2024年06月18日

下北沢X物語(4965)―明大前和田堀廟所掃苔行―

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(一)明大前駅は鬼門だ、電車を乗り換え時にいつも不思議な経験、思っていた方向とは逆から箱が進入してくる!謎だ。その明大前に集まり、築地本願寺和田堀廟所を巡った。案内者は屈指の墓歩きの達人だ。「お父さんのお墓いつも迷うのよね」と吉本ばななの逸話を原さん話してくれた。ところが、彼はどこのお墓に行っても迷うことはない。つぎつぎに墓を廻っては「この墓は……」と。「なるほどこの人がここに!」と思っているとすぐにまた別の文化人墓、気持ちを整理する暇がない。脳裡にはたちまちに人情報が収蔵されていく。次が内田吐夢。脇に「命−コマ」とある。そして笠置シズ子には「寂静院釈尼流唱」と「流れる歌か、なるほどな」と。たちまち頭の収蔵庫が一杯になる。まさに墓場は死せる者が埋まった劇場だ。

 明大前に集まり、和田堀廟所へ向かうが、その途中に文化人旧居がある。窪島誠一郎である。彼はここにあった靴磨き屋さんに預けられて成長していく。水上勉の私生児である。

 水上勉は、修業時代に下北沢で仕事をしていた。北沢八幡神社近くに文潮社があった。戦後ここの社員として働いている。東京は方々が焼けた。その中で下北沢は焼けなかった。人間いつの時代にも逢瀬は必須だ。それを当て込んで下北沢には連れ込み宿ができた。

 壁が薄いから男女の営みをすると隣に筒抜けになる。そういう宿に作家を泊まらせ原稿を書かせた。正宗白鳥や宇野浩二や田中英光などである。このとき水上勉は、口述筆記をして糊口を稼いでいた。下積み修業時代を下北沢でも送っていた。

 この頃彼には白木屋のダンスホールに勤めていたM女がいた。その彼女が長女を置いて家を出てしまった。男ができたからである。水上勉は明大前近くの印刷所に彼女がいるというので長女を伴って会いに行った。(自伝的小説『秋夜』)

 鉄道交点には秘められた物語が数多く埋まっている。明大前と下北沢は類似性がある。



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(二)
 交通論的都市論、明大前と下北沢は鉄道での因縁因果がある。

 井の頭線は京王本線と明大前で真十字に交差している。寸分のゆがみもない。後発会社の井の頭線(帝都電鉄)は礼を失してはならないと京王線の下をまっすぐに潜った。この交差角度が下北沢での小田急線の交わり方を決定した。それでゆがんだ交差角度になったのではないかと私は妄想している。

 私達は、窪島誠一郎が建てたという小劇場キッド・アイラック・アート・ホール跡で原さんからの説明を受ける。この一帯は、戦争中いわゆる山手空襲に遭ってほとんどが焼けたという。窪島は石巻に疎開していた。昭和二十九年九月にここに戻ってきた。窪島は『『明大前』物語」を著している。原さんはこれを資料に記していた。
 
 ふしぎだったのは、幅四、五メートルほどの甲州街道とおぼしき砂利道をへだてた向こうがわに。まるで衝立を立てたように聳えている明治大学の和泉校舎だけがかすり傷一つ負わずに妙に堂々として立派に見えたことだ。外壁の半分ぐらいまで迷彩色をほどこされたベージュ色の校舎のガラス窓が(当時の和泉校舎は日本陸軍の情報部か何かに使われていたそうだ)、つよい強い夏の陽差しに照らされてにぶく光り、校門のすぐそばに茂ってる背の高いケヤキの木が二三本、何事もなかったように、静かに風にそよいでいた。
 明大前一帯はほとんどが焼き払われたという。が、明大和泉校舎は無事だった。窪島誠一郎が預けられていた靴屋も消失していた。そのことから水上勉は、誠一郎はこの空襲に遭って死んだ者と思っていたという。

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(三)
 小劇場跡を見て甲州街道に架けられた歩道橋を渡る。すると明治大学和泉校舎正門前だ。
「校舎内に立て看を建てられなくなったので外に立てているんでしょう」(写真:看板)
 明治大の卒業生OGが教えてくれた。イスラエルのガザ侵攻を抗議するものだ。
「そういえば昔は、大学は立て看だらけでしたね」と私。

 この明大和泉校舎も築地本願寺和田堀廟所跡と同じく払い下げられた陸軍省火薬庫跡に建てられたものである。墓地と大学は明大前のシンボルである。
「墓地と大学とがあるから明大前は発展しなかった窪島さんは書いていたように思います」
 原さんだ。(歩道橋下での原さん)




rail777 at 18:52│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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