2025年11月02日
下北沢X物語(5287)―文学描写から地域史を発掘する―

(一)世田谷代田及び下北沢が文学作品にどう描写されているのかを調べてきた。これは作家本人の感性に関わる、全く触れない場合と微細に描く人とがいる。後者は片岡義男である。「世田谷代田一丁目、そして二丁目に僕は25年間にわたって住んだ」(『あの道がそう言った』)と、この具体的な居住地明示は土地との深い関わりを暗示している。作品には両地区の変貌を写実的に描いている。この地域描写は新たな観点を示唆した。つまり文士町住人の地域描写を抜き出す、これを並べると町の文化史となる。坂口安吾は1925年の北沢の様子を「近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑」(『風と光と二十の私』)と描写する、町の原風景だ。今安吾在住からもう百年が経つ。当地域は外国人と若者とでごった返す町になっている。
片岡義男のことは前から気づいていた。作品で世田谷代田や下北沢のことをよく触れていたからである。時折青空文庫の一節が引っかかってきもした。
つぎは、『東京青年』の末尾文である。
下北沢ではなく、世田谷代田の駅に向かって、彼は歩いた。改札を入るとき、上りの各駅停車がプラットフォームに入って来た。彼は階段を駆け上がった。線路をまたいでいる簡単な建物を向こうへ越えていき、階段を駆け降りた。車掌の吹く笛の音とともに、彼は最後部の車両のいちばんうしろのドアを入った。ドアが閉じ、電車は発車した。
『東京青年』 早川書房 1996年刊
作品は小説である、仮構であるが解説文には「舞台は1950年代の東京、少年はこうして大人になった」とある。年代設定は具体的だ、そして居住場所も世田谷代田、このことからすると自伝でもある。彼は25年間も住んだ、多感な時代に世田谷代田や下北沢という環境が彼に影響を与えた。
引例は世田谷代田駅の様子を表わしている。かつてこの駅構内には跨線橋があった。南口からだとこれの階段をのぼっていく。
(二)
片岡義男が在校したのは都立千歳丘高校だ。これを知って思い出したのは高射砲陣地である。家から自転車で船橋のこの跡を探訪に行った。2005年8月のことだ。もう20年も前のことだ。通りかかった人に尋ねた。
「ここの丘の上に、都立千歳丘高校があります。正門を入ってグランドの方に行く道があります。そこを下っていくと松の木が数本茂っているところがあります。そこが高射砲陣地跡でしたね。確か礎石か台石のようなものがありましたよ」
何と彼は、この学校に勤めていた先生だった。
恐らくは片岡義男在校時代に教えていた先生ではないか。
都立千歳丘高校の最寄り駅は小田急線千歳船橋だ。「高校生の頃には学校に電車で行くなら小田急線だった」(『坊やはこうして作家になる』)常々慣れ親しんだの小田急線である。
小田急線の電車に関する僕の最初の記憶は二両連結であったということだ。 すべてが二両だったのではなく、暇な時間に短い区間を走る電車、例えば経堂発新宿行というようなのが二両だったのではないか。いつ頃のことですかと訊かれても、僕には答えようがない。当時の僕は、この程度のことならなんとか記憶しているという程度のことだった。 『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年刊
「大当たり三色娘」という東宝映画ある、下北沢を舞台とした映画だ、ここに小田急電車が映っている。リベットで壁面を打ち込まれた茶色の電車である。いわゆる区間運転の車両が二両だった。
(三)
電車はもちろん今は自動開閉だが、かつては自分で開けていた時代もあった。
二両連結だったという淡い記憶よりもさらに淡い記憶として、ドアは客が手で開けていたという記憶がある。全ての電車がそうだったのではなく、暇な時間に古い車両をふたつつなげて短い区間を走る各駅停車だけがそうだったのではないか、などと思ったりもするが、これは小荷物電車の記憶との混同だろう。小荷物電車のドアは、乗ってる作業員が 手で開閉していたから。(引用同上)



















