2025年03月22日
下北沢X物語（5143）―下北沢の堀田善衛 6―
（一）堀田善衛は東京の変貌について「かくまでの猛烈な変化変貌を遂げるについては、大地震、戦災といったことが、ほんの四十年ほどの間」（『私の引っ越し東京地図』）に起こったことが因だと言う。下北沢も同じだ、駅前はまるで変わり、別の町になった。今日たまたまかつての佐山一雄宅を通り掛かったら、THE CULTURAL COFFEEHOUSEという瀟洒なカフェになっていた。昔、ここに通い詰め、町の歴史を一つ一つ聞き取った。外を見るなとのお達しがあったが、息子の佐山春男さん、指につば付けて障子に穴を空けて覗くと鉄かぶとを被った米軍兵士が見えた。彼は銃口をこちらに向けていた、凍り付くほど恐ろしかったという。
「その向かいの静仙閣にはいろんな人がこっそりと住んでいてね、ことに厚化粧の女の人が多かった。香水のにおいがきつくてね……」
これは語り部の佐山一雄さんが言っていた。
こっそりと隠れ潜むということで印象深い逸話がある。かつて北沢四丁目に住んでいた女性だ。東大原小に通っていた。今はもう九十歳を超えている。
近隣を歩いているときに彼女は母親に聞いた。
「同じような表札があるでしょう。あれは何？」
「そういうことを聞くものではありません」
その表札の漢字は子どもには読めない。
そこには「寓居」と書いてあった。意味は仮住まいだ。
母にたしなめられたことは何か訳ありの家であることだ。いわゆる妾宅であったのだろう。
（二）
若者は下北沢の二階建てのアパートに住んでいた。期日は昭和十五年六月頃である。
アパートの隣室に、朝鮮の大金持ちの坊ちゃんで、M大学のレスリングの選手をしている力持ちがいた。この朝鮮人の力持ちは、力と金があるだけではなくて 銀座や新宿の喫茶店ではちょっとしたギャング同様に顔がきき、女たちにも大変にもてた。
『若き詩人たちの肖像』 上 集英社文庫 二〇一九年
作家の略号の付け方はリアルである。若者はＫ大学だ、これは慶応大学だ。この場合もＭ大学は、頭文字そのまま明治大学である。
レスラーは、おおらかである。大金持ちではぶりがいい、それで彼には女が寄ってくる。部屋にもやってきたそうだ。その彼の口癖が。
「コノオンナカシタルカ」
この言葉に甘えて若者も二三度は貸してもらったという。
この大金持ちの坊ちゃん、愛称はジョーである。
小説の作中人物に心惹かれた作家がいる。
作品をたくさん読み込みこんだわけではないのだが、自伝小説とされる。『若き日の詩人たちの肖像』に、ジョーと呼ばれる朝鮮人学生が出てきて、この人の面白さに参ってしまったのが最初だった。
『本の栞にぶら下がる』 「堀田善衛と『ジョー』の肖像 斎藤真理子 岩波書店 二〇二三年刊
作者は、朝鮮語の翻訳者だ、朝鮮に関心が深いことから「ジョー」が実在の人かどうかを調べ始めたという。
こういう本があるということを知ることは容易ではない。が、堀田善衛研究者の野村剛さんが教えてくれたのである。
（三）
どうして金持ちの朝鮮の青年が下北沢のアパートに住んでいたのか？段々にその正体が分かって来るが、このお坊ちゃんは「お忍び」だったようである。
そういえば先の静仙閣には、満洲国皇帝の弟溥傑も住んでいた。
こっそりと忍のんで生きる町、ということでは通じてくる、文士町文学論の尻尾を掴む材料としてはもってこいの話だ。
（写真は佐山一雄宅跡）
