2025年03月04日

下北沢X物語(5130)ー文化サロンもたちまち3回目 2ー

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(一)小田急線沿線文化は興味深い、かつての沿線風景はとても興味深い。「東北沢を過ぎて下北沢にかかる勾配があったでしょう、発車してすぐ左に目にも鮮やかな白いアトリエがあったのですよ。菊池一夫邸ですよ。あれなんか小田急の速度と関連するのだと思うのですこれは昭和六年に建立されている。東北沢には急行通過線があった、各駅停車をすり抜けたとたんに車窓には真っ白な建物が飛び込んでくる。施工者はそれを計算して建てた。武蔵野を貫く新設鉄道は沿線景観にも影響を与えた。「あそこはいまは分割されて建て売りが建っているように思います」と地元東北沢に住む及川さんの話だ。一帯に建てられた斬新な建物も高規格の鉄道の間接的な影響を受けている。

 この間から小田急沿線文化のことを話題にしている。この月末は、我等会報の発行日だ。このところ数月は都市文化論を識者に書いていただいている。今回は、赤坂暢穂さんによる、「戦後の下北沢の変化」である。論考では赤坂さんは、最後をこうまとめられた。

戸建住宅や学生、単身者下宿、アパートから細分化された戸建、集合住宅の増加:1970年代前半まで、駅から約500mの範囲は、戸建住宅と学生や単身者向け下宿、アパート地帯でした。現在、学生、若者世帯の多くは高賃料で住めず、若い家族持ちは、子供が小学校低学年になると郊外に転居、小学校が5校から2校へと統廃合が進みました。

 このことは非常に大きな変化である。1970年以前は駅一帯には「戸建住宅と学生や単身者向け下宿、アパート地帯」だった、かてて加えて会社の独身寮なども多くあった。戸建ての場合も、いわゆる下駄履き店舗で一階を商店にし二階をアパートして貸していた。往事は、井上靖が言うところの「下宿と定食は下北沢」と、定番化されたフレーズさえあった。家賃も低廉で、定食も若者を満足させられる分量があった。

 こういう低廉なアパートや下宿に詩人、文人志望の若者が住んでいた。当地で貧しい暮らしをしながら詩人を夢見ていた。そういう歴史は今は忘れ去られようとしている。

(二)
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 宮崎孝政は無名の詩人である。こういう詩人には深い興味を持つ。
彼には「鯉」という詩集がある。鯉社から昭和4年に発行されている。無名ゆえに情報は多くはない、検索すると本文の断片のワンフレーズが拾えた。「の生えてゐた下北澤の詩神社のがらんとした中に、彼は一人ころがつてゐた。」である。何のことかよくは分からない。けれども下北沢に詩神社という出版社があった。

 詩神社というのは詩集を扱う出版社だ。ここの住所は「世田ヶ谷下北澤八〇九詩神社」と出てくる。なんとなく見覚えのある住所だ。勘が働いたので調べてみる。

 やはりそうだ、民衆派詩人の福田正夫の住まいと一緒の場所だ。宮崎孝政はここに寄食していた者なのだろう。彼は石川県鹿島郡生まれ、詩人を志して上京。『詩神』の編集を担当。昭和10年、東京暮らしに見切りをつけ帰郷。近所の子供たちを集めて文学の手ほどきをした。彼は生涯の詩を「宮崎孝政全詩集」として出し、77歳で没している。

 一詩人の生涯である。述べたいのはこういう手合いが当地の片隅に住んでいたのである。
彼が下北沢に住んでいたのは昭和初期である。なぜに下北沢か、これは多分福田正夫を慕ってきたのだろう。下北沢文士村の発足は福田正夫によるところが大きい。

(三)
 堀田善衛も時代は違うが下北沢に住んでいた。彼も石川県である。
 当時地方の青年は文学に身を焦がした。東京は憧れである。私は、これまでの文学遍歴を通して知っている。汽車がとても大きな役割を果たしてきたか、彼らは東京行きの終列車のテールランプに身を焦がしていたのだ。詩に燃えるというときの心情はよくわかる。

 先頃亡くなられた谷川俊太郎は、詩人になろうとするなと言っていた。理由は簡単だ、詩では食っていけないからだ。しかし、昭和初期の田舎の青年には打算はない。東京に行って詩人になりたい、どれほど熱い願望があったろうか。東京行きの尾灯が心を熱くした。



rail777 at 18:20│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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