2025年09月16日
下北沢X物語（5256）―究極的都市文化論―
（一）「下北沢文士町物語」は出版企画として成り立つ。文学者の著しい参集は特異な現象であるからだ。これを証明するのが「下北沢文士町文化地図」だ。版を重ねて９版に至っている。「よくこれだけ文士を網羅しましたね」と言われる。しかし、現象の全貌は分かっていない。これら文士は、詩人、歌人、俳人が中心だ。ここがミソである。つまりは詩歌人は漂泊者である、かつては当地には低廉な寄留場所が多くあった。アパートや下宿、ここに彼らはそっとやって来てはまたひっそりと立ち去った。定住した名のある者は特定できる。全集や作品集の年譜から分かるからだ。しかし、一時居留者はほとんど分からない。課題はなぜに漂泊者がかくも数多く集ってきたかだ。ここに文士町の特異性がある。
漂泊者の実態を掴むのは困難だ。が、偶然に見つかることはよくある。歌人光岡照子の場合はそうだ。彼女は北海道では有名である。室蘭本線、白老駅前には彼女の歌碑がある。
白老は わが故郷よ
驛を出て 先づ眼にしたる タモの大木
彼女は下北沢在住の詩人福田正夫と懇意であった。
石井さんという老医はあの頃七十歳に近かった。我が家から二三分の立派な家で開業する、軍医あがりの、小がらな、実にやさしいお医者さんだった。短歌をやっていた。
父が主宰した「北沢どんぐり句会」に、満岡照子さんという北海道出身の歌人がいた。この人を中心に「月代（つきしろ）」という小さな歌会ができた。主に、句会と同じ顔ぶれの人たちでやりはじめ、母も加わった。石井さんは句会には入っていなかったが「月代」に入ったのは、もともと短歌を長くやっていたかららしい。父とは、こんな関係で知り合った人であった。
「父福田正夫 雷雨の日まで」福田美鈴著 教育出版センター 1983年
この文章は福田正夫の娘さんが書いたものである。詩人はもともとは大原に住んでいたが空襲で家を失い。下北沢に越してきた。詩人が開いていた「北沢どんぐり句会」に歌人の光岡照子がいた。彼女は「芸林」同人だ、この歌誌は下北沢在住の尾山篤二��創刊になるものだ。
（二）
小泉苳三は歌人であり、国文学者である。この彼もふらりと下北沢に来ている。
『くさふぢ : 歌集』という歌集がある。（立命館出版部 昭和８年刊）彼の歌集のダイジェスト版だ。この中の『越路集』（自昭和三年至昭和五年）の末尾に
下北澤假寓
胡瓜とまとのび茂りたる庭土に
ゆふべは水をうちつつ思ふ
塀の上に茂れる瓢箪の花咲けり
ほの白くして月影に冴ゆ
月よみは高くのぼりて庭先の
とまとの葉のつゆを照らせり
長閑な叙景を詠んだものだ、伝統的和歌観なるものが感じられる。都市郊外の屋敷畑が想起される。昭和初期である、辺りは武蔵野然としていた。まだ町は開けていない。
彼は「現実的新抒情主義短歌」を提唱していた。目前に見た光景を三十一文字に写し取っていくという手法なのか。
この下北澤假寓は、どこかはわからない。が、当地をいっとき仮住まいをしていたことは確かだろう。
（三）
詩人吉田一穂は前から気になっていた。やはり当地をさすらっていたときがあった。ただ調べたことはなかった。思いついて図書館に行った。「よ」であるから、全集の最後あたりにあると思って探したがない。が、何となくこれではないかと思って目の前にある全集の年譜を手に取った。探すと下北沢の地名が出ていた。が、違和感がある。全集の冊数が多すぎる。よく見ると『吉田精一著作集』であった。
「底本吉田一穂全集がみつからないのですが」
通りかかった係員に聞いた。
「ここは違いますね」と。
そう言われて気づいた。散文全集と韻文全集は収納場所が違うのだと。
