2024年06月30日
下北沢X物語(4973)ー北沢川文化遺産保存の会会報第216号ー

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第216号
2024年7月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、福田誠夫先生の思い出 赤坂暢穂
私は福田誠夫先生に世田谷区立北沢小学校で1955年春まで6年間担任をしてもらいました。先生のお父様は詩人の福田正夫です。ご自宅は、拙宅から西南約300mの長屋にあり、6年の頃、お母様と先生、先生の弟(中学校教員で別居)、妹(大学生)の4人家族でした。先生は背が高くがっちりした体格でした。先生の授業は、管理教育が導入されず先生の自由に授業をされていました。算数の宿題が多く、2年から英語の単語と発音、俳句づくり、ユニークな音楽を導入、絵画、体育(雪中のラグビー、夏、先生は越中褌、男子は六尺褌姿で水泳)、校庭の空き地で野菜作り、秋、天気の良い日に我々の組だけ小田急線梅ヶ丘駅側の根津山(現・羽根木公園)まで絵描きに徒歩で出かけ、絵描きはそこそこ、どんぐり拾いや雑木林、ススキの中でかくれんぼ等をしました。ユニークな音楽では、高学年は音楽室で音楽専門教員に習うことが主でしたが我々の組のみ、青空詩人と言われていた太子堂在住の永井叔さんを時々、学級に招き、校舎西側二階非常階段踊り場の上から下まで児童が座り、永井さんは地面に立ち、顔面髭だらけ、青空詩人と書いた空色の襷をつけ、木琴を首から下げ、マンドリンにハーモニカで演奏、児童は家から持参した裏が白紙の用紙に先生が歌詞を印刷、それを見ながら歌いました。民衆詩人と言われる外部の方を、今の時代の公立小学校で招く事は考えられません。体育では夏、水泳に力を注ぎ皆泳げるようにする目標だったのでしょう、プールのスタート台から担任とそれ以外の先生が児童の手足を持ちプールに投げ込む、泳がないと上から首を抑え沈め、苦しくもがいている内にだんだん泳げるようになりました。運動会で予行練習の際、私はスクエアダンスで嫌いな女の子とペアを組まされ拒否すると、先生が私の尻を足蹴にし、「教室に入ってろ!」と叱られ、練習後、学級会で、先生は皆の前で「悪かった、お前のみが悪かったのでなく他にもいたが代表してやった」と弁解されました。6年間、幸い素晴らしい先生と出会い、思い出深い小学校生活を送ることができました。ありがとうございました。
2、福田正夫という詩 松山 信洋
福田正夫の「民衆詩派」が登場した意味とは何であったか。この時期、北原白秋、高村光太郎、山村暮鳥、萩原朔太郎、室生犀星らが登場し、明治時代以来の近代詩は大きな成熟の時を迎えつつあった。またこうした芸術的立場に立つ詩人たちだけではなく、第一次世界大戦を契機として起こった大正デモクラシーの思想を背景として、詩の分野においても労働者・農民の労働や生活を表現しようとする潮流は時代の要請にこたえるものであった。福田たち一群の詩人たちは難解な詩語、文語を駆使した高踏的な詩ではなく、平易な日常語による徹底した口語自由詩によって人々の現実の喜び、苦しみを歌おうとしたのである。その意味で「民衆詩派」は詩の普及、大衆化という面では大きな成果を上げたと言える。彼らが中心になって1917年当代の代表的詩人たちを糾合した詩話会が結成されると、彼らは詩壇の中枢を占める勢いを示した。しかし昭和に入り、彼らの詩が徐々にマンネリ化し、弛緩し、散文化していく過程で、芸術派からの、さらにはプロレタリア詩の勃興という左右からの批判にさらされて「民衆詩派」の運動は力を失っていった。微温的なヒューマニズムに立脚した彼らの限界だったのだろう。以後、「民衆詩派」の詩人たちは戦争に向かう時代の流れに翻弄され無批判に、あるいは積極的に身を投じていくことになった。
1937年ラジオ国民歌謡としてつくられ、翌年、渡辺はま子の歌唱で日本コロンビアからレコード化され大ヒットした歌謡曲がある。
「愛国の花」作詞福田正夫 作曲古関裕而
一、真白き富士の 気高さを/心の強い 盾として/御国(みくに)につくす 女等(おみなら)は/輝く御代(みよ)の 山ざくら/地に咲き匂う 国の花
二、老いたる若き もろともに/国難しのぐ 冬の梅/か弱い力 よくあわせ/銃後にはげむ 凛々しさは/ゆかしく匂う 国の花
三、勇士のあとを 雄々しくも/家をば子をば 守りゆく/やさしい母や また妻は/まごころ燃ゆる 紅椿/うれしく匂う 国の花
四、御稜威(みいつ)のしるし 菊の花/ゆたかに香る 日の本の/女(おみな)といえど 生命(いのち)がけ/こぞりて咲いて 美しく/光りて匂う 国の花
戦場に向かう夫、息子たちを気づかいながら、けなげに銃後を守る女たちを山桜、冬の梅、紅椿にたとえ、四番で日本の国花である菊によってまとめたあげた歌詞は情感こもった曲と相まって雄々しくも美しい。先入観を持たず歌に素直に耳を傾ければ、その時代の人々の心情が自然に伝わってくる。しかし振り返れば、「民衆詩派」として出発した福田正夫の詩業もここに至ったのかと考えてみるとひとしお感慨深いものがある。同時に作曲が福田と同じく世田谷に縁のあった古関裕而であることも興味深い。古関も福島から上京し、人々の暮らしの中から曲をくみ上げ、戦前には軍歌に大きな足跡を残した作曲家だった。結局、福田も古関もその時々、時代の要請に誠実に向き合い、時代の波に翻弄されながらも、ひたすら庶民として生きてきた、と言えるのだろう。
・世田谷への転居から終焉まで
大正12年(1923)関東大地震を契機に東京市外世田谷下北沢809番地に居を定める。
昭和4年(1929)先行誌『主観』を改題して同人誌『焔』を発行。
昭和12年(1937)世田谷区大原町1154番地に転居。日本詩人会成立、幹事に選ばれる。「愛国の花」作詞、作曲は古関祐而、翌年、渡辺はま子の歌によってコロンビアよりレコードが発売され大好評を得た。
昭和17年(1941)日本文学報国会創立、参加、大政翼賛会にも入会する。
昭和19年(1944)長男誠夫、学童集団疎開を引率して長野県松本に行く
昭和20年(1945)山の手空襲で罹災、家を焼失し壕舎で暮らし始める。9月、世田谷区北沢3丁目925番地の空き家に入居。
昭和27年(1952)6月26日脳出血により死去、享年59歳。小田原市早川久翁寺に埋葬。「福田家の墓」と自ら記した墓碑の下に眠る。
・福田正夫に関して、「民衆詩派」としての活動とは別に、彼が多くの詩人たちに慕われ、若い詩人たちを育てたことも忘れ難い。彼はどんなに苦しいときでも滋味ゆたかな童顔をほころばせながら、決して「参った」を言わない人だった、という。太っ腹の、ものに動じない様子を装いながら、しかもやさしい心遣いを失わない人だった、という。井上靖は詩を志していた若いころ「私は文学に心惹かれた最初の頃、詩人福田正夫氏に面識を得、その家に出入りすることができたことは、自分にとって幸運であった」と述べている。福田を中心にして月に一回『焔』の同人の会が福田家で開かれた。何人もの若い詩人たちが集い、福田がいつも寿司を握ってふるまった。福田は全く無防備、無警戒で、誰に対してもざっくばらんで、人を疑うことを知らない「徹底した善意の詩人」だった。井上は、自分は「今でも詩を書いているが、これは全く『焔』の同人になったためである」と感謝を込めて回想している(「詩人福田正夫」)。
3,鎮魂の夏を歩く(下馬周辺)
近衛野砲兵連隊跡 野砲兵第一連隊跡 野戦重砲兵連隊跡
第197回 7月20日(土)雨天の場合27日
世田谷区教育委員会後援・区立下馬図書館協力 北沢川文化遺産保存の会主催
案内者 きむらけん 田園都市線三軒茶屋駅改札前 13:30
概要:三軒茶屋は軍都であった。昭和女子大構内(近衛野砲兵連隊跡)→現存兵舎(韓国会館:野砲兵第一連隊跡)・馬魂碑(同連隊)→こどもの広場公園(野戦重砲兵連隊跡)「下馬兵舎時代の思い出の地図」参照→三野砲兵見学の後下馬図書館パネル展見学
見学後自由解散
*パネル展開催
開催中:世田谷区立下馬図書館 学童疎開・特攻から80年 世田谷から平和を考える
参加費 500円 募集人員 20名程度
参加連絡先 会の連絡幹事 きむらけん
電話03-3718-6498 メールk-tetudo@m09.itscom.net
○7月1日 せたがや広報に掲載
4、講演会 「鉛筆部隊と特攻隊」 主催 世田谷区立下馬図書館
8月12日(月・祝)午後2時から4時 会場 太子堂区民センター
定員:60名(先着順・予約制) 申し込み:下馬図書館の窓口か電話
03-3418-6531 受付開始は7月1日から
講師 きむらけん(作家・北沢川文化遺産保存の会主幹)
北沢文化遺産保存の会主幹として地域の歴史を掘り起こす中で、疎開学童と特攻隊員の交流の逸話に出会い、20年近くにわたり調査を続けその全体像を明らかにした。
*この8月12日は、意味のある日である、この日に代沢国民学校の疎開学童は夜の九時からの壮行会に出席し、十時に学校を出て下北沢駅に向かった、隊列を先導する町会町や先生は提灯を手に持ち学童を案内した。沿道には町民が多く集まり、長野県松本市外浅間温泉に向かう学童を見送った。
見送りは学校までとされていたが、親はもう二度と会えないかもしれないと駅までついていった。駅から新宿行きの電車が出発するとき。「太郎!」、「幸子!」など火の出るような熱い思いで口々に子の名前を叫んだ。
5、パネル展の開催

「世田谷から平和を考える」として「学童疎開・特攻から80年」として「パネル展」を実施する。世田谷の疎開学童は浅間温泉で偶然に、特攻隊員と出会う。」主催は、下馬図書館:協力世田谷平和資料館 期間は、7月12日(金)〜9月11日(火)
1944年夏に学童疎開は始まった。今年は疎開から80年経過した。当時4年生は90歳を迎えれる。疎開経験者の高齢化で伝承が困難になってきている。このところ代沢小で「鉛筆部隊と特攻隊」の伝承を三年ほど続けている。伝承していくべき話だ。今回の内容は、「鉛筆部隊と特攻隊」を軸として、疎開学童と特攻隊との関わりをパネル数十枚にまとめ掲示を行っている。・代沢小学校鉛筆部隊と武剋隊・駒繋国民学校の児童と武剋隊・東大原国民学校の児童と武揚隊長谷川信少尉・武揚隊愛唱歌との出会い・山崎国民学校の児童と小林三次郎隊員などがまとめられている。これまで数冊の本にまとめてきたことのエッセンスがパネルに群にまとめられている。(場所 下馬図書館)、ぜひごらんあれ。
■ 編集後記
▲毎月の町歩きだが、8月はない。構想としては9月「世田谷代田を歩く(奥谷民雄)10月「代田・梅丘の映画撮影ロケ地を歩く」(岩野亮介)11月「いかだ道を歩く」(木村康伸)12月「生田春秋園を歩く」(原俊彦)別宮通孝さんの墓参をかねて。終わった後に一献を傾ける予定(忘年会も兼ねる)1月 森茉莉を歩く(幾田充代)を考えている。
▲エッセイを募集しています。ちょっとした情報、町の思い出など、ぜひ書いてください。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会費は銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号022。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。古切手をご寄付ください。会報発送用に使います。
▲町歩き情報に特化したメール回覧板を作り、2023年11月1日から発行している。配信希望はきむらへ。k-tetudo@m09.itscom.net 担当者のきむらがパソコンを買い換えたため、住所情報が見失われてしまって配信が止まってしまった。メルアドは回復できたのでまた八月から再開したい。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ。



















