2023年01月13日
下北沢X物語(4628)―交点文化探訪:代田連絡線再び―

(一)11日、代田連絡線跡を久方振りに訪ねた、かつて十数年前は町歩きの定番として何度も訪れていた。今回行って感じた変化は二つある。街並が変わったことと人がいなくなったことだ。後者は証言者だ、前はそこらへん歩いている年寄りに聞くと「途中に架かっている鉄橋は怖かった、小学校高学年だったな、一人で渡れて一人前だった、枕木の間から下がのぞき見えるんだ。足が震えたよ」と答えが返ってきた。そういう人はもういない。いつも訪れていた春宮さんの家を通りかかる、「壁に代田連絡線跡という看板を建てましょう」、「ああ、いいよ」と言っていたご主人も三年前に亡くなられた。奥さんがおられるはずだと思って同行のデレクターと訪ねた。「あら、懐かしい、先生ですか!」と彼女は健在だった。
昨日、お堀端を歩いた(写真)、江戸城の説明看板があって「徳川300年」とあった。えっ、そんなに短かったのかと思った。日々の散歩では縄文遺跡にふんだんに出くわす。縄文一万年が心に染みついている、「300年では古老三四人を並べればすぐにも届きそうだ」と思った。が、一昨日旧下北沢2号踏切、3号踏切付近を歩いたが変化に驚いた。まず前者のそばに日本家屋の佐山一雄邸があった、こちらは更地(写真)になっていた。後者のすぐそばに旧静泉閣跡があった、名だたる文化人が住んでいたアパートだ。跡地は駐車場だったがビルが建築されていた。『方丈記』を思い起こす。
昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。
古老の佐山一雄邸にはさんざんに通いつめた、文化発掘の端緒を切り開いたお宅だ、ここでの聞き書きが私の原点であった。このブログはナンバーを振っている。今日のは、4628だ、�癸韻砲蓮屮▲法璽魯�ウン物語」を載せている。これは佐山一雄さんが飼っていたシェパードの名である。懐いていたワン公は軍用犬として徴発される。代金としてもらった10円をそばの川に彼は投げ捨てたと。
当ブログ内に検索窓がある、「佐山一雄」と入れると数多くヒットする。家や人はいなくなっても記録は残る、佐山宅に通い詰めて一雄さんの証言を聞き、これを網羅的にここに収録している。下北沢の陰の近代史である。都市の変貌がここには記録されている。
佐山氏宅の西隣には新しい学生寮ができた。まず最初は斎田家の田圃だった、これが時代ごとに建て変わってきたことを説明した。
「へぇ、そういう変化をたどってきたのですか!」
デレクターは驚いていた。

(二)
代田連絡線探訪、ハイライトは深い沢に架けられた鉄橋だ、しかし、痕跡は残っていない。地形としての崖だけは今も残っている。伝説の鉄橋だ。蒸気機関車が走ったとか電気機関車が走ったとか。
「斎田孝さんところに行かれたそうですが、彼は代田二丁目方向に走っていく蒸気機関車を見たと証言しています、しかし、応急的に作った鉄橋を渡るのは無理だったろうと思いますね」
そんな話をしながら鉄橋跡を歩き、坂を登り、廃線跡を歩く。そして春宮家に着いた。ご主人は亡くなった。ここには何度も通って往時のことを聞いた。奥さんも知っている。「奥さんがおられるはずだ」
チャイムを鳴らしたが応答はない、が、しばらくして「は〜い」と。そしてドアが開いた。奥さんだった。
「まあ、先生!」
久方ぶりの再会である。
「線路跡はこの奥の方ですね、お隣に家が建ったのでもう線路に敷いていた砂利はありませんね」
春宮家名物は、代田連絡線の路盤に使われた石ころだった、これがゴロゴロ出てきたという。
「私はあまり記憶にはないのですね、私はここで生まれたのです、昭和十九年ですからあまり記憶はありませんね。ただ小さい頃、一両だったかしら、通っていたのを覚えています」
(三)
歴史事実は、「代田連絡線、1953年(昭和28年)10月 レール・架線を含む全設備撤去」とされている。彼女の記憶は七、八歳当時のものだろう。
連絡線が撤去されて七十年経った、歴史は遠ざかり、人は老いていくばかりだ。



















