2023年01月16日

下北沢X物語(4630)―代田連絡線伝説 上―

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(一)代田連絡線は、長年調べてきた、しかし、振り返るとそこらに転がっている記録を鵜呑みにしてきたように思う。〇〇に書かれているから事実だろうとの先入観があった。代田連絡線は鉄道ファンには興味深い話題だ、ネットでもよく書かれている。この記述の中で必ず触れられるのは神泉トンネルで焼失を免れた電車のことだ。Wiki「代田連絡線」でも「永福町駅にあった永福町検車区が被災し、渋谷 - 神泉間のトンネルに駅員らが人力で避難させた2両などを除いた井の頭線の大半の車両が焼失」とある。なるほど駅のそばの神泉トンネルで被災を免れたのか!それで避難していた2両が被災を免れて、これが応急的に走ったというのだ、しかし、段々に分かってみるとこれも伝説ではないかと思えてた、さて真実はどうなのだろうか。

 帝都線、井の頭線の被災状況や運行状況について非常に客観的な情報を載せているものがある。それは一色次郎の『日本空襲記』である。日記形式で書かれた正確なものだ。その彼は、代田西ノ丸荘に居住していた。最寄り駅は東松原である。

 山の手空襲である。1945年5月24日、25日両日に亘って敵機B29は当地に襲来してきた。24日、一色次郎は居宅と尾根続きにある根津山に行って観察している。小田急線が眼下に見下ろせるところだ。ここでB29が列を作って海側から進入してくる様子を彼は観察していた。

 爆撃機の長い列は、真東の海の上からもつづいている。これは三番目の侵入口である。こんやは、いったいどういうことなのだろうか。私は胸の奥がしんとつめたくなった。敵はどうして、こんなにもたくさんの飛行機を飛ばすのだろう。
 『日本空襲記』 文和書房 1972年


 敵機は、整然と隊列を組んで海側から侵入してきた、まず二隊が並行するコースを飛んでくる、見ているとこんどは東側からもう一隊がやってくる。これまでとは違った攻め方である。隊形は計算されている、緻密な爆撃計画のもとに爆撃機は動いている。これを眺めている一色次郎は恐怖を覚える。

 私は首をかしげないではいられなかった。いくら考えてもわからなかった。東からの爆撃機の隊列は、正確な間隔をたもち、落着いて、すべるように走ってくる。

 爆撃機は「正確な間隔」を保って飛んで来る、爆撃計画がいかに緻密であるかが分かる。一機一機にはどこを爆撃するのかが事前に命令として伝えられていた。中野区から杉並区にかけては見事に焼けている。



(二)
 東京戦災区域地図を見ると永福町車庫は焼失地域の中に載っている。米軍が意図的に狙って攻撃している。市民の足を奪って戦意をくじこうとするものだろう。このときの攻撃によって被災を受けた車輌について正確な情報が、フェイスブックコメントに寺島俊之さんからあった。

●戦災で24両全焼
戦災により31両の中24両が全焼した。全焼車両は次のとおりである。
デハ1367,1401~1403,1406~1409,1451~1456,
クハ1501,1551~1559 計24両
東京急行電鉄 川垣恭三(新潟大学助教授)
ROMANCE CAR No.19 1952(昭和27)年4月15日発行 東京鉄道同好会
東京都中央区日本橋本町2-1 高松吉太郎方


 被災は壊滅に近い、残った車輌は7両だった。これも半壊に近い。
 戦災による井の頭線の被害である。『日本空襲記』に当たる。五月二十八日では、「井の頭、全線」不通である。次に興味深い記事が載っている。

五月三十日
 帝都線は、明大前と一高前駅の間に、電車は一台しか残っていなかった。下り線は不通だし、こちらのがわには電車は一台も残っていなかった。下り線は不通だし、こちらの側には電車は一台も残っていない。つまり、明大前、一高前間を一台、たった一輌で折り返し運転をしているのであった。ともかくもずいぶん待って、この電車で渋谷へ出る。『日本空襲記』


 一色次郎の最寄り駅は東松原駅である、彼はここを基準として述べている。月末になってようやく帝都線の電車は動きだした。
 明確な事実で言えば、一高前と明大前間に一輌の単行が焼け遺っていたということである。この間にある駅は、渋谷側から一高前、駒場、池ノ上、下北沢、代田二丁目、東松原、明大前である。側線があるのが代田二丁目駅である。

(三)
「昔は、代田二丁目駅行きの電車があった。いわゆる区間運転というやつだな、通勤駅の終点みたいな感じだった、それでこの駅には渡り線が設けられていた」
 こんな話を古老に聞いたことがある。あるいは代田二丁目に留め置いた電車があったのかもしれない。神泉トンネルで助かった電車というのは伝説なのかもしれない。
(写真は代田連絡線新代田側の分岐部付近)





rail777 at 18:30│Comments(2)││学術&芸術 | 都市文化

この記事へのコメント

2. Posted by きむらけん   2026年03月08日 17:11
>>1 コメントをありがとうございます。空襲は1945年5月24日25です。帝都線は車両があらかた焼けたと言われています。神泉トンネルに残った2両は有名です。渋谷駅の焼け残った車両を人力で押して神泉トンネルに入れたというのはこれまでにない証言です。両数は多分2両だったと思います。 一高前と明大前間の折り返し運転は正しいと思います。新しい情報がありましたら、またコメントをよろしくお願いします。
1. Posted by たこぽん   2026年03月08日 09:46
5 うちのじいちゃんは当時渋谷の駅員で停電で動かなくなった車両を人力でトンネルに押し込んだって言ってた。3両目も入れようとしたんだが途中で火が回ってしまいだめだったそうだ。

渋谷駅と永福町は被災してしまったので一高前と明大前で単線を使って折り返しになったのだとおもう。

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