2024年08月16日
下北沢X物語(5003)―講演会「鉛筆部隊と特攻隊」 3―

(一)世田谷下馬図書館の独自企画は地元よりも長野松本で反響がある。「世田谷から平和を考える 学童疎開・特攻から80年」のパネル展開催にあたってパンフが作成された。これを私は松本の関係機関に送った。特攻隊武剋隊が泊まった宿「目之湯旅館」の主人は感動して下馬図書館に数部送ってほしいと懇願したと。長野の新聞社も三社から取材があった。一社の記者は記録の意義をメールで問うてきた。「記録ほど大事なものはない、それは自分たちが生きていく手がかりになるものだ。私たちは一掻き一蹴りしながら一刻一刻の歴史を泳いでいる。記録というものは生きてきた証で、それを通して過去にさかのぼっていくと今が分析できる」と回答したことだ。
太平洋戦争末期、沖縄侵攻が始まった。これを迎え撃つために特攻機の改装を松本で行った。多くの特攻機が飛来しているがその詳細はわからない。陸軍松本飛行場の公的記録は米軍の追及を恐れて終戦と同時に焼却処分された。
特攻隊員たちは宿泊した浅間温泉で疎開学童に遭遇している。このときのことは学童が日記や手紙の中に事実を記録として残していた。
「学童が書き残したたった一行は特攻隊の動向を知る大きな手がかりとなりました」
私は講演の中で述べた。そしてその一例を紹介した。
東大原国民学校の大田幸子さんは浅間温泉富貴の湯に疎開していた。その彼女の日記の一節だ。
三月二十八日(水)
午後吉原さんが富貴の湯の上を飛んだ。ちゅうかえりもした。
書き残されたたった28文字だが、浅間温泉に飛来した特攻隊の動向を裏付ける貴重な記録となった。
記録として大事なのは日付である。これが当該飛行隊の動向を知る手がかりとなった。
隊は武揚隊だ、いつ松本を発ったのか不明であったがこの記録が参考になった。
この吉原さんには深い興味を持っている。『鉛筆部隊と特攻隊』にひょろりと出てくる人物である。物語にすっと出て来ては消える、まことに愛おしい人物である。
(二)

吉原さんは誰か、誠第31飛行隊・武揚隊の構成員、吉原薫軍曹だ。
「この隊は武揚隊です。隊長は山本薫中尉、その下に少尉、軍曹、伍長と続きます。操縦のうまい下手でいいますと軍曹が一番うまかったと思います」
吉原薫軍曹は、古河航空機乗員養成所、いわゆる航養出身である。パイロットを育てるために作られた学校で航空技術をたたき込まれた。特攻隊員での軍曹は多くはここの出身者である。
軍曹の下は伍長、少年飛行学校を出たばかりで操縦は不慣れである。操縦の上手い吉原軍曹だけに宙返りはできた。
「浅間温泉では航空隊員と旅館の女中さんが懇意になることはよくあった。そうすると『戦闘機で飛んで来てよ』というようにおねだりをする。そういう例が浅間温泉ではよくあった。想像できることは学童たちが、『吉原さん、腕前をみせてよ』と頼んだのではないか。たぶん他の隊員からも『吉原は操縦は上手いよ』と聞いていたのだろう。」
吉原薫軍曹は、浅間温泉に来てもう四十日近くになっていた。出撃も迫っていた。3月28日はちょうど頃合いの頃でなかったか。子どもらともお別れだ、「よし一丁飛んでやるか」と思って、単機でやってきた。そして彼は宙返りを敢行した。
富貴の湯に飛来してきたばかりではなく、彼は操縦の腕前を見せるために宙返り飛行を敢行した。記録をした大田さん、さすが才女だ、「ちゅうかえりもした」と、その他の腕前披露を暗示させる「も」を使った。
想像できることは低空近接飛行だ。三階建ての旅館すれすれに飛んで皆を驚かせもした。
(三)
講演会には特攻隊の研究家でもあり、記者でもある加藤拓氏が名古屋から来ていた。Facesbookのコメントには「お忍び」で講演会に来たと書いていて、つい笑ってしまった。彼は記者の傍ら特攻隊の調査研究を行っている。
彼は「陸軍航空特別攻撃隊 各部隊総覧」第1巻 突入部隊、第二巻 待機部隊の二冊を著している。特攻隊の動向を探るには必携の資料である。
「各部隊総覧」第1巻には吉原薫軍曹の消息も記録されている。ただ彼は特攻戦死はしなかった。それで総覧の摘要覧には「済州島不時着 6/13 第五練習飛行隊」とあるのみだ。この飛行隊は中国遼寧省綏中にあったようだ。ここに送られて特攻要員として待機していた。戦後引き上げて生還したようだ。
○吉原薫軍曹誠第31飛行隊所属の行方を調査している。出身は茨城県だったようである。ご存じの方ぜひ教えてください。



















