2025年03月15日
下北沢X物語(5138)―下北沢の堀田善衛―

(一)感性なるものは歳とともに鈍くなる、「若き日の詩人たちの肖像」の中で若者が重要人物の来日に備えて予防拘禁される。満洲国皇帝溥儀の来日だ、が、歴史的事実と主人公個人の略歴とが符合しない。この場合、来日が複数回あったのでは考えてもよいが、考えが及ばなかった。何のことはない二度目の来日はあった。これだとすべてが符合する。いつもお世話になっている猪熊雄治氏がメールで知らせてこられた。溥儀は、一九四〇(昭和十五)六月に再来日している。このときに堀田善衛は下北沢のガード近くのアパートに住んでいた。慶応に通っていた彼は、この年に法学部政治学科から文学部仏文科に移っている。文学への傾斜を強めていたときに下北沢に移ってきた。ここは興味深い。
高岡市の野村剛氏から、堀田の著作に「私の引っ越し東京地図」があることを教わった。これを読むと彼は、「一九三六年から四二年までの学生であったときの七年間に、十六回ほどの転居を、東京でした」という。引っ越し魔であった。
彼堀田は、自身が居住していた全部の箇所を一つ一つ見て回ることを思い立った。
何週間かかってまとめて回ってみて「まったく私は驚愕した」という。
東京という都市の驚くべき変貌、「私の引っ越し地図東京」の冒頭に書かれている。
東京は、少なくみても五百年の歴史を持った都市である。この都市がかくまでの猛烈な変化変貌をとげるについては、大地震、戦災といったことがほんの四十年ほどのあいだにおこり。つまり、わずか一世代の間に、ほとんど何もかもが都心であると郊外であると問わず、まるで変わってしまったのである。
堀田善衛全集 14 所収「私の引っ越し東京地図」一九九四年 筑摩書房
この恐ろしく思われる変貌は今も続いている、顕著なのは高層ビルだ、気づくと路地の向こうににょっきりと建っている、東京は今も肥え太る。
(二)
どこがどこやら、道路のみならず地形までが変わってしまい、まるで見当もつかず、仰ぎ見る天だけが同じというのが半分以上、なかには、代々木山谷町などは、山谷町という町名すらなくなってしまい。交番のお巡りさんでさえ、考え込む始末である。 下北沢の某所は代沢という名になったらしくて、これはどうやら北沢と代田とを合わせて代沢となったのであろうが、
「私の引っ越し東京地図」(前出)
この山谷駅には一度はまったことがある。萩原朔太郎がこの駅をよく訪れていた。幼な馴染みの知り合いがいてよく訪れていて、その娘が山谷駅前の煙草屋に「敷島」を買いに行かされていたと。それが慶光院芙沙子である。朔太郎を深く思慕して彼女は「無用の人」を書いて居る。一帯を巡り歩いているときに酒屋の紀伊國屋に行き着いて、主人から古い写真を手に入れた。山谷の踏切を撮ったものだ。
堀田善衛が下北沢に住んでいたとき、住所名は北沢だ、彼が訪ねてきたときに地名が代沢に変わっていた。彼は下北沢では三カ所に住んだ、推測であるがその住所は今は代沢二丁目と呼ばれている地域だと思われる。
下北沢に来る前は、代々木に住んでいたという。ここから下北沢に転居した。
満洲国皇帝の第二回目の来日は、一九四〇(昭和十五)年六月だ。この年に彼は法学部政治学科から文学部仏文に転部している。
(三)
同年六月には下北沢の二階建てアパートに住んでいた。既にM大学のレスラージョーとはだいぶ親しくなっていた。政治学科から仏文に転部した学期変わりに代々木から移ってきたのではないだろうか。
二階建てのアパートの次が、「帝国石油北沢寮」だったという。古地図で調べているが分からない。ここが分かるようであれば教えてほしい。
(写真は、高層ビルは、多摩川から見た武蔵小杉、踏切は山谷の小田急踏切)



















