2025年07月02日
下北沢X物語（5208）―倉運荘の森茉莉の想い出―
（一）「アパートの階下に住んでいるおばあさんのことは知ってはいました。しかし、彼女が誰であるかは気にもしていませんでした。ところがあるときボヤ騒ぎがあってその時初めて知って心底驚きましたね」と広瀬正二（写真）さん。「森茉莉は『贅沢貧乏』に『淡島にあるアパルトマンでは無論知っている』と書いているのでほとんどの人が知っていたようですね。前は下北沢の風月堂に行っていて、ここで彼女の兄の於菟の手紙を落っことしたことで素性がバレたようですね。彼女は毎日淡島から風月堂に通っていた。たちまちに人々に知れ渡って、通行人が立ち止まったり、指を差したりして『あれが、文豪森鴎外の娘なのよ』とうさわをするようになった。
「私が住んでいるときにボヤ騒ぎがあったのです。壁は隙間だらけだから煙が下の階から上まで昇ってきたんですよ。『火事だ』みたいな声がしたものだから、私も下におりたんですよ。何人かの人も駆けつけていました。しかし分かってみると何のこともない。おばあさんが濡れたタオルを乾かそうとストーブの側においていた、そのまま居眠りをしてしまって気づくと火が移って燃え出していた。焼けて煙が出ただけで大事には至らなかったのです。消防車が来るというようなこともなく騒ぎが収まりました。
部屋の中まで入りませんでしたけど、のぞきこみました。訪ねた人が書いているようにごちゃごちゃしていた感じはありますね。
「私はそのボヤ騒ぎのときに来ていた人に教わったのですよ。『彼女はあの森鴎外の娘だよ！』って、驚きましたよ。私の真下に彼女寝起きしていましたからね。それ以来、階下のもの音に敏感になりましたよ。ときどきテレビの声が漏れてくるんですよ。そういえば彼女テレビ好きでしたね……」
（二）
広瀬正二さん、部屋の様子を描いた下重暁子の「出会ったひとびと 28 森茉莉」というエッセイのコピーを持って来ておられた。
「ネ、ネ、あの庭の垣根の下に、まばらな所あるでしょ。あそこは猫が出入りするところなのよ。しばらく待ってみましょうネ」
廊下は土で、中庭に井戸がある。二十三年住んだ倉運荘というアールデコ調の木造アパートは北窓だけの八畳。セミダブルのベッドと箪笥と小机。好きな小物が積み上げられている。「贅沢貧乏」そのままに、何がほんとうに美しいのかを、贅沢なのかを教えて
いただいた。
「暮らすめいと」 2014年(平成26年)7月号(第69号)
「これは八畳と書いてありますが、違うでしょう」
「ええ、私のところと同じ六畳です。ここに書いてあるように中庭には井戸がありました。夏なんかここで行水していましたよ」
苦学生は風呂代も節約していたようだ。
「銭湯は『代沢湯』ですよね」
「そうそう」
「森茉莉さんは『代沢湯』、想い出があって、建物が潰される前にデベロッパーが見学を許してくれたのですよ。男湯は見向きもせずに、女湯に直行、湯船や脱衣所をしっかり撮りました。帰り際に何でも持って行っていいというので、ほくほく顔でケロヨン桶、籐かご、下足札など取りたい放題。帰ろうとしたところ。」
「あれはいいのか、磨りガラスに女湯のマークがあるのを彼は指差すのですよ。森茉莉の宝箱に遭遇したみたいで手にもちきれないほどもらってきました。
（三）
下北沢文士町の居住人で今もその面影が追慕されるのは二人だけだ。一人は萩原朔太郎である。三好達治は「飄々として影のやうに裏町をゆかれる」（「師よ 萩原朔太郎」）と描いている。下北沢や代田の路地をゆくとその詩人の姿が想起される。
もう一人は森茉莉だ。お気に入りの買い物籠を下げてゆるゆると淡島から下北沢へ歩いて帰ってくる。自らが自分の歩行を「サナトリウム患者が松林をお散歩」と称する。夕暮れどきになと森厳寺から北沢八幡へ抜ける小道にその姿を見かけるときがある。
