2024年05月27日

下北沢X物語(4950)―疎開・特攻・梅丘 5―

P1080280
(一)訃報をまた聞いた、カフカ研究者、東大名誉教授の辻 瑆(ひかる)先生、5月14日に死去されたと。御年101歳だ、この一月には101歳の誕生日を迎えられミュンヘン大学から祝意の電話が掛かってきたという。生前お話を聞こうと思っていたがそれも叶わず亡くなられた。学徒動員で駒場の輜重兵連隊に入られた。度々鉄拳制裁を浴びたと。生前学者が総じて沈黙するようになって批判の声を聞かなくなったと。国家の右傾化を嘆いておられた。戦争を経験してきた世代には骨を感じる。91歳の小市泰子さん、疎開時代から大人の行うことに不信感を持っていた。学童に送られてきた食料品を家族で疎開してきた先生は貯め込んで自分たちで消費していたと。軍国主義の先生は手のひらを返すようにもうアメリカ風だったと。

 昨日、邪宗門に行った、代田の山本裕さんが来て雑談。今津博さんの『代田の昔』の話になった。
「もう亡くなられたけど本当に貴重な記録を残されましたね。あれには戦争前の中原商店街の店名が載っています、貴重な記録です。人々がどんな生活をしていたか分かりますね。魚屋が三軒もあるのですね、面白いのは三軒とも店先は東向き、西日が当たらないようにしているんですね……やっぱり記録に勝るものはありませんね。この頃代田の西どなり梅丘のことを調べていますが。代田とは異なった文化がありますね。駅ができるのが遅かったのですね、梅丘以外は小田急開通年の昭和2年開業しているんですけど、梅丘は昭和9年、代田・下北沢地域とは文化が違いますね。取り残された分、自由性が高いというか、のびのびと暮らしていたみたいですね……」

 一昨日だ、私は梅丘の小市泰子さんに電話した。何やかにや話しているうちに。
「あなたが私の人生をちゃんと書き換えてくれるんですね!」
 彼女の証言がつじつまが合わない。口述と記録には乖離がある。特攻兵と東京で出会ったというのは記憶違いだったようだ。
 彼女の言葉を聞いて人生修正師を思った。記憶の間違いを直して正確なものにする。



P1000831
(二)
「やっぱり記録に勝るものはありませんね。学童疎開で世田谷から浅間温泉に行ったことは大きなできごとです、これの総数が約2500名ですね。おおげさかもしれませんが2500名分の手紙や日記があるのですね、その文字世界に分け入っていくとそこかしこに小さな歴史真実が隠されているのですよ。戦時の記録は国家ぐるみで抹殺しています。ところが学童の記録には真実が書かれているのです。しかし学童疎開から80周年が経ちました。小4だと90歳、小5だと91歳です。みんな亡くなりつつあるんですね、それ共に残された日記や手紙も不要物として破棄されていくのです。もったいなのですがこれが真実です」
私は、山本裕さんにこう語った。

 陸軍松本飛行場の戦時中のことを今、話題にしている。これについてコメントに情報があった。寺島俊之さんからだ。

下記によれば松本飛行場の組織名は「各務原陸軍航空廠松本出張所」と呼ばれ岐阜の指揮下にあったそうです。また軍用機製造工場も設置されて本土決戦に備えていたようです。
https://www.shimintimes.co.jp/news/2023/08/post-22760.php

 
松本の市民タイムスのウエブページである。

旧陸軍松本飛行場は本土決戦の航空拠点か 原明芳さんが20年かけ調査

本土決戦の航空拠点であったことは確かだ。記事はこう述べる。

 「軍用飛行場と航空機生産の一大複合拠点」として整備が進められた陸軍松本飛行場と関連施設は、敗戦後「手のひらを返したように記録が処分され、実態が分からなくなった」。記録や記憶の風化を懸念し「時代の狂気が足元にもあったことを忘れてはいけない」と話している。

調べようとしても記録がない。ところが学童たちの日記や手紙がある。これが歴史の宝庫なのである。

(三)
 この記事は、原明芳さんの講演の予告を伝えていた。16日とあるがいつなのか。
信州フォーラムに電話申し込みせよとのこと。

 夜になって電話があった、フォーラムの人だ。
「なにしろ山に囲まれた山岳要塞ですからね」
「本当にそうなんですよ。本土決戦の航空拠点というのは確かです。沖縄決戦に備えて相当数の特攻機が陸軍松本飛行場に飛来してきています。このことが浅間温泉に疎開していた学童の証言や日記・手紙などから分かるのですよ……」と私。
(写真、フェィスブック、世田谷キャロットタワー・山は信州アルプス、学校は山崎小学校)



rail777 at 17:31│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔