


第161回 10月17日(土) 13時 小田急線・世田谷代田駅改札前集合
案内者 きむらけん・米澤邦頼  世田谷代田のダイダラボッチを歩く 
コース:世田谷代田駅前広場の足跡建設予定地見学→ダイダラボッチの源流(宇田川湯)→出頭山→代田大原境の庚申塔・地蔵尊→ダイダラボッチ跡→旧守山小→ダイダラボッチ川を下る
*代田のダイダラボッチは跡形がない。比較として駒沢ダイダラボッチを付け加える。希望者:代沢5丁目−(小田急バス)−野沢銀座→駒沢ダイダラボッチ二箇所→野沢龍雲寺停留所(新代田、下北沢方面バス)

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。それで先着順十名とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278
■ 編集後記                                  
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


rail777 at 18:30│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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