2024年05月02日

下北沢X物語(4933)―学童疎開・特攻から80年 4―

小柳の湯
(一)記録は歴史の根幹だ、が、我々はこれをないがしろにしてきた。都合の悪いものは焼却したり書き換えたりする、戦時記録もそうだ。飛行場日誌もあった、着時刻、機数、機種、所属隊、人数などが書き記されていた。が、昭和20年(1945)8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定する。即座に軍関係の関係書類の焼却が命令された。歴史は闇に葬られた。終戦末期沖縄戦を控えた陸軍特攻機が信州山岳地帯にある松本飛行場に陸続と飛来してきた。しかし公的記録は焼却され残っていない。僅かに残された記録。疎開学童が書いた日記や手紙から事実を掘り起こす。これらを丹念に見ていくしかない。先だって山崎国民学校斎藤晶康さんから聞き取りをした。改めて2005年発行の同校同窓会報「光とりどり」読み直してみた。

 小柳の湯は浅間温泉でも一二を争う大旅館であった。山崎国民学校の学童はここを本館とし175名が入った。分館の椿の湯は15名が収容された。春三月、ここにも他の旅館同様、特攻隊員がやってきた。その総数は分からない。が類推するに他隊の編成からすると十五名であったと思われる。

 ここに滞在していた特攻隊員は全員がここに起居していた。浴槽も広かったが下士官たちは上官に遠慮して分館の椿の湯にもらい風呂に行っていた。

 本館は学童の人数も多く、互いに接することも多く。顔見知りとなったようだ。
本館の湯船は広く大きく、隊員と学童とが一緒に入った。
 彼らは昼間飛行場に出かけては飛行訓練を繰り返した。とくに若い隊員は練度が不足していた。それで練習はとてもきつかった。旅館に帰って風呂で油で汚れた身体を洗い、湯船に浸かった。気持ちよくなると歌を歌った。
 学童が一緒に入っていると「歌は好きか?」といって話し掛けてきた。兵隊との交流の一端を今井賢治君はこの文集に書き記している。タイトルは「誰も書かなかった集団疎開」である。

 大きなタイル張りの浴槽に硫黄分を含む温泉に毎晩入浴できたが、子どもには有難味はなかった。軍事演習帰りの兵隊がドヤドヤ入ってきたが、子ども好きで軍歌を歌われる。

ロッキー山脈アルプスの
雪の峰峰見下ろして
操縦棹を握れば
エンジンの音懐かしく
心も躍る雪の上
アアそうなるや航空兵


この歌は、「航空兵の歌」である。作詞 久保木巌 昭和3年(1928)とある、飛行兵の愛唱歌だった。特攻隊員たちはこの歌をよく歌っていた。



(二)
 彼らはつぎつぎに歌を披露した。これを聞いていた五年生の今井賢治君、「お陰で軍歌のレパートリーは広い。私の歌唱力の原点はここにあったのかもしれない」と述べる。
 
 この記述も大事だ。お風呂での出会いは一回だけということではない。複数回に亘ってあった。それで皆も軍歌を覚えた。ここからは彼らの滞在が推察される。二三日ではなかった。週間を越える日数があったのだと推察できる。

 話は横道に逸れるが先の斎藤さん、運動能力に優れたとある先生を敬服していた。が、今井君は、手厳しい彼をKといい、「断じて許すことができない」と。「ある夜中、Kの大声とドタバタの足音が聞こえた。寮母さんだったが、私達の寝ている布団の中に逃げ込んで来て難を逃れた」。Kは酒癖が悪く酔うと獣のようになって女を追い回した。疎開では往々にしてあったことだがこれは誰も語らない。「誰も書かなかった集団疎開」はその秘密の一端をここで暴露している。

(三)
 小柳の湯にいた特攻隊は、どこの何隊なのかは皆目分からない。が、僅かな手掛かりを残していた。彼らが九州新田原から小柳の湯の学童に葉書を書いていた。私はこれを手掛かりにして特攻最前線まで調べに行った。九州宮崎の佐土原である。ここに紫明館という料亭があった。

 面白いことに宮崎の一部の高女生の間で「紫明館行き」という符牒があった。つまり、特攻兵になると料亭の紫明館に行かされてた。そしてここで酒が振る舞われ山海の珍味がたらふく食べられたというものである。こちらは宮崎の紫明館のことなのだが……。
(写真は小柳の湯)


rail777 at 18:35│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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