2023年01月14日
下北沢X物語(4629)―交点文化探訪:代田連絡線再び 2―

(一)代田連絡線は戦時応急線だ、1945年5月末に山の手空襲があった。このときに帝都線の永福町の車庫が空襲を受けた、多くの車輌が焼けた。国鉄線、私鉄線は順次復旧するが帝都線は電車が不足していて動かせないでいた。今次、ロシアがウクライナに非道な侵攻をしているが、攻める側はインフラ破壊という作戦を取っている、これによって想起したのは米軍の山の手空襲だ、こちらは東京政治中枢を狙った首都の壊滅作戦だ。3月10日の東京大空襲は10万人の死者が出た。が、米軍の狙いは山の手空襲にあった。二日に亘っての波状攻撃、何よりも東京大空襲よりも爆弾投下トン数が多い、米軍の戦略は首都壊滅だった、官庁街を叩くと同時に、官吏や軍人が居住する地域を狙った。帝都線沿線には首都を支える人材が住まっていた、永福町車庫は偶然的なものではなくインフラを狙い、首都中枢へ人が行けないようにする、戦意をくじく作戦だったと言える。
春宮家で奥さんと話した。
「当時を覚えている人はいなくなってしまいましたね、古い人でいえば、私のところと近所の斎藤さんぐらいですね……お家は、家の前の道をあっちにいって角から二軒目が斎藤さんところです」
「お元気なんでしょうか?」
「ええ、八十幾つかですが、お元気ですよ」
早速に斎藤家に向かい、玄関のチャイムを鳴らした。応答があった。
「近所の春宮さんからご紹介を受けたのですが、昔の代田連絡線のことは覚えておられますか?」
「覚えています、今、行きますから……」
出てこられたのは斎藤紘一さんである(写真)、昭和16年生まれだという。
「ただ私は、縁故疎開で長野に行っていました」
「いわゆる学童疎開では20年11月に東京に戻っています。ということは五六歳ですね、覚えておられますか?」
「線路があってそこで遊んだ覚えはあります。トロッコが時々通っていましたね。電車はときどき通っていたことは覚えています」
「春宮さんの奥さんも言っておられましたが、一両か二両ですね」
「そうそう、ガタンガタンと行ってしまっておしまいです」
「そこの鉄橋は覚えていますね。あちらに渡っていく肝試しはしませんでした?」
「あっちまでは行きません……」
(二)
代田連絡線最大の難工事は世田谷中原駅と代田二丁目駅の間にあった谷に鉄橋を渡すことだ。連絡線の痕跡はないがその地形は今も残っていて橋のおおよその長さは見当がつく。三十メートルほどではなかったかと思う。
往事の写真を見ると橋上の枕木は長さ太さなども不揃いでいかにも取り敢えず架けたという印象だ。枕木と枕木の間が三十センチほどあるように見える。ここは少年の度胸試しにはもってこいだった。
間に橋脚があった。二連のガーダー橋を接合した個所である。支柱は木製で四脚の柱を組み立て、太い柱でつっかいをしたものだ。上部には枕木を井桁に組み、その上に梁を渡している。つぎはぎだらけの戦時応急連絡橋だ。これを架けたのは「津田沼の工兵連隊の工兵」(『鉄道廃線跡を歩く』V 『大東急』代田連絡線)とされているがこの間、当ブログに指摘してこられた人は、「陸軍工兵隊の支援」<RM LIBRARY 236「帝都電鉄」(下)>とあったとのこと。大事な指摘だ。
架橋工事は困難だった。ガーター橋は高さもあって危険なものだった。斎藤紘一さんは行かなかった。幼かったからだろう。
昨日、フェィスブックに谷亀�冢困気鵑�こんな話を紹介していた。
昭和十八年生まれの叔父の話。
『廃線になった連絡線の鉄橋の上で、水袋(ビニール袋?)を持って隠れ、下を通る通行人にぶつけて遊んでた!』
と悪ガキぶりを誇らしげに小さな私に聞かせてくれたのを思い出しましたよ。
肝試しは高学年だったのだろう。
深い沢を越す鉄橋だから高い、枕木と枕木の間から水爆弾を落として喜んでいた。
(三)
代田連絡線には伝説が残っている。
蒸気機関車が走った。EB10形電気機関車が走った。後者では、「EB10形二台で電車を挟んで帝都線側に運ぼうとしたが軸重が重くて途中で引き返した」という話もある。代田連絡線伝説である。
代田連絡線最大の難工事は世田谷中原駅と代田二丁目駅の間にあった谷に鉄橋を渡すことだ。連絡線の痕跡はないがその地形は今も残っていて橋のおおよその長さは見当がつく。三十メートルほどではなかったかと思う。
往事の写真を見ると橋上の枕木は長さ太さなども不揃いでいかにも取り敢えず架けたという印象だ。枕木と枕木の間が三十センチほどあるように見える。ここは少年の度胸試しにはもってこいだった。
間に橋脚があった。二連のガーダー橋を接合した個所である。支柱は木製で四脚の柱を組み立て、太い柱でつっかいをしたものだ。上部には枕木を井桁に組み、その上に梁を渡している。つぎはぎだらけの戦時応急連絡橋だ。これを架けたのは「津田沼の工兵連隊の工兵」(『鉄道廃線跡を歩く』V 『大東急』代田連絡線)とされているがこの間、当ブログに指摘してこられた人は、「陸軍工兵隊の支援」<RM LIBRARY 236「帝都電鉄」(下)>とあったとのこと。大事な指摘だ。
架橋工事は困難だった。ガーター橋は高さもあって危険なものだった。斎藤紘一さんは行かなかった。幼かったからだろう。
昨日、フェィスブックに谷亀�冢困気鵑�こんな話を紹介していた。
昭和十八年生まれの叔父の話。
『廃線になった連絡線の鉄橋の上で、水袋(ビニール袋?)を持って隠れ、下を通る通行人にぶつけて遊んでた!』
と悪ガキぶりを誇らしげに小さな私に聞かせてくれたのを思い出しましたよ。
肝試しは高学年だったのだろう。
深い沢を越す鉄橋だから高い、枕木と枕木の間から水爆弾を落として喜んでいた。
(三)
代田連絡線には伝説が残っている。
蒸気機関車が走った。EB10形電気機関車が走った。後者では、「EB10形二台で電車を挟んで帝都線側に運ぼうとしたが軸重が重くて途中で引き返した」という話もある。代田連絡線伝説である。
この記事へのコメント
1. Posted by すぎたま 2023年03月20日 05:09
EB10形を入線させた話は本当です。経堂検車区に留置されている写真も残っています。さらには小田原に2輌留置されているような様子の写真も見たことがあります(昭和21年6月1日の日付あり)。
買収された青梅鉄道の電車(既に省籍に入っているので省電)を応急入線させたようですが、部品不足と低性能、故障がちなため、EB10+クハ+クハ+EB10として運転しようと画策したようです。EB10の入線は昭和21年1月と記録されていますが、低速、重軸重、前後の機関車が総括制御出来ない、車輌限界を突破…という問題から、試運転のみで返却されたそうです。しかし小田原に留置されていたのが6月1日で正しいとすると、井の頭線からは即撤退したと思われるのに、半年近くも小田急線内にとどまっていたことになります。何をしていたのでしょうね(笑)。
買収された青梅鉄道の電車(既に省籍に入っているので省電)を応急入線させたようですが、部品不足と低性能、故障がちなため、EB10+クハ+クハ+EB10として運転しようと画策したようです。EB10の入線は昭和21年1月と記録されていますが、低速、重軸重、前後の機関車が総括制御出来ない、車輌限界を突破…という問題から、試運転のみで返却されたそうです。しかし小田原に留置されていたのが6月1日で正しいとすると、井の頭線からは即撤退したと思われるのに、半年近くも小田急線内にとどまっていたことになります。何をしていたのでしょうね(笑)。



















