2024年06月19日

下北沢X物語(4966)―明大前和田堀廟所掃苔行 2―

和田堀廟所2
(一)お墓と都市論、面白い観点だ、墓じまいという言葉がある。田舎にある墓地の処分が中心だ、散骨であったり、合同墓への埋葬だったり、骨壺の移転だったり、田舎のお墓を東京圏に移す例も多い、東京の墓は過密だ。その中でも「築地本願寺和田堀廟所」は格の高い墓所だ。某S首相の墓もある。が、政治世界は汚い。嘘ばかり話題にもしたくない。埋葬されている人々で知らなかった人もいる。作曲家の海沼實だ。墓石の脇に代表曲が刻まれていた「里の秋」、「みかんの花咲く丘」だ。タイトルだけで胸がツゥンとしてくる。我らが文士町居住者川田正子を育てた人物だ。案内者の原さん、ここの墓所の代表格は樋口一葉と九条武子ですと。なんといってもピカ一は樋口一葉だ。しかし土地との関わりは薄い、が、やむを得ないことだ関東大震災で本願寺は焼けた。それで墓所を再興してお墓はここに移ってきた。関東大震災は文化の西郊移転をもたらした。

 原敏彦さん、資料に「和田堀廟所に眠る文化人」を列挙している。我ら文士町関係では二人いる。服部克久と中村汀女だ。

 服部克久さんには会ったことがある。我ら文士町地図を北沢川緑道で配布している。そのときにとおり掛かられた。それでみなで記念写真を撮ったことが思い出される。
 我らが地域風景資産として推薦した「代田の丘の61号」鉄塔のすぐ下に住んでおられた。これは萩原朔太郎ゆかりの鉄塔だ、克久氏、鉄塔にはそれなりの思いがあったのではなかろうか。聞いておけばよかった。

 お墓は服部家のはあるが、服部克久家では新しく墓を作ったようだ。大理石で作ったピアノが墓前に設えてあった。命日は6月11だった。この直後だったことから墓前には多くの花束が飾ってあった。

 我らの「下北沢文士町文化地図」の最新版には旧居跡が載っている。服部家からは掲載してよいとの返答を得て載せてある。



和田堀廟所1
(二)
 下北沢文士町に名を刻んであるのは中村汀女である。昭和を代表する女流俳人だ。
羽根木公園の句碑に刻まれた「外にも出よ触るるばかりに春の月」は有名だ。彼女は俳誌『風花』を主宰していた。

「句会の折に、家の和菓子を配達しました。お得意さんでしたね」
 代田香風の主人は言っていた。

 中村汀女で思い起こすのは大谷藤子である。北沢タウンホールの前が旧居である。
『文士の私生活』ー昭和文壇交遊録ー松原一枝 新潮新書 2010年
 「中村汀女」の平手打ち

 今日の昼すぎ、新宿中村屋の前で中村汀女さんと、ばったりと出会った。そのとき、あることから互いにいい争いになった。汀女さんが大谷さんの頬を激しく叩いた。大谷藤子さんの眼鏡がそのはずみで舗道に落ちた。それで眼鏡がこわれた。という、俄には大谷さんの話が信じられない。汀女さんは著名な俳人、俳句誌「風花」を主宰、俳人たちの尊敬する俳壇の第一人者である。その汀女さんが喧嘩のはて、手を挙げて大谷さんを打ったという。二人とも年齢は分別もある五十路すぎである。
 
 言えば文壇ゴシップ記事である。この筆致、面白おかしく逸話を紹介している。その後の展開はもっと思わせぶりたっぷりに書いてある。

 女性同士がある女性を巡っての取り合いに端を発した喧嘩だという。嫉妬が原因のようである。取り合いをしていたは富本一枝であるようだ。

(三)
 お墓は生を終えたものが眠る場所だ。
 生は性に通じる、男女の性の営みがあって子孫は生まれる。が、宗家などはこれの血統を巡ってしばしば争いごとが起こる。

 和泉元秀の墓を巡った。狂言方能楽師、和泉流十九世宗家である。
「跡目争いでたいへんだったようです」と原敏彦さん。

1990年、父である九世三宅藤九郎が亡くなると、名跡を次女に襲名させた(次女は当時17歳)。周囲は九世の次男・三宅右近が継ぐと思っていたこともあって、物議を醸した。

家筋、血筋をどう残すのか、思わくが入り乱れて反目も生まれる。生きることは難しいことだ。が、結局誰もが年老いて死ぬ、そして鬼籍に入るのである。
(写真上、下ともに和田堀廟所、新庄まゆみさん提供写真 フェィスブックは服部家墓)

rail777 at 18:20│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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