2025年07月05日
下北沢X物語（5210）―ドブと鉄粉とが匂う町下北沢―
(一)文化サロンを始めてもう半年が経つ。何を語ってきたか、それは文化である。文化とは土地固有の匂いである。「懸命に一帯を自転車で走り廻りましたよ」と私。発見したのは匂いである。メンマ工場、煎餅工場、菓子工場、これらは人の記憶によく残っている。強烈に匂うからだ。知られていないことだが菓子工場があって一帯には甘い匂いがたちこめていた。これの記憶が森茉莉の作品に生かされている。彼女は淡島と下北沢の間をよく歩いていた。北沢八幡神社の近くでは甘い匂い漂ってきた。バームクーヘンの工場である。『恋人たちの森』ではこれを取り込んでいる。その菓子工場はローゼンシュタインと描いている。これは巧みだと思う。文化の根幹は匂いだ、当地における代表的なにおいはドブと鉄粉である。
サロンでは、そのにおいは何かと聞かれた。
「ドブは、名前のとおりドブです、下北沢は沢の町、細流が入り組んでいます。ここにドブが流れていました。今は暗渠化してしまいました。しかし、自転車で路地を通るとカタンカタンと音がしますね、マンホールのふたです。ここでは今もドブが臭うことがありますね」
ドブは沢地形の名残だ、一帯の地形は凹凸から成り立っている。沢があって丘がある。沢地帯はときに水が溢れることがあった。土地としては低廉である。が、丘となると地価が高い。日当たりがよく眺めもよい。だいたいが邸宅になっている。典型的な例は北沢三四丁目の野屋敷である。
（二）
倉運荘は北沢川沿いだ。土地が低い。彼女はこう記している。
魔利のアパルトマンのある辺りは湿地帯で、雨が続くと畳に黴が生える。それで蜥蜴、守宮、なぞ、訪れる昆虫類は多士済々である。虫の嫌いな魔利は、その度に水を浴びたようになって立ち竦み
『贅沢貧乏』 講談社文芸文庫 1992年刊
付近一帯の地形を代沢サラダボールと私は言っていた。
東西を北沢川が流れている。サラダボールの底が低湿地帯だ。北側の崖線沿いは高級住宅地である。地番では代沢二丁目だ、ここにかつては佐藤首相邸があった。南のり面のここは日当たりがよい。
土地のステータスは、やはり高台から見下ろした風景で言い表される。
昭和二年の末にここの一角を売り出す新聞広告が載った。この区画は「清風園」と呼ばれた。
此の地は赤松の多い高台で東南向きの雛壇になつて居りますから全地悉く日光通風に理想的です。しかも視野はひろびろと豁け此のあたり一帯の所謂「近代郊外風景」が居ながら恣にされます。
渋谷急行線はすぐに停車場を設置されます。水道、瓦斯、電熱の整ふた珍しい安い処分物です。
渋谷急行線は、今の井の頭線である。新設鉄道線の開通があることをここでは述べている。やはりこの鉄道開通は大きい。
（三）
「土地固有の匂いと言ったでしょう。一つがドブ、もう一つは、鉄道のにおいなんですよ。どんなにおいか想像できますか？」
（懐かしい写真がアルバムから出てくる。「北沢川文学の小道物語」を作った東盛太郎さん、元気な彼も亡くなった。東北沢4号踏切も懐かしい）
