2025年09月28日
下北沢X物語(5264)―ああ、追分三軒茶屋―

(一)まっ先に近代に遭遇した世田谷の町は三軒茶屋である。東京都市郊外の結節点である。重要道が通っていた登戸道、大山・厚木街道だ。ここでの近代三大エポックだ。まず西から行進してくる軍靴が響いた、江戸に攻め入る官軍、尾張藩が当地に布陣した、慶應4年3月のことだ。つぎに明治40年3月6日、追分に馬車の引かない箱が入ってきた。男どもは皆箱の下を覗いた、馬の脚は見えず丸い車輪を認めて驚いた。いずれも石橋楼の目の前で起こった、最後は崩壊の音だ、大黒柱に結えた太綱を馬が弾くと、楼は一気に崩れた。この楼の記録をしたものがある。「石橋楼覚え書き」(三軒茶屋石橋楼四世 石橋隆俊)」だ。この冒頭に「石橋楼の歴史は崩壊の歴史である」と記される。これらの変化の背景を、「王政復古、富国強兵、挙国一致」捉える。石橋楼は追分の尖りの先端部にあった。時代の変化をまっ先に受ける地点にあった。
茶屋の一つは信楽である、明治になって名を変えて料亭旅館石橋楼となった。明治天皇が駒沢に兔狩りにきたときに休まれたと。また高級軍人たちも宿泊した。
石橋楼では宴会場があったのだろう。ここで近隣住民が集まった。それは大正六年九月十七日のことだ。東京電燈株式会社が計画した架空式高圧電流線の敷設の反対集会である。計画の核になる地域の中心だったからであろう。
三軒茶屋は明治末年に玉川電気鉄道が開通し、これをしおに東京方面から人々が転居してきて最も発展しつつある場所だった。この町のど真ん中を高圧鉄塔線が縦断するというのだ。それで地元太子堂住民が中心となって反対運動が起こった。
(二)

『関東の電気事業と東京電力-電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』という本がある。その一節だ。
1911(明治44)年10月に着工された桂川電力の鹿留発電所は,13年5月に竣工した。発電設備については,表2―34のように,水圧鉄管および水車がドイツ製,発電機・変圧器はアメリカのGE社製で,認可出力は当面1万2000kWとされた。また,荏原郡の六郷変電所と豊多摩郡の戸塚変電所に置かれた変圧器もGE社製であった。
これだけではよく分からない。まず「1911(明治44)年10月に着工された桂川電力の鹿留発電所は,13年5月に竣工した。と同時に、六郷変電所も稼働しはじめている。桂川電力が鹿留発電所を完成させた。電気を起こしたら送電しなくてはならない。古い地図をみると簡易送電線、二本の電柱を建て、その間に送電線を渡したものがあることが分かる。
六郷変電所というのは京浜急行に送る電気の供給所だ。
かつて世田谷を南北に縦断する高圧線を、桂川電力線と言っていた。これを買収して吸収したのが東京電灯である。この会社が高圧線を敷設しよう企てた。これに対して荏原住民は立ち上がった。この線の敷設に対する反対するために楼に集まった。
(三)
近代形の鉄骨鉄塔を建てたいと東京電灯は計画した。これが太子堂のど真ん中縦断して敷設される。大正六年の段階では、三軒茶屋には玉川電気鉄道も通り、繁華な町が形成されていた。そのど真ん中に背の高い鉄骨鉄塔を敷設すると言うのである。
「町のど真ん中に鉄塔を通すことはないだろう」と太子堂住民。
「新式の鉄塔だと農地がつぶされる。農民にとっては痛手だ」と荏原農民。
「高圧電流が流れると人体や牛馬によろしくないという」
敷設に対してこぞって反対をしたのである。ところが監督官庁は、住民の同意なしに東京電灯の計画を認めてしまった。反対運動に火がつくはずだ。



















