2023年11月16日
下北沢X物語(4825)―新地図での特集は萩原朔太郎 下―

(一)会員の木幡俊子さんが亡くなられた。1928(昭和3)年生まれだという。長い間代田に住んでおられ。家は萩原朔太郎の居宅と隣接していた。土地の高低で段差になっていて彼女の家は下の方である。上からは音が転げてくる。少女時代、隣から聞こえてきた声に耳を塞いだ。「苦しい、苦しい、苦しい」と。臨終を迎えた詩人の声だ、怖くて怖くて蒲団にもぐり込んだという。詩人はこの家で『氷島』序を書いた、「著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んでいる」と記した。悲痛な音だったようだ。詩人は臨終に臨んで自らが音を発した。「苦しい、苦しい、苦しい」と叫んだ。その言葉は切羽詰まったものだった。それで木幡さんは耳を塞いだ。世田谷代田で放たれた断末魔の声は少女の耳に鋭く突き刺さった。それは詩人最期の生の詩である。
下北沢文士町文化地図には、ずっと解説を書いてきた。
課題は二つ、一つは文化論である、なぜにかほどまでに文化人、文学者が集まってきたのか。もう一つは、交通論である。鉄道の発展と文化の形成は深い関係にある。今回もこれについては解説を加えた。
今回の新地図での特集は萩原朔太郎である。
詩人の当地への居住は興味深い。世田谷代田には後に詩人の弟子である三好達治が越してくる。疎開先の福井三国から東京に引き揚げるにあたって宇野千代が手伝った。自分が書いていた週刊誌に「下宿先を求む」ということを書いた。多分数通が応答として来たのだろう。世田谷住まいの経験がある宇野千代が一つを選んだのかもしれない。その家が世田谷代田一丁目の岩沢方であった。
当初は気づかなかったが三好達治は越して分かったのは朔太郎家と極めて近かったことを知って喜んでいたという。
(二)
因縁因果はあるのだろうか、鉄塔繋がりだ、朔太郎が61号鉄塔、三好達治が57号である。鉄塔が二人の存在と関係していたのだろうか。
この鉄塔は駒沢線と呼ばれる。若林から代田へ、南から北へ鉄塔は縦断している。鉄塔番号、51号から52号と繋がるがこのときに後者は鉄塔が急に高くなる。架線が6本から12本に増えるからだ。51号と52号の間には世田谷線がある。かつては下高井戸線と言った。
駒沢線はこの下高井戸線に電気を供給していたようだ。それで電線の本数が多かった。架線の数が多くなると必然的に抱える本数が多くなるから鉄塔は高くなる。
代田の丘の61号鉄塔は、基盤が丘上だ、ゆえに12本を戴く塔は高い。この下に朔太郎は山田淳の建築を模した自らの設計による家を建てた。高々と聳え建つ鉄塔と三角の屋根はよく似合う。この61号の鉄塔は家づくりに深く関係しているのではないか、私は前からそのように述べている。彼は『新しき欲情』のなかでこう述べる。
げに自然の中にある人工物は、自然の重苦しい威圧を和らげ、あたりの沈鬱した空気を適度に明るくする。ばかりでなく我等の生活感情にさへ、一つの快適な微笑をあたへるであろう。
昭和八年二月朔太郎は代田の新居に転居する。自らが設計した家だ。緑多い北沢川左岸崖線は田園風情が溢れていた。丘上に聳え建つ瀟洒な銀色の鉄塔は彼に「快適な微笑」を与えていた。聳え建つ鉄塔は都会のシンボルでもあった。
(三)
新地図は、「下北沢文士町文化地図」9版としているが、副題に「北沢川文化遺産保存の会創立20周年記念」と入れる。
地図の原型を作ったのはデザイナーの東盛太郎さん、彼は早くに物故した。彼が作った原型を我々はずっと伝承してきて今にある。
地図づくりの苦難は幾つもある。あるとき資金に困っていた。そのときに田中義輔さんが「足りないのならおれが出してやる」と実際にお金を出してくれたこともある。
新地図は、2024年3月に発行される、できれば北沢川緑道の桜祭りで配布したい。
(この章は了とする)
お知らせ。
〇この18日に行う予定だった。「世田谷の鉄塔を歩く」は、希望者が3名、我等の会の町歩き催行は4名から、ということで中止した。また機会があれば企画してみたい。
12月16日(土)の町歩きは、「クリスマスの下北沢『猫町』散歩」を実施する。
この町歩きは既に6名の参加申し込みがある。よって催行する。
(写真は今日の駒沢公園)



















