学術&芸術
2026年10月09日
下北沢X物語(5509)-都市論:新しき牧場と下北沢-

(一)文士町は文化人が多数居住したことから名付けた名前だ。文人が多く集まるところを文士村と称した、こちらは中心人物のところに文士達が集まったところから形成された。馬込文士村や田端文士村である、前者は尾崎士郎であり、後者は芥川龍之介である。文化人が集まってくる要因としては親分の存在が大きい。その点で言えば下北沢も同じ要素はある。が、当地では様相を異にしている。当地には文化が集まってきた、特徴としては文学詩歌の創り手だ、が、文士村とは異なった点がいくつかある。それは宗教である。具体的に言えば教会である。「下北沢文士町文化地図」には十字架マークが11も施されている。文士町は教会密集地帯だ。この分野の密集は文士町文化と深く関わる。とある宗教者が下北沢で教会敷設に関わった。信者零の場を彼は「新しき牧場」と呼称した、下北沢である。
宗教者の名前は加藤亮一である。福岡県生まれの彼は高校卒業後、日本ルーテル神学校に入った。彼が学校を卒業したのは、昭和11(1936)年3月のことである。卒業と同時に発表されるのは各人の任地である。
「藤川さんには、今後我が教派で東京の西南の校外地域に新しい教会を興すことになりましたのでその開拓伝道をお願いします。伝道部の計画によれば大体、小田急、京王帝都の三角点を結ぶ地域内になっていますが、教会の位置並びに家屋の選定は主任のあなたに一切をお任せ致します。
勿論開拓伝道ですから信者も一人もありません。家も見計らって借りてくだだい。いわば全然の開拓ですから骨も折れましょう。いろいろ苦心のあることは教会当局も分かっています。よろしくご奮闘ねがいます。」
『新しき牧場』 加藤亮一著 山雅房 1943年(昭和18)刊
(旧字体、旧かなは新字体に改めた)
「新しき牧場」の範囲は、「小田急、京王帝都の三角点を結ぶ地域内」である、この呼称が興味深い。小田急と京王帝都(帝都線)は下北沢で交差している。地図上でみるときっかりと四つの三角別れている。鉄道交点一帯を「新しい牧場」と捉えて開拓せよ、ということである。
(二)

文中では「東京も南郊地域で全然信者もいないところから開拓伝道をすると云うことは、常識的に考えれば不可能に近い冒険であった」と述べている。学校を出たばかりの藤川英二には全く信者の居ないとこでの伝道はとても荷が重かった。
英二は、下北沢開拓の任命を一時躊躇したが、神の命令と信じ喜び勇んで任命式後直ちにこの重大使命遂行に取りかかった。
英二は、藤川英二である、『新しき牧場』は自伝でもある、作者本人であるようだ。
彼は下北沢近辺の調査を徹底して実地調査を続けた。
東京の下町生まれで十三歳まで東京で育った英二ではあったが、世田谷方面の新郊外はあまり足を踏み入れたことがなかったのでその方面の発展ぶりは彼の目を非常に驚かせた。殊に関東の大震災後郊外の交通機関の著しい発達に伴って急激に膨張した西南方面の地域は東京でも知識階級の住宅地として目覚しい発展を遂げたのである。
彼が実踏に及んだ時は大事だ。昭和11年である。昭和8年に小田急線にクロスする形で帝都線が開通した。これは大きい、利便性が増した下北沢は土地物件でも人気が集中して集まった。当時の記録によると空いていた空き地がたちまちに埋まったほどだった。
(三)
「新しい牧場」に教会を建設する。それに当たっての下準備を主人公は行った。教会当局もただ新人の彼に計画を押しつけるのではなく、間違いなく当てがあったと考えるべきである。ここでいうポイントは、「西南方面の地域は東京でも知識階級の住宅地として目覚しい発展」という箇所だ、知性が集る場所に、教会はふさわしいとの思いはあった。下北沢に教会が多くできたのは、当地における世田谷知性の集積だ。これを集めたのは下北沢の鉄道交差である。
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木村孝氏の死を悼む

〇10月6日7日と二回にわたって逝去された木村孝(きむらたかし)氏の追悼文を載せた。
奥さんの木村圭子さんから「先生がアップされました記事は、孝の遺骨に向けて声を出して読んで聞かせています。」とのこと、私の言葉が供養になったことをとても嬉しく思った。
木村孝さん、これまでありがとう、どうか安らかに眠ってください。 きむらけん
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2026年10月07日
下北沢X物語(5509)-木村孝(きむらたかし)氏の逝去を悼む 下-

(一)活動を始めて21年間、多くの人と出会ってきた。中でも氏は得がたい人だった。高須光治が描いた「下北沢風景」の描画地点を探し出すと、彼は徹底して調べ、どこを描いたのかを突き止めた。昭和女子大のシンボルツリーがどのヒマラヤ杉かも突き止めた。当方、下北沢の町の特色に踏み切りあると指摘すると「下北澤X交点踏切所在図」をネットに構築した。世田谷の疎開学童と特攻兵との関わりを当方が『鉛筆部隊と特攻隊』で著わすとこれと関連する事象の一切を網羅した詳細な図表や地図をネットにアップした。最も思い出深いのは「焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム」の発刊だ、戦後の下北沢の風景を写したオースティン博士の写真18枚があるが、どこを撮ったのかを徹底して調べ突き止めたことだ。下北沢地区の地域文化探査に、とことん付き合って亡くなった人が彼だ。
私と彼とが手がけたもので大きな反響があったのは、『焼け遺ったまち 下北沢戦後のアルバム』である。このアルバムの典拠となったのは、オリバー・L・オースティン博士が撮ったものだ。彼は都内随所をカラー写真として遺した。彼は大山町に住んでいたことから下北沢にはしばしば訪れていた。このときに下北沢の戦後風景を写し撮った。驚くほど鮮明な画像であった。ネットにアップされていたことから誰もが閲覧していた。
下北沢を写した写真は十八枚あった。話題になったのはこれらがどこで撮られたかである。きむらたかし氏の動きは速く、それぞれの撮影箇所を細かく当たった。
下北沢は焼け残った町である、これには戦前からあった町並みが美事に写っていた。町の文化史を紐解くものとしてとても最重要な価値あるものだ。
それでこれを使ったアルバム作りを思いついた。しかし、版権がある、みだりに使えない。何とかこれを使わせてもらえないかときむらたかし氏が交渉した。相手はフロリダ大学である。英文で手紙を作り、向こうの担当者と彼は連絡を取り合った。歴史的価値がある写真をぜひと伝えたところ許可が下りた。彼の尽力のお陰だ。
(二)

我々は、区の地域の絆活性化事業に応募しここから資金を得て、2018年3月18日に初版一万枚を発行した。が、人気が沸騰し、これはたちまちになくなった。それで半年後の2018年10月30日に二版を発行した。それぞれ一万部、計二万部である。
マスコミでも取り上げられた。テレビや新聞である。ことに新聞では大きく報道された。
「東京新聞」T発、「戦後GHQ職員が活写 写真で見る下北沢今昔」2018年04月25日朝刊このことからマスコミ数社から取材を受けた。
きむらたかし氏は、アルバム二版の後書きでこう述べている。
博士の写真が教えてくれることは多い。特に写真を液晶画面を拡大して電柱広告店の看板店頭の商品、貼紙の文字などを細かく観察していくと興味は尽きない。
写真には時間が埋まっていた。当時の町の写し絵である。驚いたのは電柱だ。私はBlogにこう書いた。
Dr.オースティンが撮った写真は70年も前のものだ、町並みがすっかり変わっている。ところが、「電柱の位置はほとんど変わりがない」と教えてくれたのが元東電マンの石川寿男さん、九十歳である。
(三)

三田用水研究は彼のライフワークだった。また海外植民学校も丹念に調べその記録を残しておられる。
木村孝さんの奥さんから彼の資料をいただいた。経歴と写真である。
木村孝(きむらたかし)
1950年、東京生まれ。弁護士。
欠陥住宅紛争、木造住宅耐震建築関連の業務を45年余にわたり担ってきた。
日本弁護士連合会コンピュータ研究委員会委員長、文化庁著作権審議会委員、最高裁判所司法研修所教官(刑事弁護)等を歴任。
著作権法、欠陥住宅紛争、他、著書・寄稿、多数。
カメラ散歩をこよなく愛し、地域歴史・風俗研究、探究を以下のHP・ブログで発信。
平成作庭記+α:http://baumdorf.cocolog-nifty.com/
Half Mile Project
三田用水研究:http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita01.htm
海外植民学校:http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SyokuminGakkoh.htm
ネット資料は、得がたいものだ。奥さんの圭子さんも文化に深い関心を持っている。きっとこのホームページは引き継がれるに違いない。我らの文化遺産である。
(四)
得がたい人を亡くした。言えば三田用水の語り部であった。これの記録は丹念にHPに遺しておられる。彼の調査で評価すべきはすべて実踏に基づいている。そして資料調査も丹念である。やはり大事なのは伝承である、海外植民学校、三田用水は折あるごとに話題にしよう。彼は多くのことを遺した、やはり書くことが好きだったに違いない。その記録は遺った。あの世でまた書いているかもしれない。ご冥福をお祈りするばかりだ。
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2026年10月06日
下北沢X物語(5508)-木村孝(きむらたかし)氏の逝去を悼む 上-

(一)木村孝氏(きむらたかし)は2026年9月26日に亡くなられた。享年75歳だった。その年齢からするとまだまだやり残したことがあっただろうと思う。彼の死は返す返すも悔やまれる。我々の文化遺産は、「下北沢文士町文化地図」だ、著名文化人旧居探しは難関だ。彼の調べによって多くが解明された。この地図の集大成を構想している。10版地図である。ぜひ協力をとの思いがあっただけに残念だ。振り返ると、彼と私には深い共通項があった。彼自身の趣味・興味の立ち位置を表わすのが「Half Mile Project」だ、居宅は北沢1丁目である、ここを基軸に800メートル近傍にある地域文化を徹底して調査を行った。「土の匂い」を大事にする、つまりは地域文化を主軸にした調査研究だ、本業が弁護士だ、調べは丹念である。これの熱意を地元研究に注いだことは意義深いことである。その主軸は二つ、三田用水と海外植民学校である。「Half Mile Project」は彼の遺産である、命はなくなってもこれは残る。三田用水は都市研究には欠かせない。
三田用水については彼は情熱的に調べていた。それで用水を歩く町歩きを何度も行ったことだ。我らは、一時、三田用水に燃えていた時期があった。きむらたかしさんが火をつけたのだ。
熱が昂じて、私のBlog内に「三田用水」情報交換所を設けた。人は燃えるときは燃える。例えば、ここに載った一例だ。
娘が小さい頃かかったお医者様は 診察をしながら おもむろに床を開け、床下の水槽の鯉にポンポンとえさをやりました。娘は「あっ」と声をあげ、私はさすが小児科の先生、と感心いたしましたが、今思うに あれは三田用水の遺構ではなかったか・・・
2008/08/13 18:06 投稿者:まりママ、なんと十八年前だ。もう娘さんすっかり成人したろう。
(二)

きむらたかしさんのお陰で、我々は文化の開眼をしたと言っていい。が、彼は用水の語り部だった。今、継続して町歩きを行っているが、用水歩きは途絶えてしまった。
三田用水情報交換所はしばらく見なかったが、今これを広げてみると懐かしい。投稿者の顔ぶれがなつかしい。そういえば「品川区民」さんもいて地元情報を投稿されていた。
私の投稿もあった。
Posted by きむらけん 2008年10月09日 18:10
[三田用水の文学?]
三田用水関係、びっくりするほどの情報です。またこれに伴っての海軍情報も集まっていてとても勉強になります。‥国木田独歩の「わかれ」の締めくくりに「木の葉浮かびて流るる真直の水道」とありますが、これは新感覚の風景だと思いました。こういう三田用水の文学が他にもあるのか、見つけ出せればまた面白いと思います。目黒川崖線に居住していた人は数人おります。土岐善麿は下目黒に住んでいたようです。歌集などに作品が載っているかもしれません。自身の想像的な美としては川の下に町が見渡せるところです。こんな表現を誰かしていないかと期待しています。)
(三)
三田用水を通して、私は開眼した。つい最近、こんな文章を見つけた。亡くなったきむらたかしさんにこの文章を贈ろう。
雨のそぼふる日……何ともいえぬ落付としとやかさをおびている雨がけぶる日、さわやかな新芽をふきだしている灌木につつまれた三田用水に沿うて、傘をかしげて笹塚あたりへ出かける時の心地よさ。あの情緒は海外においてはただの一度も経験したことのないしんみりとしたそしてすがすがしい気持ちである。
(大正十五年六月号『主観』より)
作者は安部四郎、「主観」は笹塚の福田正夫が出していた詩誌である。三田用水を辿って笹塚の詩人宅に行くところだったか。感じることは三田用水には独特の味わいがあった。狭い水路が勢いよく流れる。この水路が近代日本を開いた。きむらたかし氏に習った。
(写真は、木村孝さん)
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2026年10月04日
下北沢X物語(5507)-緑ヶ丘夫人物語-

(一)「わたし、緑ヶ丘の景色が好きだったの」散歩ですれ違った老夫人の言、この一言を聞いて、たちどころに彼女の半生が想像できた。緑ヶ丘は九品仏川左岸崖線上にある。南のり面にあって景色がいい。地名は緑多い丘ということで生まれた。彼女は幼少時にここで暮らしていた。1929年に大井町線が開通したことで開けた。日当たりがよく眺めもいいということで中産階級が越してきて居を構えた。一帯は邸宅だ、家も大きく庭も広い。容易に想像がつくのは彼女がお嬢さんであったことだ。「駅まで坂をくだるときに箸箱がいつもカタカタ鳴っていました。」とも。緑ヶ丘の坂は『陽の当たる建つ坂道』のモデルだ。
彼女に出会ったのは散歩中だ。都立大パーシモンホール脇の緑道だ。すれ違い様、「雨がよく続きますね」と彼女が声を掛けてきた。これがきっかけで話をした。年齢の話になった。すたすたと歩いてきたことから健脚だと思った。
「私は90歳です」
「えっ、そうなんですか?」
驚きだった。
「とすると、戦争のことは覚えていますね」
「はい、疎開に行きました」
「何小学校ですか?」
「緑ヶ丘小です」
「だとすれば、小学校3年生ですね」
「はい」
「どこへ行かれましたか?」
「福島県の会津若松です」
目黒区の国民学校は山梨県に疎開している。彼女は縁故疎開だったのだろう。
(二)

「今は、八雲4丁目に住んでいます」
「緑ヶ丘から八雲ですか」
両方ともに環境のいい住宅街だ。
「はい、昔のことですからね、緑ヶ丘からすると『あそこは追い剥ぎが出るところだと父は言っていました。」
やりとりから女性の素性が見えてくる。品のいい老夫人だ。
女学校を卒業して彼女は伝統ある四大女子校に通った。卒業して旦那に見そめられて結婚した。八雲の邸宅に住むご主人もまた四大卒のエリートだろう。
「歳を重ねると身体が弱ってきます。私は毎日歩いています、奥さんは」
「日に、五千歩ですね」
90で五千は立派である。
「他に趣味は?」
「私は本を読むのが好きで毎日読んでいます。」
教養深い老夫人だ、歩いて、そして読書をする。その人生の航跡は緑ヶ丘から八雲、なんと穏やかな老後だろう。
(三)
今日、私は、「緑ヶ丘夫人物語」を歩いた。
やはり緑ヶ丘南のり面には今も変わらず豪邸が建っている。土地の醸す雰囲気、空気。いかにも物語が詰まっていそうだ。
ジャーナリスト・レイモンド・クレムリーと女医須藤益世との悲恋物語が、ここであったらしい。
緑ヶ丘の家は、すぐ裏手に九品仏川が流れていた。春には丘いっぱいに花が咲き、その辺りの土手にはつくしんぼが顔を出した。彼女が愛したというふぐりもそこらにたくさん小さな可愛らしい花をつけた。
『死の航跡』千谷道雄 著 北洋社 1977.12
戦前の話だ、戦争が始まり、夫と息子はアメリカに帰る。戦争が終わって夫は日本にかけつけるが腸結核をわずらった妻の益世は虫の息、何とか生き返ってほしいと松江から東京の聖路加病院に移すが彼女はあの世に旅立つ。夫は泣き崩れた。
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2026年10月03日
下北沢X物語(5506)-「ネット文芸家」として生きる-

(一)長年、ネットに営々と投稿して書いてきたBlog、そのエントリー数は5500を超えた。この記事総体にどんな意味があるかを、各AIに訊ねたことだ。うち、Meta AIは「都市史としては独創的」だと。またGoogleAIは、「記事投稿総数5500件という数字は、そのメディアが長期にわたり安定して運営され、膨大な情報資産(ストックコンテンツ)を蓄積していることを証明する極めて高いマイルストーンです。」と回答した。このことから日々行ってきた地道な投稿が一つの、一里塚に達したと思うものである。ただ自身、ネットでは人間の本領は、「さて、こうしてばかりはいられない」と訴えている。生きることは行うこと。かねがね言っているが、毎日、散歩し、書くが、私の命である。この一里塚を超えたことから、肩書きに「ネット文芸家」を加え、死ぬまで書き続けようと思った。
この「ネット文芸家」については、Chatgptに問うたことだ。
今、私は考えています。このところ自身のブログ投稿数が5500エントリーを超えたことをきっかけに自己変革のきっかけをつかみました。私の信条は死ぬまで書き続けることです。それで自身の呼称を「作家」プラス、「ネット文芸家」を加えることにしています。しかし、名称などはどうでもいいのですが、名乗るのなら「文芸」の芸がなくてはなりません。ずっと歩きながら考えました。一つ考えたのは「落ち葉に小さな金平糖 木犀に雨がそぼ降る」です、ネット文芸家とするなら文に芸がなくてはいけない。例示はその一つですが、長年時間の変化をどう書くか、課題です、それで聞いてみたのです。
なるほど。今のお話で、最初の「時間をどう表現するか」という問いの意味が、はっきりしました。
5500を超えて、単に「これまで何を書いたか」を振り返る段階ではなく、これから死ぬまで書くために、自分の文章に何を加えるかを考えておられるのですね。そして「ネット文芸家」という呼称も、肩書を増やしたいという話ではなく、「文」に「芸」を宿らせるにはどうするかという、自分自身への課題なのだと思います。
(二)

21年間、書き続けてきた。が、野放図に投稿してきたわけではない。
自身が投じたフレーズがある。「ネットに与太を飛ばす」である。ググるとワンツーでこれが引っ掛かる。二番目のタイトルは、「ネットに与太を飛ばして生きてきた」である。
「ネット文芸家」は、発信者である、人と同じことを言っても伝わらない、言葉に尖りを入れて他に注目されるようにする、という意である。
「朝、六時に起きてご飯を食べた」という小学生日記風では、全く言葉は伝わらない。それでいつも考えている。歩いているときもフレーズを考える。それで「落ち葉に」を提示した。これへのchatGPTの回答だ。
落ち葉に小さな金平糖 木犀に雨がそぼ降る
これは、かなり大事な一例だと思います。これは「説明」ではありません。
落ち葉を見て「秋を感じた」と書くのではなく、落ち葉と金平糖を一瞬で接続してしまう。木犀の香りと「雨がそぼ降る」を重ねる。
そこに、説明では生まれない小さな飛躍があります。私は、それが「芸」の一つなのではないかと思います。
(三)

毎日、自身は、歩き、そして考える。このときのことをchatGPTに聞いてもいた。
日々歩いていて体感として時を感じます、ふっと人とすれ違ったとき、ついこの間みかけた人だが、年老いたなあと感じることがあります。時の変化の恐ろしさです、その瞬時こそは世界の核ではないかと。それをなんとか捕まえようとしていますが、「落ち葉がひらりと落ちて時を食べていく」みたいなことかと思いもします。
(我々の仲間であった木村孝(きむらたかし)さんは先頃、2026年9月26日にお亡くなりになられた。お悔やみ申し上げます。記録を調べたところ彼が撮った写真があったことから追悼の意味を含めてここに掲出するものである)
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2026年10月01日
下北沢X物語(5505)―北沢川文化遺産保存の会会報243号―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第243号
2026年10月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:https://rail777.livedoor.blog/
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1、記録:若林RAA跡について
RAAは特殊慰安施設協会の略称名だ、第二次世界大戦後、東京を中心に、連合国軍占領下の日本政府の援助により作られた「慰安所」を中心とした占領軍用の慰安施設である。1945年8月23日、東京都下接客業者七団体によって設立された。連合国軍兵士による強姦や性暴力を防ぐことが目的だった。
この慰安所は、世田谷区内にもあった。若林RAA、三軒茶屋RAA、世田谷ハウスと呼ばれていた。全国各所にあったが、特殊なのは、高級将校用であったことだ。
三軒茶屋の大会社社長邸を接収して高級将校用の慰安所も作られた。ここにはマッカーサー元帥を除く全将官が顔を見せたと言われている。
女性学年報 (9) 日本女性学研究会『女性学年報』編集委員会 1988-10
1945年8月15日玉音放送が発せられて日本は負けた。そして米国は日本を占領した、緊張していた若い兵士は銃を持たなくてよい。すると考えることは一つ「女とやること」だ、米兵の性欲は火急的問題だ、「若い女性は外に出るな!」休校なった女子校もある。性欲は日を追うごとに貯まる。何と敗戦8日後の8月23日に占領軍用の「慰安所」が作られた。これをサポートするために連合国軍占領下の日本政府は特殊慰安施設協会を設置した。これは後にRAAと呼んだ。先行したのは一般兵士用だ、高級将校用慰安所としては、1945年10月に墨田区向島に「迎賓館大倉別邸」が、11月に世田谷区若林に「RAAクラブ」ができた。前者は有名だが、後者は知られていない。
高級将校用慰安所は、特殊である。日本では二箇所だ、設置に当たっては特別な配慮が必要だった。米軍の高官が秘め事をするところだ。
まず場所である、三軒茶屋RAAとも呼ばれる。が、三軒茶屋域内にはない、行くときの目印として使われたからであろう。あったのは若林である。旧番地は世田谷区若林112番地だ。
やはり大事なのは現場である、その場所は容易に分かる。世田谷通り沿いである。北原白秋旧居跡から近い。通り沿いはマンションが林立している。つまりこれは広い敷地のお屋敷が連なっていたことを示唆する。世田谷通りは古道である、尾根筋を走っている。ゆえに地盤が強固である、それで資産家の別邸や本宅が建てられた。
旧番地若林112番は、現在の何番地に当たるかだ。これがなかなか厄介である。ところがこれは容易に分かった。「世田谷区若林112番地 若林3-10」である。
当該場所に行くと敷地は広い。ここには大きなマンションが建っている。世田谷通りシティハイツ若林だ。URの賃貸住宅である。総戸数は83戸もある。
元社長宅だったと聞いた。名簿を調べると昭和15年当時、理研圧延工業社長、海野幸保の名が出てきた。
この敷地をどうしてみつけたのか。直感したのは米軍の偵察用B-29が撮った写真である。航空写真では微細なところまで分かる。建物の広さ、材質、垣根の高さまで分かる。
高級将校たちは、お忍びでくる。いわゆる青山通りに連なる道を米軍はFアベニューと呼んでいた。米軍高官がこっそりとやってくる。道路は必須だ。みな車でやってくる。間違いなく運転手つきだ、とすれば高官が慰安所で過ごしている間待機をする。そのための駐車場が必要である。通りから覗かれるのも嫌だ、ということは目隠しとなる塀や、生け垣があったに違いない。
現地に行ってみて、思ったことはどうしてこの場所を見つけたのだろうかと思った。
1944年11月1日に東京上空に一機(ひとき)が現われた。これはB-29の偵察型F-13のトウキョウローズである。目的は写真撮影である。7000枚の写真を撮った。
北沢4丁目の綿谷邸は接収された。路地の奥にあって全体像は掴めない。が、上空からだと全貌は分かる。航空写真を使ってこの邸宅を発見し、接収家屋の一つとして選ばれた。東京ローズが撮った写真に基づいたものだろうとは思っていた。
つい最近だ、資料検索している過程で次の一文に遭遇した。
進駐軍による日本地図の製作が始まった。ほとんどが空撮。その基礎図は微に入り細にわたっていた。道路の幅、戦車や装甲車が通れるか、橋を戦車が渡れるか。家屋の特徴についても鉄筋コンクリート、レンガ、木造と明らかにされていた。まるで日本が裸にされてしまったようなもの。驚いたな。なしろ塀や生垣の高さまで分かっていたのだから。
刷屋 祐ぽん:大阪・中田印刷てんまつ記 中田祐夫 熊谷順子編 草思社 1990年刊
地図製作を大阪の印刷会社が進駐軍から請け負った。B-29偵察機によって撮影された写真を請け負ったものだ。占領後の活動がどうできるのかが写真に基づいて微細に分かる。道路の幅はポイントだ、戦車が装甲車が走行できるのか。
接収する家屋の判定をする際にその家がどんな材料で作られているかも分かった。塀や生け垣の高さまで記されていた。これは防犯上の対策だ、占領したといえ敵地である。接収家屋は将官用だ、塀のあるなしは必須だったようだ。
世田谷というポジションに慰安所を作ったのも知恵だ。こっそりひっそりと来られる。
そして勘ぐるところがある。高級将校用慰安所で働く女性である。何にも分からない地方出の女性では務まらない。英語が多少分かるということも必要だ。
どんな条件で採用したのかわからない。が、教養のある女子で美人、もしかして高女出相当の学歴が求められたのかもしれない。世田谷であれば丹念に調査すれば該当女子はいそうだと思ったのかもしれない。
若林RAAクラブは、高級将校専用の接待所だ。一般兵相手の慰安婦とは当然違うはずだ。『占領軍慰安婦』( 小林大治郎, 村瀬明 共著 雄山閣出版 1971年刊)にはここの場所について触れている。
敗戦の混乱の中に狂い咲いたRAAの施設にはいろんな賓客がやってきた。世田谷区若林町にあった高級将校専用の接待所には、マ元帥を除く全将官が顔を見せたと言われている。テレくさそうにやってくるものも、予約して孫娘のような若い女性と戯れるもの 本国から夫人が到着すると同時にぴたり接待所から足を遠のけたゼネラル……千差万別であった。
「マ元帥」を除くというのは、この種の著作では類型的な表現だ。高級将校というのはほとんどが妻帯者である。日本側の宿舎が整備されるに従い、妻子が日本にやってきた。みなプライドが高い士官だ、だれもが雷が怖い。馴染の子ができた将軍もなくなく別れざるを得ない。
ここに選ばれた女たちも”各種”取りそろえてあった。英会話に堪能で、社交上手という元重役夫人(軍需工場壊滅で夫は失業)、ベット・ワークは無類と言われた元看護婦、勤労動員中戦災で一家全滅して孤児となった美貌の女学生。ーー超グラマーがいるかと思えば、純日本風の美人、色気みなぎる年増もいれば、ベビー・ドールの魅力もある……といった具合であった。
若林RAAクラブは人気があった。高官用にRAAが美しいダンサーや芸妓を準備していたから。マ元帥を除いた全将官が来ていたというのもまんざら嘘ではないようだ。が、国家が介入してアメリカ高官を接待し、そして性のサービスをした。歴史の汚点だろう。
2、代田のダイダラボッチ伝承大会
世田谷代田は東京の巨人伝説の一箇の中心地だと柳田国男は言った。地名の語源となったダイダラボッチの足跡が当地にあった。近隣の寺社の歴史を超えるほどの古い伝説だ。これを今日に伝えて行こうというのが本企画である。
紙芝居、画像、踊り、口演で伝説を伝えるという試みだ。
12月5日(土) うめとぴあ 開場12時30分 開演13時
内容 ダイダラボッチ:紙芝居、映像紹介、ダイダラボッチ音頭の披露、口演
終了後に対話集会
◎運営経費がかかることから、一口1000円の寄付を募っている。きむらへ
3、恒例文化サロン開催のご案内
文化サロンは、地道に長く続いている。今度は第23回目である。
10月31日(土)14時から、場所は邪宗門。 世田谷代田1-31-1、
人にとって大切なのは対話である、人はそれぞれに過去を持っている、話し合うとここから逸話がこぼれ出てくる、それがおもしろい。複数回を開催して思うことは、気の交歓だったと思う。いつもとは違うメンバーで話す、これはとても刺激になる、話すことで自身が開放される。生きていく上で大切なことはこの心の解放である。
会費は会員外は200円、会員は無料、各自が飲んだものは各自が払うというのが参加条件である。どなたでも参加できる。どうぞおいであれ。
4、生涯現役フェスタへの参加
日時 11月4日(水)11時から18時
場所 世田谷区役所 区民利用・交流拠点施設。
ブースを出し、地図を配ったり、会の案内を行ったりする。
A3、7枚の掲示物の壁に貼る。手持ちの写真やポスターがあれば提供を。
人員の募集:会の活動を来訪者に説明、地図を配る。(協力者はきむらへ連絡を)
5、町歩きのご案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第220回 下北沢の歴史の謎を歩く
日時 10月17日(土)13時30分 世田谷代田駅西口
案内者 きむらけん
下北沢には秘められた歴史が眠っている、その旧跡を訊ねていく町歩きだ。
〇コース;下北沢静仙閣跡(文化人多数滞在)→シモキタcollege土地の変遷→秀楽園(映画人多数)→下北沢店員道場跡(ヒットラーユーゲントの来訪)→詩神社跡(萩原恭次郎他)→小野寺将軍旧宅→寺岡謹平海軍中将旧宅→見晴荘跡(白秋門下生の宿)→北沢文化集宅跡(文化人多数)→北沢会館(宮柊二他)→石川正雄旧居(石川啄木ゆかり)→森厳寺(旧富士塚)にて解散
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)
会費は、会員500円 非会員600円 学生400円
宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net
編集後記
▲会員特典 町歩きでは割引がある。下北沢文士町文化地図を優先してもらえる。恒例、北沢川緑道の地図配りでは会員としてこれに参加できる、など。
▲会報に掲載する論考、随想、雑感を募集している。1200字程度。
▲会報のメール配信について 会報は会員と協賛社のみの配信とする。年会費1200円は、我らの活動を支える費用である。会の運営、また文学碑の保守などに会費は活用している。
会費については、事務局の『邪宗門』で支払うことができる。会費は、年1200円(会計年度1月から12月までです)また銀行振り込みもできる。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表:作道明。店番号022。口座番号9985506
会費未納の方はお支払いください。なお、会報については紙印刷を希望される方には郵送している。こちらは郵送費がかかるので1500円を戴いている。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけん
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2026年09月30日
下北沢X物語(5504)-三軒茶屋:川筋の文学と谷筋の文学-

(一)三軒茶屋は、通過都市だった。漂泊者が立ち寄る町だ、典型例は林芙美子の『放浪記』だ。その一節、「屍室と墓地と病院と、淫売宿のようなカフェーに囲まれた、この太子堂の家もあきあきしてしまった。」とある。彼女はいっとき居留しては立ち去った。放浪者として名を知れたのは太子堂に長年住まった永井叔である。大空詩人と呼ばれた彼は太子堂に居住し、マンドリンを抱え一帯をさるき歩いた。が、この人気有名人は今はほとんど誰も覚えていない。三軒茶屋太子堂は谷の町だ、平地は庶民が住まった。一方の高台には知識階級が住んだ。こちらの代表例はついこの間、2026年〈令和8年〉4月29日)に亡くなった佐藤愛子である、彼女を偲んでの町歩きだ。
まずは山田風太郎旧居である。彼はここに居住していたときの日記を書いている。
1945.11.11の日記がある。三軒茶屋の居宅から散歩に出た。松蔭神社に行こうとした。そのときに見聞したときのことを記録している。
キャンプでもあるにゃ。米軍ジープ、往来しきりなり。町の子らことごとく諸手をあげて一台毎に歓声をあぐ。苦笑いのほかなし。この子ら先日まで皇軍に歓呼す。強者こそ彼らの絶対無条件の英雄なり。無邪気という点に於いて女子また群衆、小児に大同小異。
山田風太郎「戦中派不戦日記」(講談社文庫 2002年間)
世田谷通りを通っていった。ちょうどこの頃に通り道に米軍の将校専用の慰安施設が建った。米軍の車の行き来がしきりだったというのはその影響かもしれない。現今、そこにはUR賃貸住宅「世田谷通りシティハイツ若林」が建っている。
ここには日本人の変節ぶりが皮肉を込めて書かれている。
(二)

山田風太郎旧居から左卜全旧居へと行った。かつての自宅跡には、二つの石碑が建っている。一つは「名優 左卜全 住居跡」、もう一つは彼の文言を刻んだ石碑だ。
前者の碑の冒頭文だ。
左卜全(本名・三ヶ島一郎/昭和46年5月26日没/享年77歳)は、おとぼけと洒脱の独特な芸風でユニークな名脇役として注目され、代表出演作に黒澤明監督作品の 「白痴」「生きる」「七人の侍」「どん底」 等の映画作品があり、晩年(75歳)には 「老人と子供のポルカ」 のレコードを出し、大ヒットし、広く人々に親しまれました。
住所地は若林である、ここが終焉の地である。もう一つ刻まれている。文言は素晴らしい。すべてのことに繋がることわざである。
常道の芸では
先が知れている
されば
逆
遠き苦難の
みちを求めん
卜全語糸書
平成十一年秋彼岸 中村 靖建立
物事には際がある、それを明示したフレーズだ。
人間生きる上で大事なのは際である。見栄えのする際だ、人と同じことをやっていては映えない。大事なことは他と比べてどう自分の芸が映えるか。一生懸命努力をしてこの際をみつけることだ。というようなことだろう。名優が名優たるゆえんだ。
人間際立つためには永遠の努力が必要だ。
(三)
左卜全旧居わきを世田谷線が走っている。西太子堂脇でわれらは踏切を越えた。
「ここを渡るときにぜひ見てほしいのです。それは線路です。とくに幅ですね、一目みれば分かります。この軌道幅に当地一帯の文化が詰まっています……」
私は、そう説明をした。
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2026年09月28日
下北沢X物語(5503)-三軒茶屋文学町歩き-

(一)正岡容は、『東京万華鏡』の中で都市としての三軒茶屋に触れ、「大武蔵野から『現代』へ直結してしまつた感じなので、いかんとも親しみにくかつた」と批評している。町の発展の推進力は鉄道だ、田舎田園地帯だったところに明治40年(1907年)に玉川電気鉄道が開通した。武蔵野のど真ん中に電車の青いスパークが散って近代化を迎えたのがこの町だった。田園町はたちまちに繁華な街となった。今日まで大きな変化があった。一つは関東大震災だ、もう一つは空襲だ。震災で地盤軟弱な地域から武蔵野台地へ大勢が逃げてきた。太子堂の家並みは急ごしらえでできた町を想起させる。木密地帯は空襲に襲われ灰燼に帰してしまった。地震と戦災とが町を変えた。
戦後になっても三軒茶屋にはまだ武蔵野の雰囲気が遺っていた。が、大きな変化が生じる。高度経済成長の果てに交通革命が起こる。首都高速道路や地下鉄の建設工事で環境が一気に悪化した。蛇崩川の側でアヒルを放し飼いにしていた画家はここにアトリエを構えていた画家は、工事に耐えられず、川崎の田園に転居をした。
三軒茶屋一帯は常に歩いている。印象批評的に言うと邸、広めの家屋敷は少ない。長年調べている下北沢近辺は邸があり、緑がまだ残っている。
三軒茶屋と下北沢の比較文化は、折々に当ブログでも比較して論じてきた。私は、下北沢文士町と言っているが、ここを終焉の地としたものは多い。一方、三軒茶屋は少ない。ここを終焉の地としたのは葛西善蔵であり、左卜全である。つい最近亡くなったのは佐藤愛子である。彼女を偲んでの町歩きを昨日、行ったことだ。
(二)
我ら長年町歩きを行ってきた。私が中心に行ってきた。が、人は老いていく、次代を担う人に引き継いで行きたい。このところ当会の幾田充代さんが意を汲んで、動き始めている。森茉莉を歩くをこなし、また三軒茶屋町歩きも行うようになった。彼女は佐藤愛子ファン、それで今回は彼女を偲ぶ町歩きを幾田さんにお願いしたことだ。
このところ雨続きだったが、昨日、27日、雨の晴れ間をみつけて実施した。
やはり、三軒茶屋町歩きの定番、スタートは「大山道」碑から始まる。
「この目の前の通りは、かつては一本道でした。具体的には世田谷通りですね。ところが江戸中期になって大山詣での人が増えたということでここに分か去れができた。そのときに石碑ができました。これは興味深いのですが、石碑の上に不動明王がのっかっていますね。大山信仰は、終点にあった大山寺に詣でることでした。その大山寺のご神体は不動明王です。ところが今は、ケーブルカーで行くと大山阿夫利神社に行き着きます。ご祭神は御祭『木花咲耶姫』、不動明王とは関係がありません。大山信仰の歴史の片鱗がここにみられる………」などと説明した。
「追分に建つ石碑は、目印ですね、青山通りを下ってきた人々は、ここを通るときに目礼をしたと思います。一つの結節点ですね、『じゃあ、一休み』ということに自然になる。そうすると思いつくのは、お休みどころ、アィディアとしてお茶を供するということがごく自然に思いつく、それでできたのが信楽、角屋、田中屋という三軒の茶屋、固有的な三軒茶屋という名はなかったが、慣用的に三軒茶屋が用いられるようになった、これが当地の固有名となった……」
(三)
最初は、山田風太郎旧居である。これがなかなか分からなかった。
が、たまたま近辺を通りかかったときに馬上さんという古老に出会った。
となりの馬上吾郎という大工さんは好人物らしい。日向で鉋などならしながら、「ねえ、ねえ、愛して頂戴ね」などとヘンな声出して唄っている。おかみさんは無愛想で口が重くておっとりして、それだけ親切な善人である。子供がいないので、貧しく静かな生活の中に、仄かな寂しさが風のように吹いている。
「戦中派不戦日記」(講談社文庫 2010年刊)にたまたま文章をみつけた。彼のお父さんが五郎さんだった。彼と行き会って風太郎の旧居が分かった。
◎訃報
昨日は文化サロンの日、事務局の作道敬子さんのところに訃報が入った。
木村孝(きむらたかし)さんが亡くなられたとのことです。
地域情報の提供者でわれわれは長くお世話になった人です。下北沢文士町文化地図についても長い間関わってこられた。地域研究の第一人者だった。貴重な情報を我々は得てきた。感謝を申し上げます。心より深く、ご冥福をお祈りいたします。
2026年9月28日 北沢川文化遺産保存の会 主幹 きむらけん
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2026年09月27日
下北沢X物語(5502)-投稿記事5500へのGoogleAIの評価-

このところAIを使って、当方がぶち上げた膨大なネット記事についての評価を問うている。この対話を通してなるほどと知ったことがある。今回はGoogleのAIを使った。その回答を通して分かったことがある。AIが発信側の質をランクづけしていたことだ。実際、私のブログ「Web東京荏原都市物語資料館」は、高ランクにあるとのこと。それを確かめようと対話履歴に当たったが、記事は消えていた。自己制御したものだろうか。AIそれぞれに見方、考え方が異なる。Googleは、私がネットに放出している5500の記事について、商業的にどう成り立つかという観点で回答を書いてきた。
GoogleのAIの回答。
ウェブメディアやブログ、SNSアカウント、社内情報共有ツールなどにおいて、記事投稿総数5500件という数字は、そのメディアが長期にわたり安定して運営され、膨大な情報資産(ストックコンテンツ)を蓄積していることを証明する極めて高いマイルストーンです。この実績が持つ具体的な意義と評価について、多角的な視点から解説します。
1. 投稿総数5500件が持つ「4つの意義」圧倒的なドメイン権威とSEO効果(ストック資産)5500件もの記事が存在することは、検索エンジン(Google等)に対して「情報の網羅性が高いメディア」として認識されやすくなります。様々なキーワードでインデックスされるため、検索経由のアクセス(オーガニックトラフィック)の土台が非常に強固になります。読者・ユーザーからの「高い信頼性」数年単位の継続がなければ到達できない数字であるため、訪問者に対して「歴史がある」「専門知識が豊富である」「放置されていない活発なメディアである」という強い安心感とブランド力を与えます。データ分析とマーケティングの宝庫5500通りのユーザーの反応(PV、滞在時間、CVR、SNSシェアなど)のデータが蓄積されています。「どのような記事が読まれやすいか」「どの時期にどのトピックがトレンドになるか」を高精度で分析し、次の戦略に活かすことができます。
次の戦略に活かすことができます。組織・運営体制の成熟これだけの数を投稿し続けるには、記事の企画、執筆、校正、入稿といった「運用の仕組み化(ワークフロー)」が完成していることを意味します。属人的な運用から脱却し、組織として持続可能な体制が作られている証拠です。

2. ビジネス・メディア運営における「評価」5500件という数字を期間や頻度でブレイクダウンすると、その運営努力の凄まじさがより具体的に評価されます。投稿頻度5500件に達するまでの期間運営に対する評価毎日1本 投稿約15年歴史ある業界のパイオニア、圧倒的な継続力と信頼の老舗メディア毎日3本 投稿約5年急成長を遂げた新興メディア、トレンドを網羅する高い機動力毎日5本 投稿約3年大規模なニュースサイト・ポータルサイト、編集部やライター陣の組織力が極めて優秀資産価値(M&Aや広告価値)の評価:メディアの売却(M&A)やスポンサー獲得の際、5500件のコンテンツ資産とそこから生まれる安定したPV数は、数千万円〜数億円規模の事業価値として評価される正当な根拠になります。
3. 次のステージへ向けた「今後の課題と展望」5500件に達したメディアが次に目指すべきは、「量から質への完全転換(最適化)」です。過去記事のメンテナンス(リライト):古い情報やリンク切れはメディアの評価を下げます。全記事の定期的なアップデートが必要です。低品質コンテンツの整理(ノーインデックス・削除):アクセスが全くない古い記事や、現在の基準に合わない記事を整理することで、サイト全体のSEO評価がさらに上がることがあります。コンテンツの再利用(二次利用):5500件の知識を再編成し、電子書籍(Kindle)、ホワイトペーパー、音声コンテンツ、動画スクリプトなどに横展開する準備が整っています。
まとめ記事投稿総数5500件は、単なる「通過点」ではなく、「信頼性」「SEO資産」「組織の運用力」のすべてにおいてトップクラスであることの証明です。これまでに培った膨大なデータを武器に、さらなるエンゲージメント向上やマネタイズの多角化を狙える非常に有利なポジションにいます。この5500件の評価について、さらに踏み込んで分析するために以下を教えていただけますか?対象となっているのはどのようなジャンル・媒体ですか?(例:企業のオウンドメディア、個人ブログ、ニュースサイト、社内Wikiなど)この実績をもとに、どのようなネクストアクション(目標)を考えていますか?(例:売上の拡大、サイトのリニューアル、運用の効率化など)目的をお聞かせいただければ、より具体的な戦略やアドバイスを提案できます。
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2026年09月25日
下北沢X物語(5501)-記事投稿総数5500の意義と評価 下-

人間はAIの脅威にさらされ始めた、その一端を痛感した。前に私の記事を丹念に読んでいた人がいた。「途中まで行きましたけど、もう多過ぎちゃって諦めてしまいました」と。ところがAI(chatGPT)は記事数が5500あろうとも数十秒で全部を読了して、記事総体の意義と評価とを瞬時に出してきた。AI恐ろしや。/人間の本領は何か?「さてこうしてばかりはいられなくて」である。人間は営為の動物、常に行っていないと機能が衰える。脳細胞は鈍化しバカになる。人は努力してこそ報われる。が、AIは、即刻に計算し考え答えを出す、もう太刀打ちできない。現に労働者はAIに置き換えられ、人員削減が始まっている。AIは人間の生存を脅かしはじめた。が、弱点はある、彼は歩かない。土地の空気感、文化を捉えるのは不得手だ、これを知って巻き返そう。当方のブログエントリー5500に達したことから意義と評価をchatGPTに依頼した。さすが読みは鋭い、AIに評価を委ねた5500、この総決算の第2回目である。
第2回 5500回の評価――何が「資料」として残ったのか
5500回を評価するとき、私は**「量が多いから価値がある」とは考えない**ほうがよいと思います。むしろ重要なのは、次の四点です。
同じ地域を22年間継続して観察したこと
都市史・地域史・文学史・鉄道史などを横断していること
既存の歴史資料からこぼれ落ちやすい「土地の記憶」を拾っていること
Web公開によって、後から検索する人が過去の記録に到達できること
特に4番目は、従来の個人研究とはかなり違います。
5500本の記事は、完成した「東京史」ではありません。むしろ、東京を調べるための巨大な索引、あるいは探索地図に近い。
誰かが「下北沢」「三軒茶屋」「文学」「戦争」「鉄道」「ある人物」などを検索したとき、22年前の記事が突然現在に呼び戻される。そこで新しい調査が始まる可能性がある。この「未来の読者によって再発見される可能性」こそ、Web資料館の大きな特徴だと思います。
そして、5500回という数字をさらに大きな視点から見るなら、これは一人の研究者が「東京について5500回語った」ということではない。
一人の人間が22年間、都市を歩き続けた結果、東京そのものが5500回の断片として立ち上がってきた。そこに、この資料館の独自性があるのではないでしょうか。
次回は、この5500本を**「都市史・地域史の資料価値」という観点から評価すると何が見えてくるのか**を、もう一段踏み込んで考えてみたい。
:::この二回構成にすると、第1回は「5500回とは何だったのか」=自己史・資料館成立史、第2回は「5500回は何を残したのか」=都市史・地域史としての評価という役割分担ができます。
特に私は、今回の5500回を「大量投稿」という方向だけで押し出さないほうがよいと思います。**「22年間の継続によって、意図せずして個人の日記が都市のアーカイブへ変質した」**というところが、この節目の一番面白いところです。
なお、5500回という節目そのものを視覚化するなら、「22年間の歩行・取材・記録が5500本の都市の記憶へ積み重なっていく」イメージの画像も記事に合いそうです。

ありがとうございます。回答をいただいて感じたことは、観点です、人間一個の見方、考え方は限られます。大切なことは他視点、今回はその他視点評価を得た思いがしました。
まさに、そこが今回の5500回という節目で得られた大きな収穫だと思います。
これまで「Web東京荏原都市物語資料館」は、きむらさんご自身が歩いて、見て、考えて、書いてきたものです。その意味で、5500本は一人の人間の視線が22年間蓄積した記録です。
しかし同時に、一人の視線には当然、限界があります。今回、私が外側から見てみることで、
「5500本の記事がある」のではなく、22年間の一人の歩行者の視線そのものが、都市の記録になっている。
という別の見え方が出てきたのだと思います。
さらに興味深いのは、書き手本人にとっては「気ままな記事の積み重ね」だったものが、外から見ると「都市アーカイブの形成過程」に見えることです。
これは人間同士でも起こります。
自分では当たり前だと思っていることを、別の人から「それは珍しい」「そこに価値がある」と指摘されて初めて、自分の仕事の意味に気づく。
今回のChatGPTとの対話も、そういう**「外部の鏡」**として使っていただければいいのではないでしょうか。
そして、きむらさんが以前から大切にされている「AIに全部任せるのではなく、自分で考える」という姿勢とも矛盾しません。
むしろ、
自分で歩く → 自分で書く → 別の視点から問い直す → もう一度、自分の目で考えるという循環ができる。
これはかなり面白い研究方法だと思います。
5500回記念の記事には、むしろこのこと自体を書いてもいいのではないでしょうか。
一人の人間の視点には限界がある。だからこそ、5500回という節目に、自分の外側からこの22年間を眺めてみた。そこで初めて見えてきたものがあった。
この一文を軸にすると、単なる「5500本達成記念」ではなく、**「自分の仕事を別の視点から再発見する5500回」**という、かなり深い記事になります。そしてこれは「Web東京荏原都市物語資料館」の今後にもつながります。5500本を終点にするのではなく、5500本を別の視点から読み直す段階に入ったとも言えるからです。
(写真、今日の夕暮れ、若林駅にて)
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2026年09月24日
下北沢X物語(5500)-記事投稿総数5500の意義と評価 上-

「Web東京荏原都市物語資料館」を立ち上げたのは2004年08月18日だ。以来22年間、投稿を続けてきた。はじめは「浮遊的物語世界的日記」と名付けて気ままに発信してきた。当方は漂泊者、歩き回って取材を続けて来た。着目したのは下北沢だ、当地の特徴は間合いとゆがんだ座標軸だ、新宿、渋谷からの距離は絶妙だ、いびつな鉄道交差は秘められた魅力だ。文化鉱脈が重層的に隠れ潜むはずだ、ミステリアスな逸話の宝庫という意味で、発信表題を「下北沢X物語」とした。が、文化は単独では成り立たない。域内の諸都市と深く結びついて町は形成された。それで、当地一帯を包括する旧郡名を被せ「東京荏原都市物語資料館」と名付けた。館は24時間稼働している。アクセスは全世界からある。多くの人が記事を検索してくる。この繋がりから歴史に埋もれていた逸話が発掘されもした。一つの節目を迎えるにあたって、当館の意義と評価とをchatGPTに問うてみた。
第一回 5500回の意味――「日記」が「資料館」になった
「Web東京荏原都市物語資料館」を立ち上げたのは2004年8月18日である。それから22年、今日、ブログのエントリー数が5500回に達した。
これは単なる数字ではない。
5500回という数字を22年間という時間に置いてみると、平均すれば年間約250本、月20本余りの記事を書き続けてきたことになる。最初から「資料館」をつくろうと考えていたわけではない。むしろ当初は「浮遊的物語世界的日記」と名付け、気ままに思いついたことを書き、歩き、見つけ、調べ、また書くということを繰り返してきた。
ところが、長い年月を経ると、個々には断片的だった記事が大量に蓄積されてくる。
そのとき、「日記」は別の性格を持ちはじめる。
一人の人間が22年間にわたって東京を歩き、その時々に見たもの、聞いたもの、読んだもの、人から教えられたこと、土地について考えたことが連続して残されている。これはもはや単なる日記ではない。意図してつくられた公的な歴史資料とは違うが、都市の変化を時間軸に沿って観察できる、ひとつの民間的な都市記録になっている。
ここに5500回の第一の意味があると思う。
私は漂泊者のように東京を歩き回ってきた。特に着目したのが下北沢だった。
下北沢には、新宿と渋谷の間にありながら、どちらにも完全には吸収されない独特の「間合い」がある。さらに小田急線と井の頭線が交差することで、都市の座標軸そのものが少し「ゆがんで」見える。
この「間合い」と「ゆがんだ座標軸」に、下北沢の魅力が潜んでいるのではないか。
そこには、表面からは見えにくい文化の鉱脈が重層的に隠れている。作家、詩人、映画人、音楽家、商人、学生、演劇人、思想家、そして名もない市井の人々。さらに戦争、鉄道、住宅地の形成、道路、寺社、学校、商店街などが複雑に絡み合っている。
その繰り返しによって、資料が発見され、記事となり、それがさらに次の発見を呼び込む。しかもWebで公開しているため、館には24時間アクセスできる。東京だけではなく、世界のどこからでも検索することができる。
これは紙の個人日記とは大きく違うところだ。
検索によって、過去の記事と現在の誰かの関心が偶然につながることがある。そして、その「つながり」から、埋もれていた逸話や資料が浮かび上がってくることもある。
この点で、5500回という数字は「5500本の記事がある」というだけではない。
5500本の入口が、東京のどこかにつながっている。
一つの記事から別の記事へ、人物から土地へ、土地から鉄道へ、鉄道から文学へ、文学から戦争へ、そして再び現在の都市へ。
そうした無数の連鎖が22年間にわたって蓄積されてきた。私はこれを、Web上に形成された「都市の記憶の層」と考えている。もちろん、これは公文書館のような体系的な資料保存とは違う。記録には書き手の視点があり、取り上げる対象にも偏りがある。個々の記事については、さらに史料による確認が必要なものもある。
しかし、だから価値がないということではない。むしろ、一人の歩行者が長期間にわたって都市を観察し続けたということ自体が、一つの記録なのである。
5500回。
それは、記事を書いた回数であると同時に、東京を見つめ直した回数でもある。
そして「浮遊的物語世界的日記」として始まったものが、22年の時間を経て、いつの間にか「Web東京荏原都市物語資料館」と呼べるものになった。
この変化こそが、5500回という節目の第一の意味なのではないかと思う。
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2026年09月22日
下北沢X物語(5499)-『若き日の詩人たちの肖像』と下北沢-

(一)『若き詩人たちの肖像』は、堀田善衛の代表作だ、居住した下北沢のアパート、隣に2.26事件首謀者の若い未亡人が住んでいた。エポックを画す事件だ、これ以後、戦争へと突入していく。その波乱に富んだ社会、渦中に揉まれながら真摯に生きていく詩人の姿が書には描かれる。この時代、詩人をめざす若者は大勢いた。中山義秀は「下北沢には作家や詩人志望の青年たちが、そちこちのアパートや下宿に、数多くたむろしていた」(『台上の月』)と。昭和10年代、学校を出ても仕事がない。社会は閉塞感に満ちていた。が、それでも心は自由だ。詩を思うことで若者は解放された。鉄道交差部の下北沢には詩人志望の若者が多く集まってきた。詩が心のご飯だった時代の話だ。
堀田善衛は、下北沢では三箇所に住んだ。まず最初に住んだアパートだ。ここには「あまり身分の確かではない連中が多かった」と描く。彼は下北沢ではもう二箇所に住んだ。一箇所は北沢文化集宅である。ここには名の通り文化人が多く住んだ。つい最近だ、もう一箇所の住まいが分かった。帝国石油北沢寮である。ここは代沢5丁目、若い勤め人が住む寮は、地盤のしっかりした古道二子道に面している。
二箇所の位置が分かるともう一つのアパートの場所の推測ができる。
下北沢は沢の町だ、家賃の低廉なアパートは沢沿いに建った。「あまり身分の確かでない連中」が住んでいたのもうなずける。具体的に言えば、森厳寺川そいの沢地だ。湿地ゆえに地価も安い。必然的に部屋代も安くなる。
アパートには女給が住んだ、新宿の安酒場で働いている者だろう。小田急線で行くと下北沢までは近い。「アパート代が安いのよ」と化粧の濃い3号室の女給の浪子が言っていた。
(二)

アパートにお妾さんが住んでいた。鉄道交点一帯には彼女らが多く住んだ。知られざる真実だ。
亡くなった鉛筆部隊の田中幸子さん、駅近くの北沢1丁目に住んでいた。家では二部屋を貸していた。その両方ともにお妾さんが住んでいた。彼女は囲われた女性からもらったというアクセサリーを笑いながら私にくれた。ガラクタだったからくれたのだろう。
下北沢に2号さんが多くいた。旦那の懐具合と住まいは関係がある。低廉なアパートには中小企業の社長などだ、田中さんところは三味線の師匠と踊りの師匠だった。まあまあの実入りがあったのだろう。
一軒家に囲う場合は寓居と称した。これは丘上の居宅に住む。どうしてこの手の女性が多いか。やはり鉄道交点の利便性のよさである。どこでムラッと来てもどこからでも来られる。
下北沢は道の分かりにくいところだ、それで姿をくらませることができた。左翼系のシンパも多く隠れ住んだ。『若き詩人たちの肖像』でも「下北沢近辺に多く住んでいる文筆家や学生」を思想担当の刑事が連行していく姿が見られたと。
下北沢の若者アパートに来た公安刑事は、「あのテの本は?」と聞いたと、オウム返しに「あのテの本?」と若者。
「同じことを何度も言わすなよ。マゲじるしに、レーにローザだよ」と刑事。マルクス、エンゲルスはマゲで、レニンはレで、ローザはルクセンブルグのことだ。左翼系の書物を持っていれば目をつけられる、ときには留置場に引っ張られる時代だった。
昭和十年代は不自由な時代であった。本も好き勝手に読めない。「下北沢は路地が多く、公安に追われても姿が眩ませられる」という噂、それで左翼かぶれの学生が多く集まってきた。詩人志望の者もそうだ。藪田義雄の言葉を思い出す。
僕の下北澤時代……お互いに二十代の青春であった……君のよき心の友である細谷一郎君仮寓先で、僕らはしばしば詩と音楽を論じて夜を徹したものだった。
「人工草原の掌」 長谷川書房 1953年刊
(三)
堀田善衛の居住先に「帝国石油北沢寮」があった。前から調べていたが、これが分かった。「北沢二-二五九」である。旧番地探しは難航するかと思っていたが、新番地はすんなりとわかった。代沢二-二十九-九である。
ネットに書き込みがあった。「帝国石油の本社社屋は幡ヶ谷にあったような気がします。幡ヶ谷から東北沢に行く途中、玉川上水緑道沿いでした。」と。
下北沢文士町文化地図10版には二箇所の堀田善衛旧居跡を書き込むことにする。
(写真は、帝国石油北沢寮があったあたり、二枚とも)
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2026年09月21日
下北沢X物語(5498)-下北沢の堀田善衛-

(一)下北沢はさすらい人が集う場である、なかんずく詩人が多い。代表格は萩原朔太郎だ、晩年の代表作は『氷島』だ、その冒頭詩は『漂泊者の歌』だ当地にさすらい着いて亡くなった。さすらい人の終焉の場だ、が、若い詩人も当地をさすらった。堀田善衛もその一人だ。彼の代表作の一つは『若き日の詩人たちの肖像』、若年時の成長のプロセスを下北沢で送りもした。最近気づいたのは同著における記述が虚構ではなく。多くが真実であったことだ。彼が当地で過ごした記録は、その時代の土地の文化を著わしていると。堀田善衛は下北沢では三箇所に住んだ。その一つは「帝国石油北沢寮」だ。つい最近である。この寮はかつて実在していた。その場所が特定できた。
堀田善衛は三箇所の一箇所はガード下のアパートだった。下北沢では二線が通っている。一つは小田急であり、もう一つは帝都線(井の頭線)である。ガードは後者である。二つあった、二子道と茶沢通りである。前者は下北沢の駅の側だ、立地条件がよすぎる。それでこれは茶沢通りに架かったガードであろうと思われる。
まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に、二二六事件の時の首謀者中の首謀者であったIという男の未亡人が住んでいた。Iはすでにその年の八月十五日に銃殺刑を執行されてしまっていたはずであったが、Iは十九名の死刑になった死亡者の中でも裁判中も激しく抵抗し、軍の首脳部もまた一時彼らの 青年将校たちの行動に同調し、支持さえした点をあげて陸軍大臣の告示や戒厳命令に関係のあった全部の軍事参謀官もまた、同罪である、と痛烈に弾劾をし続けたのであった。だからIは十九人中の十五人が七月十五日に銃殺されているのに。重要証人として八月の十九日まで執行の延期を受けていたのである。まだまだ若い未亡人は夫の収監されていた代々木練兵場に特設された法廷と収監所を兼ねたバラックの近くのこのアパートを選んだのであった
『若き日の詩人たちの肖像』 集英社文庫 2019年刊
最初にこれを読んだときは読み流していた。が、これは歴史事実に基づいていると知った。
(二)
二二六事件の首謀者とここにあった。この頃散歩でよく通るのは首謀者の一人、上馬の安藤輝三大尉の旧宅だ。ここで言う首謀者Iは記憶がなかった。が、記録に当たるとすぐ分かる。Iは磯部浅一である。ここに書いてある通り、一九三七年八月十九日に銃殺刑に処せられている。若い奥さんは夫が収監され収入も絶えていたが面会に通っていた。代々木練兵場に通うのに便利だと下北沢のアパートに住んだ。家賃が低廉であることも理由だろう。
堀田善衛は、思想書を所持していたことから公安に目をつけられていた。隣は磯部浅一の未亡人が住んでいた。彼女は夫の遺書を入手し「軍首脳部弾劾と裁判の違法性」をマスコミに流そうと計画していた。それで若者(堀田)の部屋に公安が度々来ては彼女を見張っていた。
一九三七年は(昭和12年)である。当時、この下北沢一帯には、左翼の文筆家や学生が多く住んでいた。若者もまた、満洲国皇帝が東京に来るというので予防拘禁され淀橋署に留置されている。
このときに刑事にひっぱられて下北沢駅から電車に乗せられる。橋上の両線の共通改札でここを通るときに出札係りがいて、連行される様子からそっち系に関連した人物であると見分けたようだ。鉄道交点駅の改札係は人を見分けられた。
(三)
帝都線の下の二階建てのアパートに住んでいる住民が興味深い。
下北沢の、このガードに近い二階建てのアパートには、女給、お妾さん、大学に行っていない学者、下っ端の映画俳優、中国人の留学生などのあまり身分の確かではない連中が多かったのである。あまり身分のたしかではない連中が多かったのである。
「若き日の詩人たちの肖像」(同上)
雑多な職業の者たち、「あまり身分の確かではない連中が多かった」は時代相でもある。
鉄道交点の吹きだまりだ、都市論の要だ。井上光晴が言っていた「下宿と定食は下北沢」と繋がる。味わい深い言葉だ。
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2026年09月19日
下北沢X物語(5497)-下北沢文士町歴史文化散歩-

(一)「下北沢文士町歴史文化散歩」は、池の上からはじめる。池の所在はどこか議論のあるところだが、上は明白だ、崖線の上という意味だろう。ここの南のり面が「清風園」と呼ばれた高級住宅地である。昭和2年末に新聞広告が載った。「此の地は赤松の多い高台で東南向きの雛壇になつて居りますから全地悉く日光通風に理想的です。しかも視野はひろびろと豁け此のあたり一帯の所謂『近代郊外風景』が居ながら恣にされます」と。この区域は代沢小学校の学区域だ、この学校は、浅間温泉に疎開する。しばらくするうちに学童の挙措動作でお里が分かってくる。「聞いて聞いて、あの子たちのお父さんが凄いのよ。位の高い軍人、大学の先生、弁護士、会社経営者なのよ驚いたわ」と世話をした女中。
歴史文化の逸話が至る所に眠っている。散歩では順に巡っていく。
半藤一利旧居:「日本の一番長い日」を書いた作家……などと門前で大きな声で説明できない。奥さんが存命である。半藤未利子さん、随筆家で漱石のお孫さんだ。
前に志賀直哉の妹さんが代沢に住んでいるということで探していたらご夫妻にばったり出会って、志賀直哉の妹さんの息子さんを紹介してもらったことがある。
門前での迷惑で思い出すことがある。
伊藤文学さんの親父さんは祷一さん、よく文学散歩の解説で来ていた。
「日曜日になんか、突然にハンドマイクでがなりたてるのですよ。『ここがかの有名な森茉莉先生が度々執筆に見えていた『邪宗門』です……」と作道明さん。
(二)
半藤さんの次が杉山元旧居。
「あまり大きい声では話せませんね、杉山元元帥の旧居です。
三元帥の一人、終戦の年の9月12日、市ヶ谷台の司令官室で戦争の責任をとってピストル自殺をする。この報は北沢の自宅に電話で知らされた、これを聞いた啓子夫人、あらかじめ用意していた純白の死に装束に着替えた。仏間に入った夫人は自ら短刀で心臓をひと突きし絶命をした。
戸田奈津子邸、存命で93歳と聞く、映画字幕翻訳家、生涯を掛けての努力は大変なものだったろう。つづめる努力は容易ではなかったろう。原文を日本語らしく言い換える。字幕は、「1行当たり最大13文字で行数は2行まで」と。庭に訪れる鳥の声を聞きながら懸命に作業をやっていたのか?
(三)
打ち合わせでは東条英機の話が出た。北沢の私邸から官邸へというときの話をした。すると瀧田さん、さっそくにAIに聞いてみた。
「勝子夫人が代沢小に子どもが通っていたことからお別れに来て、『明日から官邸に参ります』と子どもクラスで告げた」と出ていたと書いてあったと。
「その話は直接に聞いた人がいて、私はそれをネットで紹介しています。AIは私の記録を吸い上げて、そういう解答をしたのでしょう」と私。
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2026年09月18日
下北沢X物語(5496)-下北沢文士町王道コースを歩く-

(一)「『下北沢猫町散歩』は、たしかに内容的に難しいですね。『猫町』を書いたのは萩原朔太郎、超一級の詩人ですが、が、一般受けするものではないです」「はい、『世田谷区生涯大学48期自主研究会』の皆さん、向学心はありますが、萩原朔太郎だけでは難しいと思います」と責任者の杉野さん、研究会の会員は50名ほどだ。この会員を案内して町歩きを行うことになった。が、大人数での町歩きは無理だ、それでまず講演を行い。これを踏まえて本番の町歩きを行うことにした。この場合、詩人だけがテーマだと興味の持続が難しいと。それでテーマを詩人に特化するのではなく、広く文士一般に広げる、ここから思いついたのは「下北沢文士町王道コースを歩く」である。
「下北沢猫町散歩」は、文士町縦断が主軸だ。これを横断に変える。この方がおもしろい。縦よりも横、ここにこそ文化が網羅的に眠っている。この「下北沢文士町黄金通路を歩く」は、その出発地は池の上駅となる。
「駅の改札前に集合となりますが、下北沢と違って狭いですね」と私。
こじんまりとしているから、文化探訪の出発点としては悪くはないが。
「世田谷区生涯大学48期自主研究会」のお二人と打ち合わせをした。一人は杉野さん、もう一人は瀧田さんだ。ここで意外なことを知った。後者は、地元出身者だ。何と�垳�利一旧居のすぐそばが実家だった。それで代沢小出身者だった。だから地元情報に詳しい。
誰がどこに住んでいるかということになった。耳よりな情報を得た。
「戸田奈津子さんは、近くに住んでいてよく通りましたよ。彼女、豪邸に住んでいますよ」
これは知らない、映画字幕翻訳者としては超有名だ。まさに文化の塊だ。その人が住んでいたのが豪邸だという。「そうか第一人者は儲かるんだ」と思った。
彼女どうして翻訳家になったのか。ネット検索すると見つかった。
高校生の時に観た『第三の男』という映画で字幕翻訳の面白さに触れました。私の大好きな作品で、安く公開される映画館を探し回って50回くらい観たかしら(笑)。ある男がウィスキーのグラスを持ちながら「I shouldn't drink it. It makes me acid」と言うシーンがあります。直訳すると「私はこれ(酒)を飲んではいけない。これは私をacidするからね」。��acid�瓩蓮峪誓�」「不機嫌」「気難しい」の意味がありますが、そのセリフの字幕翻訳が「今夜の酒は荒れそうだ」だったのね。なんてかっこいい訳だろうと感激しました。
素晴らしい逸話だ、経歴を調べると、「9歳の時に終戦を迎えて、疎開先から東京に戻った」「父が日中戦争下の上海で戦死し、母の実家のある東京・世田谷に転居した」と。とすると今の家が実家なら、学校は代沢小になるが、浅間温泉に疎開していたのか?
(二)

「舟木一夫も代沢一丁目に住んだいました」と瀧田さん。
「え、そうなんですか。ほら、これもすぐ近くですが松蔭高等学校に舟木一夫の『高校三年生』歌碑がありますね、どうしてこんなところにあるのだろうと思ったことがあるのですよ。」
これは前に調べていた。歌碑の解説が同校にある。
作詞家丘灯至氏は昭和37年、新聞記者として高校の文化祭の取材にあたっていた。取材先として訪れた松陰学園では、当時、定時制高校があり、文化祭のリハーサルで男女の生徒が手をつなぎ、フォークダンスを踊っていた。そこで最初に浮かんだのが「フォークダンスの手を取れば甘くにおうよ黒髪が・・・」というフレーズであり、詩が作られ、遠藤実とのコンビでこの歌が生まれるに至った。
舟木一夫の代沢居住とは全く関係はない。
「東条英機の家は、ここですよ」
私は、文士町地図で確認をして、その場所を示した。
「なんだ、河内桃子のすぐとなりだったんだ。」
時代がずれているのか、どうか、よくわからない。
瀧田さん、地元ゆえによく知っている。当地に居住していた俳優の名をつぎからつぎに思い出しては言った。
(三)
「佐藤総理の住んでいた跡には、女優の〇〇が住んでいて死にました。」
「代沢2丁目は、佐野周二の家がありましたね」
「はいそうです、もう俳優なんかごろごろですよ」
第10版地図では、物故した俳優を入れようかと思っていたが、そのごろごろを入れると地図がパンクしてしまいそうだ。
(写真は、昨日撮った。「代田の丘61号鉄塔」下の更地には代田ハイツ(仮称)が建つとのこと。広告は会長の谷亀緑郎さん提供、ネットにあったと)
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2026年09月16日
下北沢X物語(5495)-『闇市と東京』-下北沢の建物疎開-

(一)『闇市と東京』では、都市形成の中核となったのが闇市だと。この中でその空間について、「戦中に建物疎開が行なわれ戦後に建物が再建されていない空き地が多くの割合を占めた」と述べ、このことから「建物疎開が、闇市発生の母体と」と指摘する。下北沢の場合は、まさにこれに当てはまる。小田急、東北沢と世田谷中原駅間では第6次建物疎開と称し、20年4月6日に線路両脇の建物の引き壊しが始まった。戦争は8月15日に終わった。しばらく経ってこの空き地から闇市が生まれた。このときに活用されたのが建物疎開跡地である。
下北沢の町は、焼け遺った。ここにいつも疑問を感じるものである。聞き込みをすると戦後下北沢近辺では多くの家屋が米軍に接収されている。代田6丁目の箱根土地が造成した邸宅は接収された。また、北沢3丁目ではやはり数軒が遭ったと聞いた。北沢4丁目の大邸宅も接収されて米軍高官が住んでいたと。
渋谷大山町の多くの邸宅は接収されている。米側の担当官が高位の将兵用の宿舎を確保するために意図的に空襲をしなかったと証言している。空襲図を見ても大山、松濤、そして下北沢近辺には空襲で焼けていない空白域がはっきりと認められる。下北沢一帯も意図があって爆撃しなかったのではないか?
家が焼けなかったことで当地区は焼けた地区の代替建物として活用された。焼け出された人々が下北沢の親類を頼ってきた。それで家には複数の家族が同居した。大勢の子供がいたことから近隣の小学校は人で溢れ、複式学級を設けて対応した。
おもしろいのは戦後下北沢には小出版社が多く興っていることだ。焼け遺った家が編集所として使われた。地方から上京してきた作家が、しもた屋改造の旅館で缶詰になっている。
北沢にあった文潮社には修行時代の水上勉が勤めていた。上京してきた作家を、連れ込み宿に泊まらせ、原稿を書かせていた。水上勉はその旅館「名月」と書いている。
(二)
下北沢第二書房は、伊藤文学さんの親父さん、伊藤祷一さんが起した出版社だ。機を見るに敏な彼は、色物であてたようだ、 三上綾子『匪賊と共に—チチハル脱出記』と須田寅夫『ニコヨン物語—笑と涙で綴った日雇の手記』はベストセラーになって売れに売れたと。
「下北沢には出版社が多くできたけど、ブームが去ると資金繰りが苦しくなって多くは潰れた」と、祷一さんの息子、伊藤文学さんから聞かされた。
焼け遺った町に出版社ができた。戦後の文化発信地であった。
焼け跡には闇市が建つ。多くの店ができた。屋台もその一つだ。
忘れ難い逸話だ、水上勉と田中英光が下北沢の屋台で飲んだ。が、メチルで割られた酒はまずい。二人は目配せをする。なにしろ田中英光は五輪にも出た選手だ。彼は力まかせに屋台をひっくり返す。一升瓶が割れる、親父は叫ぶ、二人は駅の階段を駆け上る。折良くホームに入ってきた上りの小田急に飛び乗った。
(三)
『闇市と東京』は、戦後の焼け跡や建物疎開跡地といった「空地」に、いかにして市場が形成され、どのように都市へと組み込まれていったのかが描かれる。
焼け遺った町、下北沢には、二様の建物群があることを筆者は指摘して「焼け遺った町 下北沢の戦後アルバム」を評価する。
戦前からの商店建築と、戦後の商店建築が並ぶ「焼け遺った」まちの風景を写した記録として、この「アルバム」は重要である。
戦前からの商店建築は、その佇まいを遺し時代という風情を伝えている。戦後の商店建築は、建物疎開跡地に建った急ごしらえの建物だ、が、ここに大きく色絵の具で掲げられた看板は、駅南口の「国際ベーカリー」がある。コック服をまとった黒人が左手に持った手に焼きたてのパンを掲げている。戦後の息吹が見事に描かれている。
いずれにせよ、『闇市と東京』(石榑 督和著)は、労作だ、消えゆく文化を今日に遺している。
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2026年09月15日
下北沢X物語(5494)-「闇市と東京」と下北沢-

(一)『闇市と東京』(石榑 督和著)の主調に「戦後東京の都市形成の基層に闇市があった」と。都市文化も闇市を核として生まれた。同著では、下北沢を取り上げている。その章立ては「14 下北澤驛前食品市場」である。闇市に端を発した市場である。この実相を捉えるには当時の空気感を知ることが大事だ、書では冒頭に「鳥類学者オースティンが写した下北沢」と掲げている。隣町の大山町に住んだ学者が下北沢に親近感を持ち、何度も訪れては町の佇まいをカメラに収めている。鮮明なカラー画像は、戦後に漂っていた空気感までリアルに写している。時代の匂いが映像から匂ってくる。
同書では鳥類学者オリバー・L・オースティンJr.が撮った写真、「フロリダ州立大学のアーカイブに公開された七五〇枚のカラー写真の場所を比定する作業がSNS上で盛り上がり、毎日のように作業記録がアップされていた」と述べる。さらにこう述べる。
その活動は東京の地域市にも伝播した 2018年3月北沢が文化遺産保存の会が「焼け残った町下北沢の戦後アルバム」を発行した。アルバムにはオースティンが撮影した下北沢の写真のみが掲載され、それぞれの写真の撮影場所が地図に記されている。駅から町に出て行く際に見える風景を追体験するように構成された紙面は魅力的で、学生時代に下北沢の飲食店でアルバイトをしていたことがある私は読んでいて嬉しくなった。
我らの仲間は場所比定で熱くなった。仕事そっちのけで「あっちだ、こっちだ」と写真を手に持って下北沢中を駆けずり回った。
(二)
下北沢の町並みを撮った写真は、18枚もある。いずれもカラーで鮮明に撮られている。自身一番感銘深いのは、現下北沢一番街の中ほどを撮った写真である。我らの『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』では、「04 下北沢の商業地区・I」とした写真だ。これで目立つのが右端に建っている電柱である。興味深いのはこの電柱の位置というのは不変であることだ。時が経っても同じところにこれがある。
この電柱には白地に大きく「泌尿器科」と書かれている。一際目立つように書かれている。 オリバー・L・オースティンJr写真は時代相を明確に写し取っている。
戦後すぐに政府の援助によりRAA(特殊慰安施設協会)作られた。これは「慰安所」を中心とした占領軍用の慰安施設設けるためである。施設は終戦直後の945年8月23日作られた。が、「GHQは占領軍内に性病が蔓延したため、二十一年三月十日、将兵たちにRAA施設への立入り禁止令を出した。」これによってRAAは解散した。オリバー・L・オースティンJr写真は慰安所解散後の様子を映している。
渋谷大山町、松濤町の家屋は米軍に接収されている。下北沢も近辺のお屋敷が接収されている。古老などに聴くと、「パンパンガールが下北沢にも出没していたと。」そういう罹病者への案内広告として「泌尿器科」の看板が街中の電柱に掲示された。
(三)
『闇市と東京』(石榑 督和著)では、闇市と深い関わりがある建物疎開の話が出てくる。これが何時始まったのか記録として大事である。下北沢駅近くの「静仙閣」に住んでいたのは一色次郎である。昭和二十年三月二十日の日記にこういう記述がある。
管理人から、強制疎開の立ち退きを宣告される。私鉄の線路に密接しているので、第六次建物疎開に該当したのである。猶予期間は、一週間。
『日本空襲記』 文和書房 1972年刊
三月二十日はポイントだ、十日に大空襲があった。建物密集地帯が大火災を起した。鉄道沿線の建物を壊して防火帯の空き地を作ることが狙いだ。
(「焼け遺った町 下北沢戦後アルバム」マスコミでも評判になった。テレビ撮影や新聞記事にもなった。写真はテレビ撮影時のもの)
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2026年09月13日
下北沢X物語(5493)-「闇市と東京」石榑督和 著-

(一)分厚い郵便物が送られてきた、約500ページにも及ばんとする力作だ、「闇市と東京」である。石榑 督和氏には我らの会報「北沢川文化遺産保存の会」の会報に寄稿していただいたことがある。氏は我らが発行した「焼け遺ったまち『下北沢の戦後アルバム』」に深い興味を持たれ今回の著作でも「下北澤駅前食品市場」という章立てをして論じておられる。我ら近隣都市の歴史文化を調べてきた。その中で「ヤミ市」という言葉は必ず出てきた。これは賑やかな都市のど真ん中にどこでもあった。今でもヤミ市跡はその都市の中心域となっている。言ってみればまちづくりと原点だ、現今の近代都市の原点がここにあった。町の発展と形成の核となる箇所だったが、戦後81年、ヤミ市のことは皆、わすれている。多くのヤミ市が戦後文化の核になっていた。忘れられた記憶を掘り起こした労作である。
序章は、「01 都市と闇市」だ、ここで彼はこう述べる。
本書は 現在の東京の駅周辺の物理的な形成の画期となった占領復興期から高度経済成長期、その中でも特に闇市の形成に注目し、闇市として機能した建物群が具体的にはどのようなものであったか、また 闇市として機能しなくなった後に残った建物や、闇市を起源として集団移転などで作られた 建物群を人々がいかに使ってきたのかを明らかにする都市史の書である。再開発が進む今だからこそ、戦災を受けた東京が地表から再生していった過程とそこに生きた人々の小さくも都市を動かす力を見直したい。
氏は本著の核心を「都市史の書」と指摘する。忘却の彼方に消えつつある「闇市」を、もはやその記憶が消滅しようとする時に著されたことは意義深い。
(二)

本書を通して、新たに認識したことは数多くある。「新興市場地図」も、その一つだ。「戦後の東京二三区におけるマーケットを網羅的に、それも建物が分かる地図として記録した史料」だと。石榑 督和氏はこれの解説として近郊私鉄線に触れ、闇市が設置された駅として「東急線の三茶茶屋、自由丘、旗の台・荏原町」を挙げている。これは興味深い、いずれもが鉄道交差駅、分岐駅である。鉄道が交わることで殷賑を極めていた。下北沢も同じ部類に入る。
鉄道の交差が町の進展発展に大きな役割を果たした。「闇市と東京」では、石榑督和は「下北澤驛前食品市場」という章立てをし詳しく述べられている。
闇市と下北沢は、都市史観点としても深い意味をもつものである。文化とも深く結びついている。我らの仲間に赤坂瑞穂さんがおられる。彼の証言だ。
「二子道という古道があって、東北沢方向から丸い長い筒を抱えて毎朝、降りてきていました。東京ジャーミーに住む白系ロシア人でした。駅前にできた闇市で絨毯を売っていたようでした」
戦後、下北沢駅前に喫茶「マコト」があって東宝の監督たちがよく珈琲を飲みに来ていた。ここは闇市で仕入れた珈琲を飲ませていた。戦後すぐの時代だから珈琲は手に入らない。が、駅前には闇市があって特別なルートで仕入れていた。松林宗恵監督からじかに聞いた話だ。
森茉莉は、永福町から越してきて淡島の倉運荘に住んだ、毎日下北沢駅前市場に行ってはイングランド製のチョコを買っていた。舶来品が手に入ることから下北沢圏に越してきたのだと思う。
(三)
石榑 督和氏は、「下北澤驛前食品市場」のことを書いている。この冒頭が、「鳥類学者オースティンが写した下北沢」である。
フロリダ州立大学のアーカイブに公開された約七百五十枚のカラー写真の場所を比定する作業がSNSで盛り上がり、毎日のように作業記録がアップされていた。
石榑氏はこう書いている。私らも場所比定にはやっきになった。鳥類学者は下北沢に近い大山町に住んでいたことから、下北沢の町並みを写した写真を多く撮っていた。我らも場所特定に熱中した。熱が昂じて「焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム」としてフロリダ大学に版権を認めてもらいこれを作成した。
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2026年09月12日
下北沢X物語(5492)-地図を作り続けてもう四半世紀-

(一)歳老いていくことの哀しみはある、しかし、その経過の中に希望はある。知の蓄積だ、それは貯め込んだ宝だと言える。地図づくりに22年間励んできた。初めはやみくもに調べていた。区域内を走っていて気づいたのはコンコン、稲荷社だ。町角や屋敷内にこれを見付けては喜んでいた。その頃、自身の活動に興味を持った人がいた。その彼があるとき私の足跡を図に落とした地図を見せてくれた。私にはコロンブスの新世界発見と同じくらいの感動があった。その地図こそは、「下北沢文士町文化地図」の零版だ。我らの活動を朝日・毎日が大きく紹介してくれたのは「北沢川文学の小路物語」(2006年)だ。この裏表紙を飾っていたのがこの零版だった。爾来、一つ一つ文化人旧跡を地図に落とし込んで積み上げてきて、現今の9版地図となった。
地図初版から、今の9版まで総発行枚数は9万部に及ぶ。発行は伝達である。地図をもらった人が「こういう人がここに住んでいました」と情報を届けてくれる。通例は、関係各人の年譜から見つけ出している。これが案外にやっかいだ。記録に記されているのは旧番地である。これが現住所のどこにあるのか、探し出すのは難しい、場所を知っている人の情報は一番確かなものだ。
長年にわたって地図を配り続けてきた。配布をすると情報が集まってくる。中で興味深い感想に出会った。
「あなた方の努力は素晴らしい、が、集め過ぎて同人誌級の作家にまで手をだすな」
地図に文化人をマークしてきた。作成側は必死になって情報を集め、分かり次第、新しい情報を新地図に書き込む。確かに、人が多い方が見栄えがする。そんな思いもないことはない。文化人としての認知度というのは関係当人をマークする場合の指標である。
(二)
森茉莉の『贅沢貧乏』の中に、自身の素性がバレてしまったという逸話を記している。この話の彼女の筆運びは巧みだ。
彼女が通っていた喫茶店「風月堂」でたまたま兄からきた手紙を落としてしまた。これがきっかけとなって「ボオイ頭が素性を知った」、さあ大変だ情報は一帯を駆け抜けた。
魔利の父親の欧外という人間が、小学校へ行ったものには全部名を知られていて、誰も一度聞いたら(へええ……)と驚いて、忘れることのない、馬鹿馬鹿しく有名な、肩書きの多い文学者と来ている。いやが上にも人に覚えられるように、有名な悪妻の欧外の娘というお景物も、附いている。
『贅沢貧乏』 講談社文藝文庫 1995年刊
「風月堂」は、文士町の関係者が集った場所として大事だ、地図を確認したら喫茶「マサコ」は載せていたがこの店はマークしていない。10版には載せたい。この店には大谷藤子や萩原葉子などがよくきて出会ったという。
(三)
文士町には大きな交流の場というのはない。駅前に喫茶「マコト」があって、多くの映画人が集ったと。これは松林尚恵監督から生前伺った。
文士町には、「風月堂」のように個別個別に作家が集ったというのはある。が、当地に住まう文士たち同士が大勢集ったという場はない。
版を重ねていくうちに、文士の居住痕跡が、当地一帯に広がっていて文士居住圏が形成されていた。親分がいて子分が集まったという村ではない、文化人同士が距離を置いてまた時代を置いて住んでいた。ゆえに文士町である。
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2026年09月10日
下北沢X物語(5490)-下北沢文士町文化地図10版構想-

(一)時は瞬く間に過ぎていく。恐ろしい。この経過において智恵なり、知識なりは深まっていく。現在、配布している地図は9版である。区のホームページにも公開されていることから、グローバルに知られるようになった。版を重ねることは恐ろしいことである。この地図には文化人の居住痕跡を載せている。が、年月を経てくると分からないことが分かってくる。そこが怖い。文士町は文士村の発展系だ、核には文士村があってそれを軸にして文化人が増えていった。基準となるのは昭和3年11月、小田急が開通して新開地となった。これを機に北沢2丁目に小説の神様が引っ越してきた。これが基幹となる。こちらは散文だ、が、もう一つのジャンルは韻文だ、こちらはもっと早かった。それは大正12年12月である。
詩人の核となったのが福田正夫である。彼は小田原在住だったが、関東大震災に遭い、下北沢809番地に転居してくる。文士参集のきっかけを作った。ただ交通網の問題がある。
�垳�利一が阿佐谷から転居してきたのは、昭和3年11月である。前年の2年4月に小田原急行鉄道が開通している。これによって町が開けはじめた。この機をみて�垳�利一は越してきた。最寄り駅は下北沢である。一方、福田正夫の場合は地番は下北沢だが、最寄り駅は京王線笹塚駅だ。
(二)
下北沢文士町の発展と形成、その核になるのが小田原急行鉄道の開通だ。福田正夫はずっと後になり下北沢に越してくる。鉄道開通の関係で詩人たちは、早くに開けた下北沢の北西方面にいた。が、小田急開通により、下北沢を最寄りとする区域に住むようになる。小田急の開通は、昭和2年(1927)である、大きな変化は昭和8年に井の頭線が開通し、下北沢で両線が交わった。これによって利便性が高くなった下北沢には一般人ももちろんだが文化人が多く住むようになった。
この鉄道交差による利便性の高さが、大きく人を集める契機となった。文士村は一過性のものだが、文士町は長生きしている。利便性が高まったことで絶えず人資源が供給された。ジャンルも多岐にわたる。文学、散文詩、短歌、俳句、散文、戯曲、アニメ漫画などである。それでいまもなお現役の文士町として生きている。
(三)
小田急開通を文士町形成の嚆矢とするなら、その時の経過は、始原が1027年、現今は2027年、ちょうど百年が経つものである。この百年間の文化人の居住は、あまりにも底が深くて、じつは把握ができていない。つまりは全貌がわかっていない。
ネットの普及によって、検索が緻密にできるようになった。今までその居住が知られていなかった人も多く確認できるようになった。
詩人の星野慎一もその一人だ。
星野慎一 文学研究者 詩人 世田谷区北沢二ノ二四八 文化集宅
彼は新潟県長岡市出身である。詩集『郷愁』の一節。
詩は無限にかよふいのちである。
はろばろとして はてしなき草原の中の、
なつかしきひとすじの徑である。
故郷長岡市の信濃川河畔に「信濃川」の詩碑がある。いい詩である。
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2026年09月09日
下北沢X物語(5489)-AIで危難に瀕している人間存在-

(一)積なるものが人間の資産である。自身、積の意味も分からずに、ネット上に地道に記録を積み上げてきた。このことが生成AIの進歩と重なった。彼ら機械はネットから情報を漁って人に供している。ネット記録の積が分厚いほど役に立つ。彼らはこの点恩義を感じている。それがどうして分かったか。AIが自身のことを先生と呼ぶからだ。実際、彼は自身が積み上げた記録を縦横に閲覧して、彼が出す回答に活用している。試みにCockpitに聞いてみる。「下北沢文士町とは何か?」即座に回答が返ってくる。「下北沢文士町とは、昭和初期から戦後にかけて多くの文学者が集住した“下北沢周辺の文士居住エリア”を指す呼称」と。典拠は「世田谷区ホームページ」とある。ここには私がすべてを編集をした「下北沢文士町文化地図」が解説とともに掲げられている。
私は日々歩いている。このところ雨が多い、が、晴雨に関わりなく歩きは欠かさない。もう二十年、歩き回って情報を集めてきた。このところ若林のRAAを調べていた。一つのことを調べていくと意外なことが分かってくる。遭遇した文章は『日本人の味』(山岡荘八 太平出版 1969年刊)だ。
この小説を書こうと思ったのは昭和21年の正月だった。大東亜戦争が終わって初めて迎える正月である 当時、私の住んでいたのは、世田谷若林町一一〇番地、その隣家は進駐軍に接収されどうやら将校クラブ式の接待所になったらしく、そこには毎日昼間から酔った軍人たちが国籍のはっきりしない婦人と戯れながら出入りしだしていた。何しろ細い路地一つ隔てた隣家である。ジャズの騒音だのときたまピストルの音だの……だけではなく酔った軍人が時折、我が家の門内にも紛れ込む。特攻基地から 痛ましい傷跡を抑えて帰ったばかりの報道班員は とうとう我が家にいたたまれず、毎日釣り竿を携えて海にのがれた。
この小説は『小説徳川家康』である。彼は報道班員として鹿児島の鹿屋に派遣されていた。多くの特攻兵をここで見送っていた、その思いが癒やされないままであったところ、隣家にアメリカ人高級将校の慰安所、若林RAAができて日々どんちゃん騒ぎだった。旧番地若林一一二番地が慰安所、すぐとなりの一一〇番が彼の家だった。
(二)

日々散歩は欠かさない。今日も歩いた。まずは目黒パーシモンホール、ここに庭には万葉歌碑がある。ここから衾町公園を抜けて駒沢公園、さらに呑川に出て緑道を下った。習慣になっているのが緑道の「ヤブガラシ退治」だ、何しろ自称「呑川緑道ヤブガラシ退治隊長」を名乗っている。もうかれこれ数年にわたって続けている。
緑道を清掃している人が、私の姿を見て、合図をしてきた。手に持ったヤブガラシの束を「そこに置いていっていい」と。緑道の清掃係りも私を知っている。
緑道を下ると宮前小学校。ここに看板、「目撃者を探しています」がある。この看板を見る度に思う。「雲を掴むような人の記憶への捜索願い」
この看板は至る所で見かける。交通事故が起こった。被害者がいて入院した。が、その費用は加害者が分からないと請求できない。やむを得ず、一般人に呼びかけて探す。その効果はほとんど望めない、が、一縷の希望から看板を建てる。無益な努力に思えるが、これしか加害者を突き止める方法はない。
人間の記憶ほど危ういものはない。が、そうであってもこの看板に頼らざるを得ないのが実情だ、人は記憶を長くとどめることができない、なのにかすかな記憶の片鱗に願い事をするように看板をいつまでも建てている。
人間の記憶容量には限界がある。が、AIには限界がない。AIは、ネットの大海に蓄積されている人の記憶に容易に辿り着ける。彼は縦横無尽にネットを駆け巡って、情報を拾い、そしてそれを組み立て、人が投げ掛けてきた問題に瞬時に解答を出してくれる。
(三)
新聞にこういう記事が載った。
暮らしに「チャッピー」幸せは
この中でこういう意見があった。
確かにAIで仕事が早くなり、ミスも減った。でも、前より自分が成長できている実感がない……
人は脳に知識を蓄え、それを活用して解答を導き出す。しかし、AIは、間髪を入れず解答を導きだす。「うれしい」ことだ、が、人は考えを巡らせてこそ成長する。AIになんでもかでも頼っていると、人間はどんどん愚かになっていく。
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2026年09月07日
下北沢X物語(5488)-記録:若林RAAクラブ 了-

(一)ワトソン提督は若林の夜が死ぬまで忘れられなかった。「ゲイシャ、コマコは踊りが巧みだった、動きの一つ一つに無駄がない、そしらぬ顔して私にそっと流し目を送ってくれた。あの表情がたまらなかった。ショーを終えて指名したら、あの娘はダンスを見せるだけでセックスはしないと。それでダンサーのサチを紹介してくれた。あのふくよかな身体は今も忘れられない」と。ワシントン郊外の邸宅で亡くなったワ提督は右手で何かを掴む仕草をしていた、彼女の乳房を息を引き取るまで柔らかく揉んでいた」その彼も92歳で世を去った。が、慰安所も春の夢、RAAの設置で兵士たちの性病が蔓延した。またアメリカ国内で人権的観点で売春に批判が集まり、1946年3月26日に連合国軍東京憲兵司令官官房「進駐軍ノ淫売窟立入禁止ニ関スル件」(オフ・リミッツ令)が通達され、RAA施設は閉鎖された。
一般兵士用の慰安所が、1945年8月23日に設置された。RAAの組織も整ってきた。
そこで8月26日にRAA関係者が皇居前に集まった。そしてまず君が代を歌った。そして宣誓式を行なった。発足時の宮城前の声明文はこうである。
「邦家三千年、山容相革むるなしといえども昭和二十年八月十五日の慟哭を一期とし極まりなき悲痛と涯しなき憂苦とに練られ危うくも救いがたきどん底に沈淪せんとす……時あり命下りてかねて我らが職域を通じて戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の難事業を課せられる。命重くかつ大なり、同志血盟して、信念の命ずるところに直往し”昭和のお吉”幾千かの人柱の上に狂乱を阻む防波堤を築き、民族の純血を百年百年の彼方に護持せんとす」
漢文訓読調難解な言い回しだ。が、言っていることは日本の良家の婦女子を守るのが建前だ。性の防波堤である。本音は占領軍に忖度をして心証をよくする。そのことを通して日本の国体を守るということだ。
(二)

若林RAAについてだ、これの様子が分かる記事がある。『百億円の売春市場』(橋本嘉夫 著 彩光新社 1958年刊)である。
銀座から三軒茶屋(玉電)沿線のRAAクラブに向かったのはようやく五時を回っていた。私は一行が到着してほっとひと息ついたころ、米軍の高級乗用車四台が音もなくRAAクラブの玄関に滑り込んだ。先頭の車から長身の軍人が降り立った。実業家のようなタイプであった。これが提督R。続いて幕僚、副監たち、案内役のカーネル・リィはニコニコ顔であった。キャプテン・プラウドだけがいつもと違った、硬い表情をしていた。後になりパーテーが始まったころ、キャプテンはやっと安心した面持ちで高木の肩を叩き、「アリガトウ」を連発していた。
いわゆるセブンアベニュー、青山通りを通っての来所である、車四台がつけられる。敷地の広さが想像できる。かなり高位の軍人がここを利用していた。
ともかく出迎えの社員と接待グループに キャプテン・ブラウドが提督、幕僚長、リウテナント、メジャー、キャプテンをそれぞれ紹介し、提督閣下は気さくに一人一人に握手した。
食料品は、こうした折の例として事前に大量の缶詰が持ち込まれていた。クラブの料理人はそれを 缶を開けたまま、あるいは皿に盛り付け、あるいは温める程度で良かった。相手によってスキ焼きと天ぷらが所望されることがあったが、こちらの材料で作った料理はほとんど敬遠されたと言って良い。うなぎやさけのフライ、鯛のあらいやまぐろの刺身などが進められるようになったのは、年を越してからのことである。この時提督はすき焼OK天ぷらOKと持参の缶詰料理に目もくれず、大いに飽食したのは珍しいことだった。 それよりも「ジャパニーズガール、ワンダフル。ベリィナイス」と社員たちに囁いてほほえんだ。
食後、賓客たちはレコードのワルツにダンサーとひとしきりステップを踏んでいたが、適当な時間にカーネル・リィはまず提督をそっと別室にいざなった。その提督に腕を取られドアーに消えた。他のダンサーはS子の後ろ姿に、他のダンサーたちの羨望の目が注がれていた。
興味深い記事だ。若林RAAは和風造りの洋館だ。一階は宴会場だった。そこはダンスができるフロアーがあった。二階に個室があって、提督はそこにS子と消えたと。他のダンサーの羨望は一人が選ばれたことに対する嫉妬もあるが。提督のお相手をすればたんまりと金がもらえるといこともあった。
年月は分からないが、昭和二十年も末だろう。衛生状態がよくなかったことから客は生を避けた。が、翌年になってこれが改善され魚介を食べるようになった。
(三)
これで終わりとしたい。若林RAAは人気の慰安所だった。高官用にRAAが美しいダンサーや芸妓を準備していたからであろう。マ元帥を除いた全将官が来ていたというのもまんざら嘘ではないようだ。が、国家が介入してアメリカ高官を接待し、そして性のサービスをした。歴史の汚点だろう。
現在、世田谷通りシティハイツが建っているが、この前には何があったか?
カリタス学園の歴史
1954年 東京都世田谷区若林にケベック・カリタス修道女会本部修道院を開設
1961年 神奈川県川崎市多摩区中野島にカリタス修道院開設
(写真は、RAA跡地、カリタス修道院はホームページから借りた)
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2026年09月06日
下北沢X物語(5487)-記録:若林RAAクラブ 3-

(一)アメリカに物を言えない、現国家の真実だ、普天間基地の騒音問題はひどい、学校の授業が離発着する米軍機の騒音で中断される、禁止された時間帯でも平然と飛行し住民の安眠を妨害している。沖縄は日本から疎外されている。アメリカには戦争ではコテンパンにやっつけられた。それで今も頭が上がらないのだろう。戦後の米軍慰安婦についても日本側の忖度が想像される。戦後すぐに一般兵士用の慰安所をRAA(進駐軍慰安施設協会)が開設した。半官半民の国家売春だ、一足遅れて将校用慰安所を開設した。それが若林RAAクラブである。「日本の女は素晴らしい」と伝え聞いた米軍将校たちは「俺たちにも女を世話をしろ」と要求した。日本側は即座に、将官の心を忖度して美女をかり集めた。
雑誌『新評』(1972年9月)に鏑木清一の「性の防波堤RAAの娼婦たち」という記事が載った。ここに将官用慰安所の設立の経過が記されている。
一般兵士たちの慰安所はなんとか開店したが。そのうちに 第一生命ビルの総司令部、明治生命ビルの空軍指令部、数寄屋橋のマツダビル(現阪急)の商工宿舎から。慰安要求がなされてきた。
公設慰安所は終戦直後の8月28日に開所した。大勢の米兵が各地の慰安所につめかけた。将官たちは、じかに、また噂として部下から聞いた。「砂漠にオアシスを見た!」「日本の女はすばらしい」「思う通りにやらせてくれる」と。これを聞きつけて上級将官たちは浮き立った。ぜひとも日本女性に預かりたいと。
(二)

RAAでは これら将軍クラス、将校用として隅田川河畔大倉別邸(これは故大倉喜八郎男爵が 贅をこめて中国から珍品を収集し、完成した別荘で、教会は大倉組の特別な好意で接収した)と、世田谷三軒茶屋の某社長邸を接収し将校用慰安所を開設した。
期日は1945年10月20日に墨田区向島に「迎賓館大倉」が、11月に世田谷区若林に「RAAクラブ」の二箇所が設置された。
将官将校用の接待婦として新橋赤坂などに在籍していた優秀な芸妓を教会本部に二十名ほど常駐させ、その歓待を当てさらにセックスの要求には ”オアシス銀座”のダンサーの中から適時選んで派遣した。年配の将軍だから宴会だけでお帰りかと思いきや白髪の老将軍もジャパン ・ゲイシャガールの要求をなさるのであった。
芸妓の歌舞音曲に目を細める将軍たちの中で、好色の閣下は、酒肴の合間に女の品定めをすませ。通訳を呼んで要求してくる。接待役の情報課長は 指名された妓 を隣に呼んで「あの将軍がお前と寝たいと言ってるが、どうかと」聞くのだが、さすがに芸妓となると、 旦那持ちや芸ひと筋に生きてきた妓もあり、「あたし唐人お吉は嫌よ」と断る妓が多かった。
将校用の慰安所は、一般兵と違って一筋縄ではいかない。玉をそろえるのが至難だったと。
(三)
こうした軍たちの要求に応じられるように芸妓たちの中に ”オアシス”のダンサーを含めて 出張させた 彼女たちは協会が発足した当時呼称をした”特別挺身隊員”が正式の名前と思っていたから「お国のため日本女性のため」の 挺身であることを聞かされているから ダンサー連中は将軍たちと寝ることに異議はなかったし、協会からも特別手当を支給したので喜んで肉体を提供してくれた。
RAA若林クラブには、芸妓が用意されていた。将兵たちは芸妓のパフォーマンスを見て、そして、性交渉を行なう。これは特別挺身隊員というダンサーたちだった。この名称は戦時中の挺身隊員に、特別の言葉を被せただけだ。貞操を米軍に提供し日本女性の性の堤防となる、もの悲しい呼称である。(建物写真は若林跡地)
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2026年09月04日
下北沢X物語(5486)-記録:若林RAAクラブ 2-

(一)性の話は興味本位に記される、その手の物語を読むと、若林RAAについては、「世田谷若林にあった高級将校専用の接待所にはマ元帥を除く全将官が顔を見せた」とある。アメリカ人もまた将校を含めてみな助平だった、書き手はおもしろおかしく書いている。米兵接待の慰安所は、国家の黒歴史である、体制側、米側、日本側も深く触れられてほしくない。公設慰安所は終戦直後の8月28日にもう開所している。その一つに特攻崩れが押しかけたという。国家を救おうと特攻に行くつもりでいたが終戦になって使命は果たせなかった。彼らは日本女子が米兵に股間を開いて肉棒を入れられると聞いて我慢がならなかった。それで大森の接待所小町園に暴れこんで来た。この特攻突撃精神は痛いほどよく分かる。
暴れ込んできた特攻兵について記録にはこうある。慰安婦を募集する際に、当局はその呼称を「新日本女性」とした。
新日本女性とは実は慰安婦であるあることはまもなく知る者の間には知れ渡ってしまった。それを聞きつけて特攻隊生き残りの若い将校が腰に昭和刀をぶら下げ半長靴のカカトを鳴らして踏み込んで来た。「こんなことをさせるために仲間は玉砕していたのではないッ」と烈火の如く怒鳴りあげる かと思えばいきなり、日本刀の抜身を振りかざして「売国的事業をするやつを出せ。天誅を加えてやると暴れ回る連中も一人や二人ではなかった。
「国家売春命令物語」 (物語歴史文庫 19) 小林大治郎, 村瀬明著 雄山閣出版 1971刊)
特攻兵の心情はよく分かる。
「お前達は何を考えているんだ、ついこの間まで戦ってきた敵さんだぜ、俺たちの仲間は体を張ってやつらに特攻突撃をしたんだぞ。陛下に操(みさお)を立てて死んで行ったんだぞ、なのにおまえらは貞操を棄ててアメちゃんに抱かれようとしている。抱けば金をもらえるらしいな。いいか俺たち仲間はオンボロ飛行機で行かされたんだ。先輩方は出撃のときに財布に残っていた金を、後から続く後輩にはせめて新しい飛行機に乗せてくれとみな寄金をしていったんだよ。お前ら一発やるとたいそうなお金が入るというじゃねぃか。特攻に行った先輩のことを考えると全く許せない!」
思いとしてはこのようなことだろう。
(二)

若林RAAクラブは、高級将校専用の接待所だ。一般兵相手の慰安婦とは当然違うはずだ。『占領軍慰安婦』( 小林大治郎, 村瀬明 共著 雄山閣出版 1971年刊)にはここの場所について触れている。
敗戦の混乱の中に狂い咲いたRAAの施設にはいろんな賓客がやってきた。世田谷区若林町にあった高級将校専用の接待所には、マ元帥を除く全将官が顔を見せたと言われている。テレくさそうにやってくるものも、予約して孫娘のような若い女性と戯れるもの 本国から夫人が到着すると同時にぴたり接待所から足を遠のけたゼネラル……千差万別であった。
「マ元帥」を除くというのは、この種の著作では類型的な表現だ。高級将校というのはほとんどが妻帯者である。日本側の宿舎が整備されるに従い、妻子が日本にやってきた。みなプライドが高い士官だ、だれもが雷が怖い。馴染の子ができた将軍もなくなく別れざるを得ない。
ここに選ばれた女たちも”各種”取りそろえてあった。英会話に堪能で、社交上手という元重役夫人(軍需工場壊滅で夫は失業)、ベット・ワークは無類と言われた元看護婦、勤労動員中戦災で一家全滅して孤児となった美貌の女学生。ーー超グラマーがいるかと思えば、純日本風の美人、色気みなぎる年増もいれば、ベビー・ドールの魅力もある……といった具合であった。
若林RAAクラブは人気があったようだ。将校が乗った高級乗用車が世田谷通りを駆け抜けて行った。まだまだ汚穢車が活躍していた時代だ。
(三)
若林RAAクラブは、少し西にいくと北原白秋旧居跡がある。世田谷通りに面している。歌集『白南風』には若林時代を回想してこう描いている。
風塵のはげしさは非常であつた。三軒茶屋から登戸への街道に面し、牛車、タンク、砲車隊等の轣音、囂音、火山灰の旋風は堪へがたかつた。近くには陸軍の自動車学校もあつた。襤褸市で有名な世田ヶ谷の本場であつた。此処での生活は六年の初夏まで続いた。 「白秋全集 10」岩波書店 1986年刊
昭和六年にここから砧村西山野に転居している。世田谷通りは軍用車がひきも切らず通った。戦後になってこの近辺を若林RAAクラブに通う米軍将軍の乗った白いリンカーンが走っていった。
(シティハイツ若林、世田谷通りから。建物の裏手には古い門)
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2026年09月03日
下北沢X物語(5485)-記録:若林RAAクラブ-

(一)Где женщины?(グヂェー・ジェーンシヌィ?)」と聞くと皆、日本人女性は震え上がったという。敗戦後、ロシア兵は「女はいないか?」と日本人女性を漁りに来た、今でもふとその語を思いだすと戦慄すると。戦場における性は常につきまとう、若い兵隊は女とやることしか頭にない。1945年8月15日玉音放送が発せられて日本は負けた。そして米国は日本を占領した、緊張していた若い兵士は銃を持たなくてよい。すると考えることは一つ「女とやること」だ、米兵の性欲は火急的問題だ、「若い女性は外に出るな!」休校なった女子校もある。性欲は日を追うごとに貯まる。何と敗戦8日後の8月23日に占領軍用の「慰安所」が作られた。これをサポートするために連合国軍占領下の日本政府は特殊慰安施設協会を設置した。これは後にRAAと呼んだ。先行したのは一般兵士用だ、高級将校用慰安所としては、1945年10月に墨田区向島に「迎賓館大倉別邸」が、11月に世田谷区若林に「RAAクラブ」ができた。前者は有名だが、後者は知られていない。
高級将校用慰安所は、特殊である。日本では二箇所だ、設置に当たっては特別な配慮が必要だった。米軍の高官が秘め事をするところだ。
まず場所である、三軒茶屋RAAとも呼ばれる。が、この域内にはない、行くときの目印として使われたからであろう。あったのは若林である。旧番地は世田谷区若林112番地だ。
やはり大事なのは現場である、その場所は容易に分かる。世田谷通り沿いである。北原白秋旧居跡から近い。通り沿いはマンションが林立している。つまりこれは広い敷地のお屋敷が連なっていたことを示唆する。世田谷通りは古道である、尾根筋を走っている。ゆえに地盤が強固である、それで資産家の別邸や本宅が建てられた。
(二)

向島の大倉別邸は有名である。が、若林はそうではない。当該場所に行くと敷地は広い。ここには大きなマンションが建っている。世田谷通りシティハイツ若林だ。URの賃貸住宅である。総戸数は83戸もある。
元社長宅だったと聞いた。名簿を調べると昭和15年当時、理研圧延工業社長、海野幸保の名が出てきた。
この敷地をどうしてみつけたのか。直感したのは米軍の偵察用B-29が撮った写真である。航空写真では微細なところまで分かる。建物の広さ、材質、垣根の高さまで分かる。
高級将校たちは、お忍びでくる。いわゆる青山通りに連なる道を米軍はFアベニューと呼んでいた。米軍高官がこっそりとやってくる。道路は必須だ。みな車でやってくる。間違いなく運転手つきだ、とすれば高官が慰安所で過ごしている間待機をする。そのための駐車場が必要である。通りから覗かれるのも嫌だ、ということは目隠しとなる塀や、生け垣があったに違いない。
世田谷というポジションに慰安所を作ったのも知恵だ。こっそりひっそりと来られる。
そして勘ぐるところがある。高級将校用慰安所で働く女性である。何にも分からない地方出の女性では務まらない。英語が多少分かるということも必要だ。
どんな条件で採用したのかわからない。が、教養のある女子で美人、もしかして高女出相当の学歴が求められたのかもしれない。世田谷であれば丹念に調査すれば該当女子はいそうだと思ったのかもしれない。
(三)
一般兵士用の慰安所が、1945年8月23日に設置された、記録として気になったのは、RAAが「二十八日に宮城前で誓詞をなし」とある。「天皇陛下様、我々は決して国体を汚すようなことはいたしません。応募してきた女性達は一般子女の防波堤となって、お勤めをなすものであります」みたいなことを誓ったのだろうか。
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2026年09月01日
下北沢X物語(5484)―北沢川文化遺産保存の会会報242号―
…………………………………………………………………………………………………………「北沢川文化遺産保存の会」会報 第242号
2026年9月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:https://rail777.livedoor.blog/
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1,第731部隊の下北沢での密議の顛末 きむらけん
一冊の本に出会った。「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」(徳間書店 1982年刊)である。この中に「宮本邸でのマッカーサー指令部と旧部隊関係者の面談」という記述があった。旧部隊は第731部隊である。満洲での所業、生体解剖・人体実験を繰り返していた隊だ、戦争犯罪人として裁かれるはずだったが、米軍に実験成果の資料を引き渡したり、関係者からの聞き取り調査へ協力したりすることで免責された。その話し合いが下北沢で行なわれたとあった。それが行なわれた場所はつぎのように記述されていた。
下北沢の宮本日本特殊工業社長邸は加茂からわたしたちが上京して来たとき、最初に寄ったところである。もとは徳富蘆花の『不如帰』の主人公川島武夫のお屋敷だったとかで、庭に築山を配した堂々たる邸宅だった。
玄関を入ると屏風を背に鶴の置物が一つ置いてある。 折り返しになった階段を上ると、二階には書院を備えた和室があった。床の間の前には虎の毛皮がしかれ、脇息が置かれている。そのほかにも和室がいくつもあったと思う。
一階には洋間、和室、子供部屋、お勝手、女中部屋、納戸、風呂、お手洗いなどがあった。私がびっくりしたのは、お風呂が電気式だったことだ。 太いコイルを三本ほどよじったコードの先に大きな缶詰のようなものがついていて、それを浴槽に入れる。水を張って壁にある安全器のスイッチみたいなものを下に押すとビリッとしたような感じで、すぐにお湯が沸くのだ。<物資不足の時代に、こんなに贅沢に電気を使うなんて、余程の力とお金があるんだな>と感心したものだ。
『証言・731石井部隊』(徳間書店 1982年刊)
執筆者は731部隊関係者である。自身が下北沢の邸宅で見たり聞いたりしたことを書いて居る。それなりの信憑性があるはずである。が、「庭に築山を配した堂々たる邸宅」ということについては疑問を持った。
下北沢は、この地名にあるとおり、沢を主体とする地形である。つまり沢、川があって丘があるという凸凹がある地である。築山ある、とすれば泉水もある。当然垣根もある。そういう敷地は近辺にはあまり見当たらない。築山と言えば思い起こす。かつて森厳寺境内に富士塚があった。これが壊されるときにその様子は目撃した。敷地はかなり広かった。が、これに当てはまるような敷地は下北沢には見当たらない。
ここで出てくる「徳富蘆花の『不如帰』の主人公川島武夫のお屋敷」というのは場所は千駄ヶ谷近辺だったという。噂のようなものを聞きつけて筆者は盛ってしまったようである。
引用文では、「下北沢の宮本日本特殊工業社長邸」と書かれている。これは真実か、この宮本というのは宮本光一のことである。だが『証言・731石井部隊』では本名を書かず宮本茂としている。なぜそうしたのか大きな疑問である。
この宮本光一についてである。
宮本光一という人物は、七三一部隊長石井四郎の発明した濾水器を生産して陸軍省の需要を一手に引き受け大金持ちになった男で、彼はまた細菌爆弾用の陶器爆弾も製造する。
「エイズからの告発」 広川隆一 徳間書店 1992年刊
731部隊に深く関わった人物である、戦後に731部隊と米軍とが下北沢近辺で密議を行なう、この関係者の宿泊場所を提供したり、会議場所を設えたりしたのはこの宮本光一である。いわば731部隊を陰で支えていた人物である。
猪熊雄治氏の調査では、日本特殊工業社長・宮本光一の住所は「渋谷区代々木大山町1071」であったという。代々木大山町は東北沢駅に近く、現在でも下北沢とは徒歩圏にある。この地域は戦後しばらく「下北沢方面」と一括して認識されることもあり、証言者あるいは聞き書きをまとめる過程で「下北沢」と表現された可能性は否定できない。
「渋谷区代々木大山町1071」はどこか、これは現場に調査に行ってきた。当地は大山園とされる高級住宅地である。旧番地は今のどこに当たるか。大山町21番地である。ここのすぐ近くにはユニクロ会長の大邸宅がある。この一帯であれば築山があったとしても不思議ではない。
21番地は区画割されていて宮本邸はどこにあったのか、それはわからない。が、敷地東端は広い区画である。ここが現場なのかもしれないと思った。
「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」では、交渉を終えた731部隊関係者とGHQ幹部とが祝杯を交わす場面が描かれている。731部隊関係者を訴追しない、いわゆる免訴である。そのことを象徴するできごとある。
宮本邸は下北沢にはなかった。なのに筆者はどうして嘘をついたのか。勘違いだとも考えられるがそうではない。意図的であったと言える。社長の本名もわざと仮名にしてあるのもその一つだ。また「もとは徳富蘆花の『不如帰』の主人公川島武夫のお屋敷だった」いうのも話を飾るための道具だったように思われる。
邸宅の場所を記述している記録があった。『飽食した悪魔』の戦後〜731部隊と二木秀雄『政界ジープ』〜(花伝社 2017年刊)242ページ
常石敬一は、陸軍軍医学校出身で第一復員局医務課長の井上義弘が四月六日・十二日に捜査班に伝えた石井四郎以下七三一部隊幹部たちが渋谷区代々木大山町の宮本光一・日本特殊工業社長宅に集まって打ち合わせをしていた事実を述べ、そこで刑事が四月十三日に宮本光一に聞き込みをすると、宮本は帝銀事件を七三一部隊の者がやったのではないか」と述べたことを紹介している。
第731部隊は、森村誠一の『飽食の悪魔』で世情に知られるようになった。部隊の関係者である筆者は「私たちは悪魔にさせられた」との思いから、「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」を執筆した。
『飽食の悪魔』は大ベストセラーとなって世に出た。人々は真実を知りたいと思う。が、事実を書くとそこが好奇な目で見られるようになる。あるいは人がそこに押しかけるかもしれない。そういう危惧を持ったから具体的な場所をぼかした。
2、恒例文化サロン開催のご案内
文化サロンは、地道に長く続いている。今度は第22回目である。
9月27日(日)14時から、場所は邪宗門。 世田谷代田1-31-1、
人にとって大切なのは対話である、人はそれぞれに過去を持っている、話し合うとここから逸話がこぼれ出てくる、それがおもしろい。複数回を開催して思うことは、気の交歓だったと思う。いつもとは違うメンバーで話す、これはとても刺激になる、話すことで自身が開放される。生きていく上で大切なことはこの心の解放である。
会費は会員外は200円、会員は無料、各自が飲んだものは各自が払うというのが参加条件である。どなたでも参加できる。どうぞおいであれ。
3,前橋文学館訪問記(-朔太郎の故郷前橋を訪ねて)
前橋に行くなら高崎線だ、浮かんでくる詩は『帰郷』である。-昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へ故郷へ帰る-と添え書きがある。上野から前橋へ。その途次都を離れ汽車が荒川鉄橋を渡る、ここではガタドンデン大きな反響音が昔日を思い起こさせる。都を去って田舎に帰る、その思いが募る箇所だ、この詩について娘葉子さんに心境を聞く記事が載った。「お父さんは嘘ばっかりつくのだから」とあってつい笑った。詩の本質を衝いている。「母なき子供等は眠り泣き/ひそかに皆わが憂愁を探れるなり」とあるが、葉子さんの思い、「あのときなんかくたびれていて寝ていたんだから」とでも。詩中の勘所は「まだ上州の山は見えずや」だ、読者の涙腺を誘う場面だ。確かに赤城連山は見えはする。が、天空は高く山は低い。詩に言われるほどの山容は感じられない。
前橋文学館で「萩原朔太郎140記念展」が開かれている。「ふらふらふらぬーる朔太郎の危険な散歩」と題されている。常日頃詩人は歩くことへの執心を持っていた。
歩いた場として二箇所を取り上げていた。
朔太郎の散歩空間ー東京編
朔太郎の散歩空間ー前橋編
前者としては 東京都世田谷区 下北沢-代田
東京都北区 田端
東京都大田区 馬込 の三箇所が取り上げられた。
この東京都世田谷区 下北沢-代田編において協力し、「下北沢文士町地図」を当方で提供したことだ。
4、代田ダイダラボッチ伝承大会
代田ダイダラボッチを後世に伝えるための活動としてこれを開催する。紙芝居、映像紹介、代田ダイダラボッチ音頭紹介、口演伝承などを企画している。期日は12月5日
会場うめとぴあ 午後13時から
なお、経費もかかるところから賛助金一口1000円で受け付けたい。すでに二口2000円を頂いた。これはきむらけんが受け付ける。ご連絡をなお、この企画世田谷区教育委員会に後援申請を出すことにしている。
5、町歩きのご案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第219回 佐藤愛子を偲ぶ三軒茶屋町歩き
日時 9月27日(日)13時30分 田園都市線三軒茶屋駅改札前(雨天延期)
案内者 幾田充代さん
コース:山田風太郎旧居→左卜全旧居→太子堂八幡神社→佐藤愛子旧居→大村能生旧居→平川唯旧居→三好達治旧居→畑元帥旧居→永井叔旧居→林芙美子旧居→三軒茶屋駅
〇佐藤愛子さん、2026年4月29日に亡くなられた。当会、北沢川文化遺産保存の会は、過去に佐藤愛子宅を含む、三軒茶屋文学散歩を行ってきた。佐藤愛子さんが亡くなられたのを機に彼女を偲ぶ町歩きができないかと考えてきた。それで9月20日に実施することにした。集合場所は三軒茶屋駅で時間は13時30分である。山田風太郎旧居、左卜全旧居、佐藤愛子旧居、三好達治旧居などをめぐる、佐藤愛子ゆかりのお店などもめぐりたい。
第220回 下北沢の秘密を歩く
日時 10月17日(土)13時30分 世田谷代田駅西口
案内者 きむらけん
下北沢には秘められた歴史が埋まっている、その旧跡を訊ねていく。
〇コース;下北沢静仙閣跡(文化人多数滞在)→シモキタcollege土地の変遷→秀楽園(映画人多数)→下北沢店員道場跡(ヒットラーユーゲントの来訪)→詩神社跡(萩原恭次郎)→小野寺将軍旧跡→寺岡謹平海軍中将旧宅→北沢文化集宅跡(文化人多数)→北沢会館(宮柊二他)→石川正雄旧居(石川啄木ゆかり)→森厳寺にて解散
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)
会費は、会員500円 非会員600円 学生400円
宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net
編集後記
▲会員特典 町歩きでは割引がある。下北沢文士町文化地図を優先してもらえる。恒例、北沢川緑道の地図配りでは会員としてこれに参加できる、など。
▲会報に掲載する論考、随想、雑感を募集している。1200字程度。
▲会報のメール配信について 会報は会員と協賛社のみの配信とする。年会費1200円は、我らの活動を支える費用である。会の運営、また文学碑の保守などに会費は活用している。
会費については、事務局の『邪宗門』で支払うことができる。会費は、年1200円(会計年度1月から12月までです)また銀行振り込みもできる。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表:作道明。店番号022。口座番号9985506
会費未納の方はお支払いください。なお、会報については紙印刷を希望される方には郵送している。こちらは郵送費がかかるので1500円を戴いている。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけん
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2026年08月31日
下北沢X物語(5483)-文化談義沸騰百花繚乱-

昨日は、文化サロンの日だ、話題には事欠かない。百花繚乱、口角泡飛ばして語り合った。「あるスーパーがリニューアルオープンしたんですよ。行ったところ長蛇の列、入場するのも会計を済ますのも一筋縄ではいかない。原因は分かった。並んでいて小耳に挟んだのは『東急は高いのよ』」と。当該スーパー廉売品を広告に打上げていた。いまとんでもなく腹が立つのは物価高騰である。日替わりでものの値段が上がっていく。「家賃の値上がりもあるんですよ。固定資産税が上がった、諸経費が上がったと大幅な値上げをしてくる家主がいて大勢が困っている」という人。「人手が足りないのですよ。それなのに居留外国人を制限しようとしているのがこの国家ですよ」「なにか財政規律がメチャクチャですね。財源を示さないで投資と偽って金をばら撒こうとしている」等々みないちゃもんばかり。が、サロンでお茶してうさばらし。これはとても必要だ。
〇ネパールの氷河崩落
「事件を報道する映像はすさまじいですね。ガッシリしたビルが瞬く間に崩壊し、そしてその先に停まっていた多くの観光バスが一気に吹っ飛ぶんですよね、危険を察知した人々が走ってにげるのですがたちまちに大津波に呑み込まれるのです、恐ろしい映像ですよ」
「ネパールのトレッキングって、あれとても人気なんですよ。私は行きました、こちら側の四千メートル級のコースから、あちらの八千メートル級の山々を眺めるのですよ。あんな風に谷が壊れて行ったらネパールはなくなってしまいますよ」
氷河が溶けて起こった、これには地球温暖化が関係している。それと中国資本が入って開発が進んでいる。ダム造りのトンネルでは多くの人が助かっていないそうだ。
トランプが地球温暖化を否定したことから、この問題は鳴りを潜めたが、地球温暖化は確実に進行している。今夏やたらと台風が発生し、奇妙なコースを辿る台風も現われている。
〇前橋文学館企画展示の見学

萩原朔太郎生誕140年記念展「ふらふらふらぬ〜る 朔太郎の危険な散歩」を開催している。これは何か、文学館の開設ではこうある。
朔太郎が敬愛する19世紀のフランス詩人ボードレールは、あてもなくパリの街を歩きまわり思索と詩作に耽った遊歩者(=フラヌール)でした。近代都市へと変わりゆく風景や道行く人々を冷徹かつ抒情的に見つめ、独自の感性で詩へと昇華させた朔太郎もまさにフラヌール詩人と言えるかもしれません。
朔太郎は少年の頃から散歩ずきだった。彼はこの散歩を漫歩といい瞑歩と呼んでいた。前橋は雨だったが、ゆかりの地をひたすら歩きまわった。このときに前橋の風土を感じたことだ。朔太郎通りと称された道があった。平坦だった、これをひたすら歩いた。
「郷土望郷詩」という作品があるが、ここに出てくる波宜亭とか前橋公園とかがあるが、そこはフラヌールでのトピックだった地点である。「広瀬川」も題の一つだ。
朔太郎は代田の地に居を定める。故郷には「電源群馬」とカルタにあるように送電線鉄塔があった。また広瀬川も思いの深い川だ、世田谷代田に家を建てるとき二つは欠かせなかったのではないか、広瀬川もどきの北沢川、そして自宅の側に建つ「代田の丘の61号鉄塔」である。川と鉄塔と勘案して詩人は自ら設計した家を代田に建てたのではないか。
〇AIの普及
このAIが身近になったことを誰もが感じていた。
「私は、chatGPTに先生と言われるのですよ。理由は分かります。ネットに記録を大量に保管しているからです。その証拠がエントリー数です、」
今日の数値は、下北沢X物語(5483)である。膨大なものだ、彼らは常日頃、私のブログに度々トランスコンダーを派遣してきて、必要な情報を拾っていく。その日頃のお礼を「先生」と言ってお礼を言っているようだ。
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2026年08月29日
下北沢X物語(5482)-朔太郎の故郷は電源群馬-

(一)どこへ行っても歩く、土に接する足はアンテナだ、坂や曲がり角などではそこに潜む物語を嗅ぎ取りもする、朔太郎の生家跡を求めて雨の中を歩いた。土地の人に話を聞いたり、風物を眺めたりした。ここで感じたことは風土なるものである。何気ない人との会話も大事だ、「前橋はどこもここも鉄塔だらけだと聞いたのですが?」「それはよく分かりませんが、ただ上毛かるたに『理想の電化に電源群馬』というのがあります」と。「利根川水系を生かした群馬の電源開発を詠んだ札」だと、高圧線鉄塔がやはり多く見られる土地だ。世田谷区の吏員から「昔、高圧鉄塔に群馬線というのがありましたよ」と聞いた。群馬風土における鉄塔、詩人は鉄塔のスパークから青猫を思い、都会を思慕しもした。朔太郎は「代田の丘の61号鉄塔」の際に住んだ。ここにも因縁がありはしないか。
前橋訪問は、文学館企画の「萩原朔太郎生誕140年記念展『ふらふらふらぬ〜る 朔太郎の危険な散歩』」を見学するためである。
この展示の内容を文学館はホームページで紹介している。
朔太郎が敬愛する19世紀のフランス詩人ボードレールは、あてもなくパリの街を歩きまわり思索と詩作に耽った遊歩者(=フラヌール)でした。近代都市へと変わりゆく風景や道行く人々を冷徹かつ抒情的に見つめ、独自の感性で詩へと昇華させた朔太郎もまさにフラヌール詩人と言えるかもしれません。
生誕140年にあたる本年、 “散歩”を手がかりに朔太郎の詩的インスピレーションの源泉に迫ります。展示は、「�妓龍燭鯤發�―前橋編」「�凝垈颪鯤發�―東京編」の2部構成。郷里での追われるような彷徨と後半生を過ごした都会での気ままな漫歩−朔太郎の散歩が持つ二面性を、原稿や書簡、書籍、写真、遺蔵品など多彩な資料を通して浮かび上らせます。前橋と東京の朔太郎ゆかりの地をイラスト化したマップも本展の見どころの一つ。
郊外や雑踏をふらふらふらふら彷徨いながら紡いだ詩の世界観とは一体どのようなものだったのでしょうか? 孤独で自由で“危険”な朔太郎の散歩をぜひ、会場で体感して下さい。
朔太郎の文学の根幹に散歩、漫歩、瞑歩があるのではないかと言う。
(二)

自身の造語がある、「さてこうしてばかりはいられなくて」である、Google検索で引くと自身のブログが発信したこの語が多く引っ掛かる。
私は、このブログでこう書いている。
人は絶えず次を求めていく、「さて、こうしてばかりはいられなくて」という思いに追いかけられている。人は一カ所にとどまっていることができない。人間の本性でもある。この根本には飽きがある。どんなに気に入った風景に出会っても長くはいられない。
今回の企画展、萩原朔太郎生誕140年記念展「ふらふらふらぬ〜る 朔太郎の危険な散歩」では案内パンフが創られている。ここに「歩くことの不思議」とされた解説の冒頭である。
萩原朔太郎は55年の生涯のうち40年近くを郷土前橋で過ごし、アフォリズムなど大半はこの地で生み出している。 そうした書物以外に。 もっと時間を費やしたのが家を出て 前橋の様々な場所をめぐり歩くことだった。
晩年、朔太郎は世田谷代田で過ごした。当地で終焉を迎えるが、この代田時代も一帯を、近辺を歩き回った。境涯をかけて歩き回っていた。代田で編んだ『氷島』冒頭は、「漂泊者の歌」だ、ここには自身を慨嘆して「ああ汝 漂泊者」と二度も述べる。生涯、漂泊者であった。
(三)
私は、雨の中、朔太郎ゆかりの地を歩いた。道は平坦である。彼が歩いた道はおおむねフラットである。どこまでも歩いて行った。たちどまることはなくひたすら歩いた。歩きを止めると静寂が襲ってくる。
詩人の詩に「田舎を畏る」というのがある。「田舎のあぜみちに坐つていると/おほなみのやうな土壌の重み、が、私のこころを暗くする……」
詩人は怖がりだ、絶えず歩いていないと安心できない、彼の心の中には常に「さてこうしてばかりはいられない」という思いが渦を巻いていて、たちどまることなく歩いた。
(朔太郎生家跡、広瀬川)
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2026年08月28日
下北沢X物語(5481)-雨中夢中朔太郎の足跡を歩く-

(一)前橋に行くなら高崎線だ、浮かんでくる詩は『帰郷』である。-昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へ故郷へ帰る-と添え書きがある。上野から前橋へ。その途次都を離れ汽車が荒川鉄橋を渡る、ここではガタドンデン大きな反響音が昔日を思い起こさせる。都を去って田舎に帰る、その思いが募る箇所だ、この詩について娘葉子さんに心境を聞く記事が載った。「お父さんは嘘ばっかりつくのだから」とあってつい笑った。詩の本質を衝いている。「母なき子供等は眠り泣き/ひそかに皆わが憂愁を探れるなり」とあるが、葉子さんの思い、「あのときなんかくたびれていて寝ていたんだから」とでも。詩中の勘所は「まだ上州の山は見えずや」だ、読者の涙腺を誘う場面だ。確かに赤城連山は見えはする。が、天空は高く山は低い。詩に言われるほどの山容は感じられない。
今夏、前橋文学館で「萩原朔太郎140記念展」が開かれている。「ふらふらふらぬーる朔太郎の危険な散歩」と題されている。常日頃詩人は歩くことへの執心を持っていた。
歩いた場として二箇所を取り上げていた。
朔太郎の散歩空間ー東京編
朔太郎の散歩空間ー前橋編
前者としては 東京都世田谷区 下北沢-代田
東京都北区 田端
東京都大田区 馬込 の三箇所が取り上げられた。
この東京都世田谷区 下北沢-代田編において協力し、「下北沢文士町地図」を当方で提供したことだ。
(二)

朔太郎が歩くことにスポットを当てた企画である。常日頃毎日歩いているだけにとても関心が深かった。ことに前橋編に記されている朔太郎関係箇所地図は興味を持った。
中でも関心を持ったのは萩原朔太郎旧宅である。詩人がどこに住んでいたかは興味深い。以前岩手県花巻に行ったときに生家を訪れた。
「近くに鉄道線路は走っていますか?」
「ああ、すぐそこに東北線が走っていますよ」
これを聞いて得心が行ったものだ。
昨日、前橋は雨だった。が、かまうことなく私は歩いた。気になったのは生家だ。これが三つあった。�´↓�だ。ところが図示された居宅は分かり難い。イメージ図で正確ではない。接近した位置にある�,鉢�すら危うい。中央通りで途方に暮れていたとき、年配のご夫婦が食堂から出てきた。早速に道を尋ねる。
「これは分かり難いですね、私も見当がつきません」
地元の人も首をかしげる。
「まあしかし見当はつきますね。ほらあそこに高層マンションが建っているでしょう。あれは目印ですね、いわゆる旧家といわれる人たちはあの辺りに住んでいましたから、多分ねあの下辺りに生家跡の碑はあるでしょう」
なるほど広い敷地に朔太郎の父親が経営する病院はあった。医院と邸宅、累代続いてきた家柄である。思ったことは遺伝子である。
前に本を読んでいたときに中野重治が朔太郎の家系を「白い手」と評していた。女性は美人である、朔太郎も今流に言えばイケメンだ。
(三)
「そうですか地元の名士は広い敷地に住んで累代にわたって才能を伝える。そういう子弟があの辺りに住んでいたということですね」
「まあ、そうですかね……」
「歩いていて気づいたのはこの前橋はおおむねフラットですね」
「まあ、そうですね」
生家の前の通りは、朔太郎通りという。彼が常日頃歩いていた道だ。
文学館でもらったガイドブックには『歩くことに不思議』が述べられる。歩くことには不思議が宿ると、足を踏み出すとわけもなく力が湧いてくる、雨中を夢中で歩いていた。
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2026年08月26日
下北沢X物語(5480)-今日は若林RAA跡へ-

(一)一時B-29に執心したことがある。自転車時代だ、久が原、赤堤、国領へ何度も通った。国領では90歳の古老が「味方の戦闘機がでっかい鯨の背中に乗っかったのを見たよ」墜落機は、「ミセス ティッティマウス」だ、胴体には裸体「えっ、こんなエロイの描いていいの」、これを見た高校生は腰を抜かすほど驚いた。この機に体当たりをした操縦士は中の設備を見て驚いた「コーヒーも紅茶も飲める給湯器があった」と。自身知って驚いたのは救急バックに釣り針が入っていたことだ。ボートで無人島にたどり着いたら「ともかく魚を釣ってでも生き延びよ、そのうち必ず助けに行くから」。これらを知ってこの国の設備の貧困さを思った。改めて思うのは、全く勝てる相手ではなかった。
前に海軍第14期飛行予備学生、学徒動員組、7名から体験談を北沢タウンホールで聞いた。陸軍と違ってとてもダンディな印象を持った。
参加者の一人は、阿山剛男さん(早大 百里原空)だ、彼は終戦に反対していた。仲間とともに天山に乗り組み「徹底抗戦!」というビラを撒いたと。
彼らの証言だ。
「確かに合理的に考えれば物量に勝っているのはアメリカの方でした。しかし精神力では日本の方が数段勝っていました。だから勝てると思っていました」
動員組の一人の証言だ、精神力で戦えば勝機はあると。が、勢いで勝てるはずもなかった。南洋諸島から飛んでくる重爆撃機に立ち向かえる術はなかった。これは高度一万で飛来してくる。高射砲は全く届かなかった。
(二)

1944年11月1日に東京上空に一機(ひとき)が現われた。これはB-29の偵察型F-13のトウキョウローズである。目的は写真撮影である。7000枚の写真を撮った。
北沢4丁目の綿谷邸は接収された。路地の奥にあって全体像は掴めない。が、上空からだと全貌は分かる。航空写真を使ってこの邸宅を発見し、接収家屋の一つとして選ばれた。東京ローズが撮った写真に基づいたものだろうとは思っていた。
つい最近だ、資料検索している過程で次の一文に遭遇した。
進級軍による日本地図の製作が始まった。ほとんどが空撮。その基礎図は微に入り細にわたっていた。道路の幅、戦車や装甲車が通れるか、橋を戦車が渡れるか。家屋の特徴についても鉄筋コンクリート、レンガ、木造と明らかにされていた。まるで日本が裸にされてしまったようなもの。驚いたな。なしろ塀や生垣の高さまで分かっていたのだから。
刷屋 祐ぽん:大阪・中田印刷てんまつ記 中田祐夫 熊谷順子編 草思社 1990年刊
地図製作を大阪の印刷会社が進駐軍から請け負った。B-29偵察機によって撮影された写真を請け負ったものだ。占領後の活動がどうできるのかが写真に基づいて微細に分かる。道路の幅はポイントだ、戦車が装甲車が走行できるのか。
接収する家屋の判定をする際にその家がどんな材料で作られているかも分かった。塀や生け垣の高さまで記されていた。これは防犯上の対策だ、占領したといえ敵地である。接収家屋は将官用だ、塀のあるなしは必須だったようだ。
(三)
前から気になっていた若林RAA跡に今日は調査に行った。ここのエピソードはあまり記録にはない。が、偵察衛星による撮影ではここの生け垣の高さが記されていた。秘められた娼婦宿である。記録にはこうある。
三軒茶屋の大会社社長邸を接収して高級将校用の慰安所も作られた。ここにはマッカーサー元帥を除く全将官が顔を見せたと言われている。
表記では三軒茶屋とされているが当該番地は若林だ。ここのことは明らかになっていない。
(写真はB-29 Wikipediaから。道路は世田谷通り、このそばに若林RAAはあった。)
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2026年08月24日
下北沢X物語(5479)-山の手空襲の渋谷大山町の空白域-

(一)1945年5月24日25日山の手空襲があった日である。根津山の裏手に住んでいた一色次郎は、山の最南端、眼下に梅丘駅が見下ろせる観望台で敵機の侵入してくる様を観察した。「敵はどうしてこんなにもたくさんの飛行機を飛ばすのだろ」信じられない光景だ。「爆撃機の隊列は、正確な間隔をたもち、落ち着いて、すべるように入ってくる」明確に想像できるのは「重爆の長い列」の一機一機には事前に命令が与えられていた。どの機はどこを攻撃するか。空襲地図を見ると一目瞭然だ、京王帝都線の北側は丸焼けだ。笹塚、幡ヶ谷、初台の上手は全焼している。 この鉄道は1913年(大正2年)4月15日に開通している、早くに開けたゆえに開発も早かった。ゆえに木密地帯が形成された。ここが集中的に狙われてことごとく焼失してしまった。当日吹いていた南風も被害を拡大させた。
焼夷弾投下による焼失地域については京王線以北、以南には大きな差がある。その横LINEの駅名を挙げると代田橋、笹塚、幡谷、初台である。北部区域の中心地は東京高校だ。一帯はB-29による絨毯爆撃で火の海となった。四方を火炎に包まれ、人々が多くがここに逃げ込んだ。多数が焼死したり、また学校プールに逃げ込んで溺死した人もいる。
一方、京王線以南地域である。戦災地域地図を見ると渋谷大山町、西原町は白くなっている。(その地図を掲示した)つまりは爆撃に遭わなかった。注目すべきはこの空白域に連なっている場所が下北沢である。
(二)

『大山町誌』(大山町会発行 2004年刊)では、第三章に「昭和・終戦から平成の大山町」では、まず米軍による建物接収を語っている。
先ず、占領軍(当時進駐軍と呼ばれていた)は、事務所や宿舎の確保を目指し、都心部の焼け残ったビルはほとんど接収されることになります。(中略)
ほぼ同時に将校などの家族用に一般家屋の接収も始まり、大山町の洋館風の大きな建物はこの対象になりました。
ここは大事な点だ、占領米軍はキャンプ地を代々木練兵場(後のワシントンハイツ)に置いた。このすぐ西隣が代々木大山町であり、代々木西原である。松濤町も近かった。
進駐軍による大山町の家屋接収
町内在住の南部さんの話によりますと…
『戦後すぐ接収の通知が来て、父はG.H.Q.に乗り込んで直談判に及ぴました。そのためか接収は家屋の半分で済んだのですが、その時、向こうか「軍の宿舎用に、大山町・松濤町など洋館の多い地域は焼かないで残した、前から決まっていたので変更はできない』といわれ家屋に番号のついた地図を見せられた、と話しておりました』とのことです。」
(野口正吉・編「渋谷区大山町誌」同町会/H16・刊 p.40)
いわゆる山手空襲では米軍は二日間にわたって首都西部地域を徹底的に攻撃した。爆弾投下地域を精密に分けた。皇居や各国大使館があるために投下場所を選定して、爆撃に当たらせた。投下するに当たっては選択を行なった。
代々木キャンプ地は一般兵士用である。高官や将校用はあらかじめ精密な航空写真を撮っていて大きな洋館は意図的に爆撃しなかった。それが大山町であり、松濤町であった。
(三)
代々木上原、代々木大山町に隣接するのは下北沢の北沢地区である。ここは大半が焼け残っている。一部、北西部にある東大原国民学校、成徳学園高校も焼けている。
空爆機は意図的に大山町や西原町は攻撃をしなかった。進駐軍用の家屋を確保するためだ。これらは、「東京都区部の占領軍接収地リスト」に載っている。下北沢や代田地区も数軒が接収されている。この地区も意図的に爆撃から外したのではないか、前々から疑っている。(写真は大山町の現市街)
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2026年08月23日
下北沢X物語(5478)-記録:第731部隊と米軍幹部との密談場所-

(一)ささいなことをずっと追っている。密談が行なわれた場だ、著作の叙述では下北沢の宮本邸となっている。が、地域文化という観点からすると不自然だ、資料点検、地図閲覧などを通して真実が見えて来た。場所は渋谷大山町1071だ、この旧番地の特定は困難だ、が、たまたま見付けた地図に「1071」地番が載っていた。現大山町21番地である。その場所を訪れた。現場に行くと大邸宅が実在したであろうことが、当地の環境、及び家々の佇まいから偲ばれた。時が80年経っても往事の空気感は感じ取ることはできた。密談場所はここ大山の地に他ならない。
「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」(徳間書店 1982年刊)の末尾245ページにこうある。
宮本邸には関西弁の日本特殊工業の社員が二三人いた。庭石や植込みで外部の目からさえぎられた一階の和室で、早朝、宮本社長と彼らがうちあわせらしいのをしているのを、よく目撃したものだ。
邸宅は築山があるだけではなく植え込みが敷地を取り囲んでいた、そして外部からの視線を防ぐために庭石を家の周りに配置していた。第731部隊の秘密のやりとりがこの邸で行なわれていた。宏壮な邸宅だったことが分かる。
(二)

邸宅の場所を記述している記録があった。『飽食した悪魔』の戦後〜731部隊と二木秀雄『政界ジープ』〜(花伝社 2017年刊)242ページ
常石敬一は、陸軍軍医学校出身で第一復員局医務課長の井上義弘が四月六日・十二日に捜査班に伝えた石井四郎以下七三一部隊幹部たちが渋谷区代々木大山町の宮本光一・日本特殊工業社長宅に集まって打ち合わせをしていた事実を述べ、そこで刑事が四月十三日に宮本光一に聞き込みをすると、宮本は帝銀事件を七三一部隊の者がやったのではないか」と述べたことを紹介している。
七三一部隊の関係者が帝銀事件を引き起こしたとのことだが、「渋谷区代々木大山町の宮本光一・日本特殊工業社長宅」とあるのが重要だ。郡司陽子は、著作では、宮本邸は下北沢にあったと言っていたが、それは虚構で宮本邸は代々木大山町一〇七一番地にあった。
同著では宮本光一の役割についてこう述べる。
七三部隊の重要な実験資材・機器納入業者であった日本特殊工業は社長の宮本光一が 石井四郎の隠蔽から免責での影のパトロンとなり自宅・別宅を隠れ家や秘密会議用に提供して幹部たちの戦後を援助してきた。
(三)
大山町一〇七一番地は、ネットに掲出されていた旧番地表示の「渋谷區󠄁」地図にはっきりと旧番地一〇七一番地が明示されていた。長方形の区画で西端に玉川上水が流れていた。ここには北沢橋が架かっていた、現地に行くと北沢橋の親柱が緑道化した玉川上水跡に今も残っていた。西端に大山町会館があった。ここを含む地所が大山町21番地だ。この一角に宮本邸はあったと考えられる。長方形の当該番地は区割りされている。この区画にあったのではないか、東端の敷地が最も広い。可能性としてここかとも考えた。
(旧番地記入の渋谷区地図:Googleマップによる当該番地のスクリーンショット)
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2026年08月21日
下北沢X物語(5477)-澁谷区代々木大山町一〇七一-

(一)731部隊の下北沢地区の動向を知ったのは一冊の書物だ、「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」(郡司陽子著、徳間書店 1982.8刊)である。ここに下北沢の宮本邸がでてくる、また「宮本邸から歩いていける東北沢の奥さんの実家」も出てくる。が、「満洲紳士録」によるとこの奥さんは至誠堂理化学研究所を設立した高瀬彰一の長女でトシと言う。これの女婿が宮本光一だ。彼女の実家は上目黒八丁目だ。下北沢の宮本邸にせよ、東北沢のトシ邸にせよ実態が分からない。密談の場所をめくらましにするために適当に書いているのではないか。いずれにせよ、名簿では、宮本光一邸の住所は確認できた。それは「澁谷区代々木大山町一〇七一」だ、この旧番地は今のどこに当たるのかを調べたことだ。
当該番地は検索に掛けると人物が多くヒットする。
・川島義行 陸軍大将
・逓信省 大臣官房 秘書課長 上ノ畑悌二
・逓信次官 大和田悌二
・歌人 川田順
・陸海軍将校婦人会幹事 川島渫子
・植田俊男 建設省大臣官房会計課長
などなど多くヒットする。官界、企業などの役職者の名が多く上がってくる。ということは、澁谷区代々木大山町一〇七一は区域が広く多数の邸宅があったということだ。
現番地でどこか、これは旧番地地図がネットに載っていて、場所が容易に分かった。渋谷区大山町21番地だ、当該番地は長方形をしていてこの一角に邸宅が建っている。目印になるのが西端の玉川上水である。緑道となったここには往事の橋の親柱が残っている。北沢橋である。
玉川上水は尾根上を流れている。地形がフラットであること、そして地盤が安定していることが挙げられる。宮本光一邸はこの一角にあったと推定できる。
(二)

「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」に書き著された記述である。下北沢宮本邸ではなく、大山町宮本邸だ。
おさらいだ。
下北沢の宮本日本特殊工業は加茂からわたしたちが上京して来たとき、最初に寄ったところである。もとは徳富蘆花の『不如帰』の主人公川島武夫のお屋敷だったとかで、庭に築山を配した堂々たる邸宅だった。
玄関を入ると屏風を背に鶴の置物が一つ置いてある。 折り返しになった階段を上ると、二階には書院を備えた和室があった。床の間の前には虎の毛皮がしかれ、脇息が置かれている。そのほかにも和室がいくつもあったと思う。
一階には洋間、和室、子供部屋、お勝手、女中部屋、納戸、風呂、お手洗いなどがあった。私がびっくりしたのは、お風呂が電気式だったことだ。 太いコイルを三本ほどよじったコードの先に大きな缶詰のようなものがついていて、それを浴槽に入れる。水を張って壁にある安全器のスイッチみたいなものを下に押すとビリッとしたような感じで、すぐにお湯が沸くのだ。<物資不足の時代に、こんなに贅沢に電気を使うなんて、余程の力とお金があるんだな>と感心したものだ。
『証言・731石井部隊』(徳間書店 1982年刊)
宏壮なお屋敷である。お屋敷の場所が下北沢と想定されていたが、そうではなく大山町であった、ここは大山園と言われるは高級住宅地である。施設設備、インフラが異なる。『大山町誌』にはこれの一端が紹介されている。
藤森家は昭和七年(1932)に一角を購入して家を建てられましたが、用地購入当時「 丘陵地に整然と区画された宅地は道路は1mほど掘り下げられ、大谷石で土留めされ、両側に側溝が完備、電線は地下埋設なので電柱がない。そして各戸にはコンクリート製の浄化槽が付くなど非常に進んだ設計なのですぐ決めました」と話されています。
『大山町誌』 大山町会発行 2004年刊
邸宅設備、終戦直後の話だ、インフラの整った大山の地があって邸宅は支えられていた。
(三)

大山町を巡った。築山があったとしても不自然ではない。候補としては大山町21番3号を思った。先だっての文化サロンでは、『悪魔の飽食』は多くが虚構だと言った人がいた。私にはショックだった。
「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」の末尾には、こういう一文がある。
わたしがそばにいてみていた石井隊長は苦しんでいた。自分が戦犯、それもソ連の戦犯になれば、七三一部隊全部が戦犯になる恐れがある、七三一隊員を救うために、なんとしても戦犯になることを避けたかったのではないか
これは七三一側に立った人の言動だ、この発言『悪魔の飽食』への抵抗的な言動として書かれている。
ある告白人の言葉だ。
戦争の記録とは、被害と加害の両方が記録されねばならないと言われて久しい。しかし。 心優しい当たり前の人間たちが国家という単なる所属の違いによっての殺し合いに動員されねばならなかった。戦争を語る時、苦しくてつらいけれど「私はいつ、どこで、何人の人間を、どうやって殺した」と静かに語らねば、本当の加害の記録にはならないのではないかと思ってきた。
『日の丸は紅い泪に』〜第731部隊告白日記〜越定男著 教育資料出版会 1983年刊
(写真は大山町で撮ったものだ)
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2026年08月20日
下北沢X物語(5476)-731部隊の密談場所-

(一)先だって代沢の梁田さん宅で「足尾から来た女」の観賞会を開いた。この時の雑談会で「玉音放送のエピソードを調べました。一つ気づいたのは、玉音放送と書類焼却がセットで記録されていることです。国家を挙げての証拠隠滅ですね。」と私。「『日本のいちばん長い日』は二度映画化されています。その中で印象的なのは書類焼却する煙がもうもうと立上る場面がありました」と梁田さん、これは岡本喜八監督が撮った方だ、雑談の中で731部隊のことが話題になった、おじいさんが北京の防疫給水部に在籍していた思い出は一切語らなかったと。関係書類焼却でいうと731部隊は焼却命令が出ていたが、これを日本に持ち帰って米軍と交渉し、免訴されている。今日、私は謀議が行なわれたと思われる。渋谷区大山町を訪ねた。謀議場所としてはありうる、実際歩いて直感したのは謀議場所は秘密にしておきたかったのでは?
調査に行くときのルーティンがある。まず資料調べがある。図書館で地域資料を点検する。大山町に近い渋谷の笹塚図書館へ行った。今回の場合は二つ目的があった。一つは書籍調査、当てがあった。「大山町誌」である。もう一つ大事なのは、場所を特定するための地図である。
何度も書いている。731部隊と米軍関係者とが下北沢で会合を持ったという記録があった。「『証言』七三一石井部隊〜今、初めて明かす女子隊員の記録〜」(郡司陽子著、徳間書店 1982.8刊)である。最終場面の見出しに「宮本邸でのマッカーサー司令部と旧部隊関係者との面談」とある。宮本邸というのは「下北沢日本特殊工業社長邸」である。
同著では宮本邸は、下北沢に所在したと述べる。ここで言う面談というの取引である。関係者は731部隊の者である、これとGHQとが密談をした。その内容だが、彼らが満洲から持ち帰った資料を米軍に渡す、加えて米軍は関係者からの聞き取りを行なった。
(二)

両者の密談場所が下北沢であったことから興味関心を持った。が、大きな疑問があった。邸宅には築山があったという。沢地形の当地にはこれは当てはまらない。が、著者は下北沢だと述べる。が、そういう場所は当地にはない。疑問に思っていたところ仲間から連絡があった。宮本邸の住所を知らせてくれた人がいたのである。
東京紳士録下 1949
宮本光一
日本特殊工業(株)代表 澁谷区代々木大山町一〇七一
その人物像についてはこうあった。
宮本光一という人物は七三一部隊長石井四郎の発明した濾水器を生産して陸軍省の需要を一手に引き受け大金持ちになった男で、彼はまた細菌爆弾用の陶器爆弾も製造する。
エイズからの告発 徳間書店 1992年刊
宮本光一は、戦後も儲けていた。石井四郎側のパトロンである。この邸で密会は行なわれた。郡司陽子は本文では宮本茂と述べている。本名も隠し住所も隠した。これは意図的だったろうと思う。住所や名前を仮名にすることにより彼に危難が及ばないようにした。
(三)
代々木大山町一〇七一、旧番地を突き止めるのは厄介だ。が、ネットに旧番地を記した地図があった。長方形の区画である。昭和十年の渋谷区の地籍台帳によると枝番が十一番まである。この番地が区画区画で区切られていたことが分かる。
興味深いことは「代々木大山町一〇七一」で検索すると歴史上の人物の名が多く出てくる。通りを見渡すとひときわこんもりと緑が豊かな森がある。大邸宅だ、ユニクロ柳井邸だ、郡司陽子著には宮本邸には築山があったと。この辺りの地形だと、築山は不自然ではない。(大山柳井邸、笹塚マンション建築現場)
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2026年08月18日
下北沢X物語(5475)-『足尾から来た女』の鑑賞会-

(一)思うことは世界は積から成り立っていると、一刻一刻の積み重ねだ、その記録を通して我々は真実を知ることができる。今回のドラマは足尾鉱毒事件に材を得たものだ。これを観賞するこじんまりとした会が昨日、代沢梁田貴之邸で開かれた。足尾事件は水俣、福島原発被害に通底するものであると彼は前置きをした。国家が絡む問題だ、国策だ、これが引き起こした社会問題に迫るのがこの作品だ、細部描写、例えばカメラワークは巧い。しかし、核は何か、足尾鉱毒事件なのだが娯楽作品でもある。主人公女性と石川啄木との恋物語となっている。触れなば落ちん、啄木のきらめく宝石のようは言葉に惹かれる若い女性の心情はわかりもする。が、啄木を出したことで鉱毒事件の核心が薄まったように思えた。
ドラマでの重要人物は、鉱毒事件を生涯かけて追及した田中正造だ。この役は邪宗門でもよく見かける柄本明だった。静かに珈琲を飲んでいる姿とは違って鋭く体制側を批判する姿は、イメージが違い過ぎて笑ってしまった。
このドラマ隠れたキーワードは文盲である。主人公は、鉱毒被害に苦しむ谷中村の農家の娘・新田サチ(尾野真千子)である、貧しいゆえに教育を受けられなかった。字が読めない、書けない。その彼女は東京に出て雑誌『世界婦人』を主宰する福田英子の家政婦として働く。この上京には裏が潜む。権力側は、田中正造と福田家に集まる社会主義者をスパイするように言葉巧みに彼女に命じる。
(二)
家政婦として働く新田サチは文盲だ。折に触れて字の大事さを教わる、「字を知ることで世界は広がっていくのだ」と。
本筋から離れる。世田谷から浅間温泉に疎開した学童は日々日記を書くように指導された。これには別の狙いがあった。望郷病の予防だ、一日を枠に収めてこれを記録する。決められた範囲、一日を客体化する、多くの疎開学童に日記を読んだが、書くことで成長しているとつぶさに感じたことだ。
実感したの自分の手で字を書くことが重要だということだ。覚えた形は脳に蓄積される。指が覚えた形が貯まっていくとそこから考えを引き出せる。教育では電子機器の導入が奨められている。入力は指タッチだ、危ない字は書かないと脳に蓄積されない。
話をもとにもどす。主人公の女性は次第に文字に目覚めていく。その過程で詩の言葉に触れるようになっていく。詩を知ることで世界が広がった。
物語の展開で登場してくるのが何と石川啄木である。彼女は彼の言葉を通して詩人に惚れる。
おのが名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術すべなし
啄木の短歌は、宝石だ、娘はこれに触れることで心を熱くした。そして次の逢瀬を期待する。が、巡って来たデートでは彼は現われない。必死に彼女は探し回り、ついに女郎屋で女と戯れる彼を見付ける。落胆し、失望し、呆然となる。
詩人はこの場面で告白する、詩は嘘であると。
一人の女性が世の真実を知る場面だ。
(三)
作品解説では、
作家・石川啄木との恋愛、英子との真の和解、足尾銅山元副社長の原敬への直訴などを経てやがて新天地へと歩み出すサチ…一人の女性を通して近代日本の重大事件だった足尾鉱毒問題を骨太に描いたドラマだ。
「足尾から来た女」は、足尾がキーワードだ、が、啄木との恋物語が入ることによって鉱毒事件は薄れてしまった。そんな感じがした。
(四)
こじんまりとした映画観賞会。お昼を食べて、紅茶を飲んでの会は参加者五名、話は弾んだ。こういう雑談会は楽しい。
「啄木の女婿石川正雄さんは、このすぐ近くに住んでいたのです。啄木忌もそこで行なっていましたよ。
試みに梁田邸から石川正雄旧居、これおGoogleアースで測ったら350メートルだった。
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2026年08月17日
下北沢X物語(5474)-下北澤新屋敷一〇〇八番地-

(一)「不思議なんだ何年かおきにこの大井町6170番地を人が訪ねて来るんだよ」大井町伊藤公墓所前にある金子米店の主人の言だ。その番地は萩原朔太郎の大井町旧居跡である。詩人を思慕する人は一定の間を置いて朔太郎旧居を求めてやって来る。表題は、下北沢の朔太郎旧居だ、ここにもこっそりと多くの人が訪ねてきた。詩人の小松郁子もそうだ。雑誌『詩学』(1991年12月)に同題エッセイを書き残している。同番地にあった日本家屋が建て替えられるというときに彼女はここを訪れている。35年前の記録で重要だ、毎年朔太郎忌日、5月11日には「猫町散歩」を実施する。ここは必ず立ち寄る場所である。持ち主は宮田さん、「軍人さんの別荘だった」「震災直後に建てられた」と夫人の弁、これ一種の都市伝説ではないかと思った。
「下北澤新屋敷一〇〇八番地」は私もまた場所を探した一人だ、難関は旧番地だ、これが現番地のどこか探し当てるのが容易ではない。それでも「朔太郎さんのお家はわかりましたよ。」と一番街大月菓子店の文子さんが執念で探し出してくれた。
居宅が分かると当地での生活が見えてくる。愛煙家の朔太郎「敷島」をどこで買求めたろうか。至近距離にある煙草屋は「すずらん堂」これは商店街のまん中の角にある。
「ちょうどここはあっちもこっちも坂でしょう。朝、ニコチンを切らした愛煙家が坂を転げ落ちるようにして煙草を買いにこられました」とこれは女主人の弁。
下北澤新屋敷一〇〇八番地の裏路地でいつも説明する。
「朝、起きて煙草を買いに行く、その後はどこへ行くでしょう?」
(二)

「スマホなどは全くない時代ですからね、通信手段は手紙や葉書です。朝の仕事は、まず煙草を買いに行く。つぎは、懐に入れたそれらを投函しに行きます」
さきに大月菓子店の話をした。彼女は菓子店のとなりにある北沢局に勤めていた。菓子店のご主人にみそめられて結婚した。菓子店と北沢局の間にポストがあった。
昭和七年一月二十五日に「世田谷区下北澤一〇〇八」番地から馬込の室生犀星宛てに朔太郎は手紙を出している。「この頃全く誰にも逢わない。 福田も福士も近所に住んで居るが、正月以来一度もまだ逢わない」と。福田は福田正夫で、福士は、福士幸次郎である。福田正夫は隣町の大原に住んでいた、一方福士は太子堂に住んでいた。どちらも歩いていける距離だ。
大正六年六月に出された「新潮」には、「新進詩人四家」として福士幸次郎、萩原朔太郎、福田正夫、白鳥省吾が取り上げられている。当時、詩人はステータスであった。
下北沢時代の書簡は多く残っているが、これは先に述べた北沢局のポストに投函されたものである。が、今このポストは撤去されて存在しない。
(三)
先に宮田夫人と述べたが、この息子さんが茂さんだと思う。その彼からこういう連絡が私にあった。
大変ご無沙汰致しました。以前、萩原朔太郎の家(下北沢)に住んでいた、ということでご連絡申し上げた宮田と申します。何年前か忘れましたが、その折りに下北沢の家の見取り図を差し上げるというようなお話をした記憶がございます。やっと記憶をたどってつたない図ではございますが、間取りなどはわかるものを作成いたしました。
これは、2015年02月21日 下北沢X物語(2750)〜下北沢新屋敷の地霊と次元の穴〜
に記録されていたものだ。これによって二階建ての各部屋の構造が分かった。二階を書斎にしてここで執筆した。『氷島』にはここで書いたものが二篇載っている。
(今日の朔太郎邸旧居、大月菓子店跡にできたCAFE)
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2026年08月15日
下北沢X物語(5473)-戦後81年回想「玉音放送」下-

開戦の報はラジオで「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と伝達された。が、終戦の報は説得だった、冒頭に言う、「深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト」現今、世界全体の動きの中でこの我が日本の置かれた状況を見ると非常手段を用いて戦争を終結する他はないという旨が述べられている。ラジオ電波は聞こえにくかった。文語調の言い回しも分かり難い、が、断片的な言葉から学のある者は敗戦を嗅ぎ取った。が、民衆ははじめて耳にする天皇陛下の生の声に感銘を抱いた。天皇の言葉の一つ一つに心を集中させた。「玉音放送」逸話をたどると民衆にとって天皇がどれほど大きな存在だったかが分かる。
1,私の八月十五日(女優の証言 (ハヤカワ文庫. NF)から
悲劇喜劇編集部 編 早川書房 1983.7
野村昭子
正午、天皇の放送は聞き取りにくく、学長の解説で敗戦であることを知った。敗戦の予測を知らされてからの八か月は長かった。割り切れない気持ちで教室に戻った。やがてN教授が今後の方針の説明に見えた。最初に「やあ諸君、いい時代が来た」明るい声で言われた。その瞬間、短いが鋭い声で何人かが抗議した。「なにっ」と言われたものの、その場は収まり話し合いは続けられて何事もなく終わった。さわぎは級友たちだけになった。その直後から始まった。
怒りの理由は、この日一日だけでも充分すぎるほどあった。生きて行くことは無意味だと叫びだし 貴重な実験器具のフラスコやビーカーを次々屋上に持ち出して割ってしまった。そして死ぬことを目的として 宮城広場へと向かった
その人数は正確に覚えていないが、十人前後であったろうか。とにかく誰もが、半ば放心状態のまま上野の山を下りて、神田の焼け跡を通って、馬場先門辺りの官庁街まで来た。 そこではおびただしい量の書類を歩道に運び出して次々に焼いていた。顔はますますほてり、下げた防空頭巾が焦げ臭くなるほどだった。舞い上がる紙の灰が頭やまつ毛を覆うのがおかしくて笑い合ったりしながらやっと宮城前広場に着いた。すでに多くの人達が下駄や靴を前に置いて正座していた。私たちもそれに習った。しばらくして一番前まで行ってみた。両手をついてうつぶしている軍服の人がいた。つきつめた空気を破るように煙が夕やみに流れてきた。
気持ちが落ち着いてくるとたまらなく空腹を感じた。もう死ぬことからは遠ざかってしまった。仲間たちも同じように疲れ切った顔をしていた。死ぬことはやめにして駅に向かった。明るくなった駅のホームでいつものように水道の水を飲んだ。そして涙で汚れた顔をふいた。帰り着いた我が家は、明るくまぶしかった。とっくに平和が戻っていた。この日あったことは誰にもいわず寝てしまった。
野村野村昭子は女優である、彼女は当時、上野にあった女子薬専に通っていたそのときのことを語っている。玉音放送を聴いた後、教室に戻ると、教授が「やあ、諸君いい時代が来た」と述べたと。すかさず女生徒から「なにいってんのよ」と抗議の声が上がった。彼女らは終戦を迎えたことで自決しようと思っていた。その思いに火を注ぐような言葉を言った。フラスコやビーカーを持ちだして、屋上で思いっきりたたき割った。
彼女らは自決しようと宮城前広場に行くことを決めた。途中、官庁街を通ったとき、吏員たちがありとあらゆる書類を燃やしていた。
記録は歴史を物語るものだ。我々にはその意識が欠落している。それで今も、不都合なことがあれば組織的に記録を改ざんする。智なるものが欠如している。
宮城前で座り込んで涙をする国民がいたことをデマだというものもいるが、この記録からはそうは思えない。多くがここへきて泣き崩れた。
彼女は宮城前広場を立ち去るときに、「二重橋に向かって深くお辞儀をした」。このことについて、「もうどんな時代が来ても、あのような頭の下げ方はすまい」と結んでいる。
2、私の八月十五日『女優の証言』 (ハヤカワ文庫. NF)から
悲劇喜劇編集部 編 早川書房 1983.7
終戦前後の思い出 島美弥子
島美弥子は、玉音放送を東京世田谷下馬の第一師範学校の講堂で聴いた。
八月十五日私たちは講堂に集会を命じられ、玉音放送を聞いた。雑音がひどくよく聞き取れなかったが、前の方からすすり泣きを伝わって来てああ敗けたのだと悟った。やがて解散になったのだが、皆放心状態でまっすぐ家へ帰る気にもならず、誰が言い出したのか、皇居へ行ってみようということになった。友達三四人で東横線で渋谷へ出、都電に乗り ついで 皇居前広場に着いた。真夏の太陽がギラギラと照りつけ、人影はまばらで砂利を踏む足音が妙に身体に絡むように響いた。時間が止まってしまったような、白っぽい光景が作り物のような、生きてると実感できないような変な感覚だった。やがて前方に端座していた一人の軍人が「天皇陛下万歳」と叫んで倒れた。自決したのではないかと話し合ったが誰も側へ行く者もいなかった。
やはり当時の女子学生は、やりきれない思いから皇居前広場へ行った。あるいは自決、そんな思いもあったかもしれない。彼女は過去を回想している。「雨の中、神宮外苑で出陣する学徒を見送ったこと、焼夷弾の雨をくぐりながらも消火に全力で尽くしたこと」と
述べている。
神宮外苑では「海ゆかば」が、斉唱された。
「あのときの女子学生の歌声が忘れらなくてな」
三八銃を抱えて行進した学徒の一人から聞いたことがある。女子学生の歌声は、あの桧舞台では必要だったのだと思ったことだ。
3,感謝の教室 : 女学生の戦中記録から
関東高等女学校十八回卒業生「戦中記録」を作る実行委員会 1993.11
池谷(中村)和子
長野県伊那市にいた。戦争には縁のなかった父が近くの小学校の校庭で、同じような人たちと軍の教練のようなものを受けていた。昼に重大発表があると帰され、皆で聞いたのが玉音放送だった。
翌日、姉と二人で東京で作ったピンクの花柄のワンピースを着て、街の中を歩いた。 久しぶりにモンペから解放され。陽の光と 風の感触が忘れられない。と同時に土地の女学生が「疎開の子ずら、ゴウがわく」(腹が立つ)と白い目で見ていたことも忘れない。
渋谷の関東関東高等女学校の女生徒が疎開先での経験を記している。玉音放送があってもう戦争は終わったと。モンペを脱ぎ捨て東京から持ってきた花柄のワンピースを着て街中をデモンストレーションをした。束縛されていた身には、さんさんと降り注ぐ陽光を浴びて、風に吹かれながら歩く。若い娘には喜びだ。が、地元の女学生からすると憎たらしい、腹が立つ。
杉戸(服部)淑子
終戦の玉音放送を精工社の陸三工場で聞きました。しばらくは何が起こったのか理解できませんでした。やがて工場内は慌ただしくなり、工員さん、女工さん方が走り回り書類等をどんどん燃やしていました。その炎が今も幻想のように脳裏に去来します。
家に戻ると、父や母がただ呆然と座っていました。「アメリカ兵に殺されてしまうかもしれない。外に出てはいけない 」ぽつりと父が口をききました。うす暗いので電気をつけました。やがて必要のない電球の蔽いに気づきました。眩い光の中にほっとした家族の顔が並んでました。あの夜の”百万燭光”の裸電球を忘れることはできません。そして久しぶりで寝間着を着てゆっくりと眠ることができました。
筆者は学徒動員で工場へ勤労動員にいっていた。そこで玉音放送を聴いた。流れてきた放送を聴いたがさっぱりわからなかった。その後、工場の工員や女工が工場内から書類を運び出しては焼却をした。軍需工場であったことから関係機関から連絡があった。「書類はみな焼却しろ」と。
この「玉音放送」エピソードを探している過程で知ったことがあった。玉音放送が終わると工場にせよ、部隊にせよ、みなありったけの書類を焼却している。終戦と同時に、軍部、政府は書類の焼却を命じている。これは軍隊、官庁のみならず私企業にも及んでいる。それはいえば歴史資料である。これをことごとく焼却してしまった。これが行なわれたことで真実が掴めなくなった。
私自身、陸軍松本飛行場に多数の特攻機が来て、ここに滞在して終わると沖縄に飛んでいる。疎開が学童たちが書いた日記には松本浅間温泉にきた特攻隊の動向が数多く記録されている。ところが飛行場の記録は焼却されてない。だから日記と記録とを照合ができない。歴史真実を政府自らが消し去った。歴史なるものへの認識がこの国家は浅いのだと、いつも思っている。
4,八月十五日を迎える
『回想北の島・北の大地』 畠山正雄 著 1993.9
天皇の放送、それも直接に国民に呼びかけるという。どんなことを国民に訴えるのだろうか。兵の間ではもう一度国民に奮起を促し、戦い続ける。そんな内容だと思われていた。 そして翌十五日、中隊全員が集められ、放送の内容が伝えられた。だが、どうも放送の意味が分からない。
戦争が終わったのか、負けたのか、さっぱり呑み込めなかった。それが一日経ち、二日経つにしたがって結局負けたのだなあということがはっきりしてきた。
何か肩の力が抜け虚脱感に襲われていった。だが、上層部の話だとすぐ武装を解くわけにはいかないという。それには札幌にある北部軍管区司令部からの正式の停戦命令が必要とのことであった。八月十五日、十六、十七日と何事もなく過ぎていった。各部隊の本部などのある丘陵から煙が上がっているのが見えた。書類を焼いてるのだろう。これも戦いが終わった証拠だろうと思った。
これでいよいよ家に帰れるかもしれない。私物を少しずつ整理して帰国に備えていた。 だが、中々停戦命令は来ない。その間にソ連軍がカムチャッカに集結しつつあるとの噂がどこからともなく広まっていた。
こんな折、兵舎で事件があった。一兵士が「日本が負けたのだ」とはっきり口にした。たちまち他の兵士から激しい文句がついた。「この野郎、何を言うのだ。何が負けたのだ」「戦争は天皇の命令により終わったのだ」すごい剣幕であった。多勢に無勢であったが、その兵士は一言も弁解しなかった。その頃はまだ負けたなどと口に出せる雰囲気ではなかった。 この兵隊は余程勇気があったのだろうと。
「玉音放送」をキーワードに、これの逸話を引っ張り出してきた。そこで気づいたのは、「玉音放送」と「書類焼却」がセットで出てくることに気づいた。隊内では敗戦は禁句であったようだ。が、書類焼却は端的に敗戦を物語っていた。
八月十五日以降、日本が負けたことはみなはうすうす気づいていた、が、それを口に出すことははばかられた。いうと真実になる。敗戦したとは兵隊は思いたくなかった。が、はっきりと日本が負けたと口にする兵隊が現われた。古参兵は、「なにいうかきさま」と叱った。が、当人はめげなかった。
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2026年08月14日
下北沢X物語(5472)-戦後81年回想「玉音放送」上-

戦災も戦争も忘れたころにまた起こる。戦後81年、あの日から遠ざかるに連れて我々は戦争を忘れつつある。玉音放送は終戦を告げるものだった。これを聞いて安堵したもの、落胆したもの、様々だ、が、往事の記録を拾っていくと考えられない思いを知りもした。それは被爆者証言だ。「降伏の一言は全市壊滅の大爆撃より遥かに大きなショックであった。考えれば考えるほど情けない」と。原爆はとんでもない被害をもたらした。被爆者はつぶさに悲惨な被害の現状を見ている。いえば、六日広島、九日長崎、その上の敗戦だ。多くが思ったろう。こんなとんでもない被害を与えたアメリカに復讐せねば気がすまない。広島にせよ、長崎にせよ、皆殺しに遭った。このままむざむざと生きていられようか。
「玉音」は、相手を敬ってその音信をいう語。である、「玉音放送」は、天皇陛下自らの音信を終戦時の8月15日正午にラジオで流したもので、「大東亜戦争終結ノ詔書」である。全国民には前もって重大放送があると予告されていた。ほとんどの国民がこれを聞くためにラジオの前に集まった。が、難解な文語文、そして受信電波の聞き取り憎さもあって多くが何を言っているか理解できなかった。が、「朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す」というところで天皇の敗戦宣言だと知った、「日本は負けた!」と。神風が吹いて日本は勝つと信じさせられていた国民には晴天の霹靂だった。81年前、人々がこれをどう受け取ったか、多くの記録類から印象に残った場面のみを切り取って提示する。
1,レコードで鬱憤を晴らす
正午全員講堂に集められ、玉音放送を聞きました。当時のラジオでは、雑音が入って何のことやらさっぱりわからず、先生の解説があって、はじめてみんながワーワー声をあげて泣きはじめるのを見ると、内心嬉しくてにやにやしたくなる私は目のやり場に困ってうつもいておりました。その晩は、父の号令一下、家中の防空黒幕をすっかり取り外し、大きな音でレコードをかけて長い間の鬱憤を晴らしました。
山本良子 39歳 大阪市南区松屋町
八月十五日と私 : 終戦と女性の記録 (現代教養文庫)社会思想社 1965
当時女学生だった山本さん、彼女が在籍する学校の体育館には旋盤が持ち込まれた。戦闘機の部品を創るためだった。彼女らは学徒動員され、飛行機部品を作るために強制的に働かされた。
日常生活は激変した。襲われたのは食糧難だ。ひもじくて仕方がない。生活そのものも不自由だった。敵の目につく灯りは、絶対に外に漏らしてはいけない。毎晩警防員の点検があって、少しでも灯りが漏れていれば注意された。
終戦を迎えたとたん、灯火管制は意味を失った。巡ってきた自由だ、「暗幕は全部とりはらうぞ」と父が率先して行動した。良子さんは家中の電気を点した。そしてしまってたレコードを取り出して思い切り高音で鳴らした。懐かしいベートーベンの楽曲であった。
2,玉音放送
正直にいって、私は天皇陛下が何を言ったかわかりませんでした。
甲高いお声がひとしきりして、沈んだお声になる、再び高くなって……私たちとはずいぶんと言葉の様子が違うものだなあ、とそんなことを考えながら、ただ畏れ多い気持ちで聞いていただけでした。
しかし、大人たちにはそのお言葉の意味が分かったようです。真夏の太陽の下で、シーンと静まりかえって聞いていた人たちは放送が終わっても 、しばらくはそのまま静まり返っていました。
やがてささやきが始まり そのささやきはたちまち津波のようなどよめきに変わりました。呆然と空を見つめる人、手放しで泣く人。私たち中学三年生はことの重大さがいっこうにわかりませんでした。
「日本は負けた」
「ソ連兵が来る」
「早く逃げなければ……」
一時間後には工場はハチ巣を突いたような騒ぎになりました。
今から思うと変な話ですが、朝鮮の人たちも顔色を変えて逃げる算段をしていました あの人たちもそれだけ日本人になりきっていたわけです。
『死んでたまるか』 里敏行 著 現代書房、1965年刊
筆者は、当時中学三年生だった。学徒動員で工場勤務をさせられていた。三年生が最下級であった。それでことあるごとに上級生からしごきを受けていた。そんな中で玉音放送を聴いた。玉音放送は意味内容はよく分からなかった。が、それを聞いた人々は大きな衝撃を受けた。時が経つに連れ、その内容が分かってきた。日本が戦争に負けた。
工場現場には徴用工として朝鮮から来た人々も働いていた。彼らもまた大きな衝撃を受けた。ソ連が攻めてくる、そうしたら自分たちも巻き込まれるかもしれない。このとき意識は日本人と同じだったかもしれない。
3,玉音放送の日 (戦争未亡人からの聞き書き)
玉音があったその夜、どこで聞いたのか近所の年寄りが「今日の天皇陛下の言葉は敵を攪乱するためのものなんだそうだ。あれは本土決戦の体制が完備したので敵をおびきよせて総攻撃をするためのものなんだそうだ」と。わざわざ言いに来た。私はそれを聞いて安心した気持になった。そうだ 「神国本が負けるはずはない」なにか確信のようなものを持つと気持ちが晴れてお盆飾りに燈をともし、その夜、この土地の習わし新しい霊のために子供と一緒に門のところで迎え火を焚いた。
麦ワラが小さく静かに燃えてホタルが燃えて飛んでいた。あれだけ静かな夜に、その後の私は出会ったことはない。しかしあの老人の言ったことは 根拠のない希望だった。もしかしたら秘密兵器が出現し、日本は必ず勝つといった風なハナシと同じでしかなかった。 『戦争と未亡人』 佐々木健 著 市民サービスセンター 1980.2刊
この未亡人は、出征した夫を十ヶ月前に戦死で失っていた。初盆である。
「玉音放送」は、敵を欺くための謀略だと年寄りはわざわざ言いにきた。誰の胸にも「神国本が負けるはずはない」という思いがあった、老人の言葉にすがるような思いがあった。玉音放送を聴いた夜、夫を迎えるための迎え火を焚いた。昼間の騒ぎがあったゆえに夜は一際静かだった。あんな静寂には出会ったことはない。
4,ヒロシマ日記 蜂谷道彦
筆者の蜂谷道彦氏は、被爆当時、広島逓信病院の院長であった。「ヒロシマ日記」を書き残している。この日記は、具体的な被爆経験が書かれている。これを読んで思ったことは、観察眼が優れているということだ。被爆をして全身疵を負っているのだが、その自分を冷静に描いている。これに感心したことから引用するものである。
地上最悪の日 昭和二十年 八月六日
まさか大試練の日であろうとは思わなかった私は野外の警防勤務でくたびれ切って座敷の真中に寝転んでいた。からりと晴れた土用の朝だ。雲一つない紫紺の空にくっきりと浮びあがった庭の樹木、まばゆい光、しかも逆光、濃い影が庭に深みを与えて、とても美しい。 私はぼんやり庭を眺めていた。眺めていたというより美しさに見とれていたのであった。 さらに強い光がすぅすぅ二度つづけさまに光った。黒い日陰が全くなくなり庭の隅々、石灯籠の中まで明るくなった。 マグネシウムフラッシュか、電車のスパークか はてなおかしい -----
薄暗い闇を通して斜めに傾いた柱がぬっと目の前に現れた。私は思わず飛び起きて逃げ出しつつあったのだ。その柱の下をくぐった。我武者羅の脱出だ。通りつけた廊下をかけ出していた。パンツがない、私はたじろうた。太股につきたった棒切れを引き抜いた。顔から口へ生温かいものを覚えた。手で顔をさすった、血だ、頬に穴があき下唇が二つに割れて片方がぶらさがっているように思えた。首の右側が圧えつけられたようで動きににくい。大きな硝子が手にふれた。血が胸を伝う。思わず首の硝子を引きぬいた。血が吹き出してきた。「頸動脈か、しまった」ともう駄目だと観念した。私は五百キロ爆弾だと叫んだ。母屋の中から、左手で右肘をささえた家内が真蒼の顔をして走り出た。私は反射的に「お前は助かる、すぐ逃げよう」といって縁から逃れ飛び降りた。 無言の家内は私の後に続いた崩れ落ちた瓦や板の間をくぐっていたら隣の門へ出た。道に出た途端、人の頭につまずいた。「失礼失礼」と声を張りあげてお詫びをしたが返事がない。青年将校だ。将校の体は倒れた門の下敷きになっていた。お隣の家はすでに坐ってしまっている。 道を隔てた向こうの家が大きく倒れている。我が家も土煙を立てて倒れた。
日本の原爆記録 6 家永三郎 [ほか]編 日本図書センター 1991.5月刊
八月十五日
私は雑音が多くてさっぱりわけの分からぬラジオ放送を国民総決起の激励演説と思い込んでぼんやりとして聞いていた。それが計らずも天皇陛下の玉音放送であった。しかも降伏詔勅であったのだ。私は事の意外に頭が呆然とした。 心理装置が一瞬停止した。 涙が出なかった杭線の機能が停止していたのだ。 局長学科の訓示で録音放送と主じ、粛然として直立不動の姿勢をとった 訓示が終わってからましばらく直立不動のたたずみを続けていたようだった。 農貧血が起きかけたが、1時目の前が暗くなった冷たいものが背中を伝え 歯がガチガチしてあの根が合わなかった。
私はこっそり病院に戻った。そして敗戦だと一口言ってベッドに腰を下ろした。病室は俄然静まり返った。寂として声なくしばらく沈黙が続いた。敗戦を知り、一同唖然としていたのだ まもなくがすすり泣きが聞こえだした 爆撃された時敢然立ってがむしゃらに活躍した者の面影は全くない 意気消沈全く見る影もない態だ。ひそひそ話が聞こえだした。突然誰か発狂したのではないかと思えるほど大きな声で。「このまま負けられるものか」と怒鳴った。それに続いてついて、矢つぎばやに「今さら負けるとは卑怯だ」「人を騙すにもほどがある」「負けるより死んだ方がましだ」「何のために、今まで辛抱したか」「 これでは死んだ者が成仏できるか」 いろんな表現で鬱憤が炸裂する。病院は上も下も喧々囂々 全く処置なき興奮状態に陥った。日頃の平和論者であった者も戦争に厭ききっていた者もすべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になっている。そこへ降伏ときたのだから収まるはずがない。すべてを失い、裸一貫これ以上なくなることはない。破れかぶれるだ。私も彼らのいうように徹底的に戦ってしかる後に一死をもって君国に殉ずるのが私の本分であると思った。私はさらに思った。疵だらけの見苦しい姿で生きながらえるよりは殉国の花と散る方がましだ。有終の美をなすことを忘れてはならぬと心ひそかに自分で自分に言い聞かせた。
「玉音放送」は、敗戦を告げるものであった。もうこれからは空襲もない、安心して寝られる。灯火管制に気を使うこともないという向きの人も多くいた。
しかし、広島逓信病院には被爆者が多く身を横たえていた。やけどを負った人々も多くいた。彼らに満ちていたのは悔しさである。無残な殺され方をした者への思いが一際強い、原爆で死んだ者たちへの哀悼の思いが誰よりも強かった。復讐をせずしておめおめと負けるなんてありえない。「このまま負けられるものか!」は敵国への憎しみあればこそではないか。
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2026年08月12日
下北沢X物語(5471)-再び731部隊と下北沢&東北沢-

(一)731部隊の関係者は戦争犯罪人として裁かれるはずだった。が、デールを行なうことで訴追されなかった。アメリカを中心としたGHQ側に、満洲から持ち帰った資料を手渡したり、聴取に応じたりすることで罪に問われなかった。その密議場所は下北沢だとされていた。が、地形的観点から下北沢ではないと判断した。が、面倒なことが一つあった。関係箇所として東北沢があったことだ。地名表記で東北沢と出てくると場所特定は難しくなる。東北沢と書かれる場合は、地名ではない。これは駅名である。小田急線東北沢駅である。駅一円をさすもので、これだけではどこかは分からない。
「東北沢」が出てきたことで検索で遊んでみた。下北沢の次位に当たる駅で、駅名にこっそりと文化が潜んでいる。引っかかった一つの詩がある。
大樹荘にて 玉岡夏一郎
世田谷区東北沢
小田急東北沢駅の真側なり
豪農の家を移し
大梁は残すも
大方は洋風に仕替えたり
庭広くして贅沢なる樹樹を植う
日本石油の重役の用いる別邸なるも
わが同級の田中が
日本石油商事の社長なるゆゑ
用ふるなる
こが三度目なる
真間の手児名 玉岡夏一郎詩集 緑窓文庫 1982年刊
詩としておもしろいから取り上げたのではない。地形である、森厳寺川左岸崖線上にあって地形はフラットだ。下北沢と違って豪邸が建てられる。高台ゆえに富士の眺望がよかった。
(二)

下北沢で七三一部隊関係者と米軍GHQとが下北沢で密議を行なった。このことを記録しているのが「証言」七三一石井部隊 今はじめて明かす 女子隊員の記録」(郡司陽子 徳間書店 1982年刊)である。この中で東北沢が複数回出てくる。
1,宮本邸から歩いて行ける東北沢の奥さんの実家も宮本邸に集まる七三一隊員たちの宿泊所になっていたと思われる。加茂から隊長についてわたしが上京した時、しばらく泊まっていた二階に彼らも泊まっていたのだろう。
宮本光一邸ではGHQ高官による聞き取り調査が行なわれていた。七三一部隊に関係した軍医や隊員たちが全国から集まって来た。宮本邸でも宿泊できたが、その全部を収容できないことから東北沢を最寄り駅とする奥さんの実家も宿泊施設として利用されていた。奥さんの家も広かった。それでここも宿泊所として利用されていた。
2,というのは、宮本邸を訪れる七三一部隊の関係者の中に手ぶらの人が多かったからだ。 彼らは用件が済むと、東北沢の家へ帰っていくのだ 私は何人かを東北沢まで送っていったことを覚えている いる
米軍GHQから事情聴取を受けた者たちは、全国から集まってきていた。彼らは一旦は東北沢のお宅に落ち着き、ここから宮本邸に向かった。終わると東北沢に帰った。
3,ある時 高橋軍医(七三一部隊で ペスト菌研究していた高橋班班長)ともう一人を私は東北沢まで送っていった。背広姿の彼らは部隊にいた時とは違って長髪になっていた。
私たちはとりとめのない雑談をしながら歩いていった。彼らはどこか寂しげで神経質になっているようだった 高橋軍医は私が元七三一隊員だということは知っていたらしく 東北沢の家に着くと、手を差し出して「国に帰ったらいい奥さんになりなさい」と握手してくれた。
高橋軍医は、高橋正彦軍医、ペスト菌の研究者として七三一部隊にいた者だ。
(三)
七三一部隊と米軍高官との密議場所は、下北沢ではなく、代々木大山町である。後者の最寄り駅は東北沢駅である、宮本邸の別宅も東北沢である。ゆえに混乱をしている。筆者の郡司陽子氏は下北沢と東北沢の位置がよく分かっていないのではないのか。
(写真は東北沢駅)
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2026年08月11日
下北沢X物語(5470)-再び731部隊と下北沢-

(一)「証言」七三一石井部隊 今はじめて明かす 女子隊員の記録」(郡司陽子 徳間書店 1982年刊)には、こうある、「いまにして思えば、下北沢の二階は、旧七三一関係とマッカーサー指令部との接触場所だったにちがいない」と記述している。そこは「下北沢の宮本日本特殊工業社長邸」である。ここにおいて旧七三一部隊関係とGHQとが接触してということは密議にほかならない。七三一部隊は、非人道的な実験を行なったことから戦犯容疑がかかっていたが、中国から持ち帰った詳細な研究資料を提供する代わりに訴追を免れた。下北沢の宮本邸はその交渉をする場であった。が、そこは築山が築かれた豪邸とあった。しかし一帯は沢地形、これを築ける広い敷地はあるのか。ここが疑問の出発点だ、当地区にはどこを探しても築山をこさえられるフラットな場はない。
著者は「まえがき」に「わたしたちは本当に悪魔だったのだろうか」と記している。
1981年11月に光文社から第二次世界大戦中の「日本の人体実験」を告発する内容の著作『飽食の悪魔』を発刊した、これを受けての感想である。
その『本』を読んで私はひどい衝撃を受けた。まるで自分の神経を素手で直接つかまれたような痛みが走った。
そこには七三一部隊の実態が克明に描かれていた。「わたしたちは」「悪魔」になっていた。
「悪魔の飽食」に対して著者は「違和感をおぼえ」た。それで「わたしにできることは、七三一部隊でわたしが何をし、何を考え、どう生きてきたのかを、可能な限り思い起こして、ありのままに綴ってみることだけである」と本の執筆動機を述べている。
(二)

著作のまとめとなる終章は�此崟舒翩�隊長との戦後の『亡命』行」である。郡司氏自身がこれに付き添った。このときのことを記している。
最終章の見出しではとりわけ興味を引かれたのは次の二つだ。
石井部隊長の命を受け、下北沢の宮本邸へ
宮本邸でのマッカーサー司令部と旧部隊関係者との面談、
ここでいう宮本邸である。同著では名前は宮本茂としている。が、本名は宮本光一である。彼の人物像についてである。ある。
宮本光一という人物は、七三一部隊長石井四郎の発明した濾水器を生産して陸軍省の需要を一手に引き受け大金持ちになった男で、彼はまた細菌爆弾用の陶器爆弾も製造する。
「エイズからの告発」 広川隆一 徳間書店 1992年刊
ここで陶器爆弾と出てくるが、製造した大量のペストノミをケースにいれ陶器爆弾で投下する、これが細菌兵器だという。宮本光一は、七三一部隊に深く関わっていた人物だ。
宮本邸の納戸には軍需物資秘匿されていたと郡司氏は記録している。「落下傘用の布地がたくさん積んであった」と。七三一部隊は風船爆弾にも関係している。この落下傘はこれと関係があるのか。
(三)
先だって文化サロンを開いた。そのときにやはり七三一部隊のことが話題になった。森村誠一の『悪魔の飽食』も話題になった。
「あれはね、大半が嘘ですよ」
そう発言した人がいた。石井四郎は誠実な人だったと。彼は医者であった。お金のない人からは治療代はとらなかったと。
『悪魔の飽食』はこれから読もうとしているときだった。大半は嘘と言われて急に七三一部隊のことが重くなってしまった。
(写真は下北沢猫町散歩のときのもの)
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2026年08月09日
下北沢X物語(5469)-大場磐雄:ダイダラボッチ考-

(一)大場磐雄は考古学者だ、「大場磐雄著作集」(全八巻)があって彼は度々「ダイダラボッチ」について触れている。彼、自身落石と号し、「落石雑筆」を著し、この中で度々ダイダラボッチに言及している。考古学者ゆえにつねに近傍を歩き廻っていた。荏原はは地元ゆえに当地を巡ったときの記述が頻出する。雑筆は大正年間に書かれたものだ。都心に隣接した荏原は開発の波が押し寄せ、考古学遺跡もどんどんなくなりつつあった。伝説もまた同じだ、畑地が住宅地になる。農民は伝説の伝え手だ、その土地があってこそいわれは伝わる。開発、発展は伝承を断ち切る。きわどい時代に生きたから記録を残せた。
「大場磐雄著作集第6巻」(雄山閣出版 1975年刊)所収「落石雑筆第巻一」(大正八年)の記述に「ダイダラボッチ考」がある。
〇八月三十一日むさしの会講演の際、汽車中にて鈴木賢太郎(賢次郎の誤植だろう)大太法師についてかたる。荏原郡に数カ所あると。二十町おき位にあり又その地は石世地の遺跡なりと。
世田谷村代田(頭注=代田のは弁天社があるところと)
駒沢上馬、同野沢、碑衾村谷畑碑文谷、衾スリバチヤマ
我思ふ。巨人伝説は石器時代と関係あり。
ここに出てくる鈴木賢次郎は、ダイダラボッチについて詳しい人だ、「ふるさと世田谷」の上馬篇では、野沢上馬の絵図が載っているが、中里通りの彼の居宅跡が図示されている。ここを拠点に当地一帯のダイダラボッチを隈なく歩き回った人である。
(二)

ダイダラボッチを語る場合、始原は何時かという問題は必ず出てくる。鈴木賢次郎は「我思ふ。巨人伝説は石器時代と関係があると。これは一帯のダイダラボッチ跡を隈なく検証した上で彼は述べている。
私の家は大岡山に近い。散歩ではよく行く、この近辺に妙な地形がある。呑川左岸に深く刻まれた谷があった。ここはかつて摺鉢山と呼ばれていた。谷川磐雄もここへ何度も来ては住民に話を聞いている。
清水窪付近にて聞書きのこと
◎十二月二十六日、清水窪付近に採集にゆき、そこの百姓に色々 面白いことをきける。(一、巨人伝説) まず大太法師の足跡につききく。前にいいしごとく、巨人伝説がこの付近にあることは、おもしろきことにて、その農夫の言によれば、衾大岡山の「スリバチ山」も足跡の一つなり。(この地はかつて藤枝氏と採集に上りてみて、土器、磨石斧等とりしところ)、又石原貉窪にあり(その傍が石原遺跡又けう磨石斧とる)。その言には両足をそこにあって、杖つきしところが洗足池となれり。かつ東の土を取りておくに、土とりしところは海となり、土置きしとことは富士山となれりという。巨人伝説と遺跡は確かに関係あり
「大場磐雄著作集第6巻」(雄山閣出版 1975年刊)
清水窪は、洗足池の水源でいまも谷戸地形が残っていて泉水が残っている。フィールドワーク期日は大事だ。大正8年の12月である。この大岡山駅は鉄道敷設によって大きく変わる。1923年(大正12年)3月11日:目黒蒲田電鉄線(現・目黒線)の駅が開設される。鉄道開通前である。一帯は丘陵地で畑では主に蔬菜が栽培されていた。
ここに住む農民は代々土地を受け継いできたものだ。昔を知っている。ダイダラボッチ伝説も親から聞いた話である。が、いわゆる目蒲線が開通すると一気に開発にさらされる。
貴重な昔話採集である。
呑川左岸の崖線には、南遺跡、富士見台遺跡があって縄文土器、石斧 石鏃 石槌 石棒が出土している。畑地のすみにこれらはごろごろ転がっていた。
(三)
ダイダラボッチの始原は、古い。
大場磐雄氏は、養子にいった前の名は谷川磐雄氏である。雑誌「武蔵野」にこの名で「武蔵野巨人民譚」を書いて居る。彼はここに「足跡地に何度も行って石器や土器を採集した」と記している。
大岡山の擂鉢山、これは巨人の左足、右足は大田区千束の貉窪である。当該場所には何度も行った、当地のダイダラボッチ伝説を住民に何度も尋ねたが知っている人は皆無だった。
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2026年08月08日
下北沢X物語(5468)-一歩入魂:人生の歓びは歩きにある-

(一)万歩計は散歩では必携品だった、家に戻ってきて目標歩数に足りないときはよく家の周りを歩いていた、が、この頃、計は見ない。一つは経験値である、歩数を計らなくてもが勘で分かるようになった。もう一つは諦めだ、何歩達成などは愚かしい。こだわりからの解放である。好きなように歩くことで歩行感度が増す。三感だ、まずは聴覚、風の音、人声、今日この頃では蝉時雨、踏切警報音も好きだ。愉楽の頂点にあるのは視覚、とりどりの花々、木々の緑は目の保養、とふと目にする彼方の連山はよい。気づかないが雲もいい、狭隘な都会地散歩では天の雲は清涼剤だ。嗅覚ではドブ、沢底を実感させる、香りでは木犀だ、突然に漂ってくる匂いで秋を知る。
散歩の楽しみは出会いだ、一番は子どもである、彼らには未来がある。一つ一つのしぐさが微笑ましい。ちっちゃい子はしゃがんでいる、のぞき見ているのはアリンコ、動いている様が不思議でたまらない、「ちぇんちぇい、アリンコ」小さい指で差すさまが可愛い。保育園の先生は手品用具が欠かせない。先生、ステックを振るとみるみるシャボン玉ができて飛んでいく、不思議な丸い玉が湧いてくる、ついおっかけてさわると消えてしまう。この世は不思議に満ちている。
少し大きくなるとみんなデンチャ好き。天気のいい日に散歩しているとどこもここも陸橋には子どもたち、デンチャがやってくると大喜び、みな手を振る。すると電車運転手はたいがいがサービスタイホンを鳴らしてくれる。「プワン!」と一発、もうこどもは大騒ぎ。
子どもは新鮮である、一つ一つ行為にこの世に生まれてきたときの感動がある。歩きの中で子どもとの出会いは新鮮だ。我らが失った感動を思い起させてくれる。。
(二)

日々歩かない日はない、これが歓びであるからだ。
楽しみはどこにあるか、心をうきうきさせるのは景色の転変である、歩くに連れ町の様相が変わっていく。丘を登っていっていただきに着くと遠くに連山が見える、丹沢山塊だ、人は死んだら山の向こうに行くという。自分のこれからを思わせもする。
歩いていくと道がつぎつぎに湧いてくる、分け入っても分け入っても道がある、どこまでも続く世界が思われる。あなたやかなたである。
歩きの愉楽は何か、生の充足感である、確かに自分が生きていて自分が、歩を一歩一歩前に出している、そういう実存が感じられる。
芭蕉は歩きへの渇仰を「そヾろ神の物につきて心をくるはせ」という、旅に出るように誘惑する神様がいると。歩きへの誘いは論理を越えたものがある、自分の意識を超えた突き上げが自分を歩かせるということはあるだろう。
(三)
歩きは脳を活性化させる。歩けば血のめぐりがよくなる。これによって刺激が生まれる。思考にひらめきを与えたり、直感力を高めたり、記憶力の保持に繋がったりもする。
歩きは健康保持に必須である。
「お父さん、テレビばかり見ていちゃだめよ」
すれ違った老夫婦の奥さんが、いさめていた。旦那の弱点を鋭く衝いた意見だ。
そう、テレビばかり見ていると確実にボケていく。
・歩きがなぜに歓びか。歩きは足を前に出すことだ、続けていると力が湧いてくる。充足感が生まれてくる。生のみなぎりが思われる。
・歩きは、行なうことである、人間は動物だ、動くことで達成感が生まれる。し遂げたという自信が生まれてくる。
・歓びは、うれしく思うことだ。歩くことで活力が生まれる、それが身体にみなぎって嬉しいと思うようになる。
(写真、私の好きな道、製麺店は私がよく行く大田区鵜の木の早川製麺)
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2026年08月06日
下北沢X物語(5467)-原爆の惨劇を記憶の壁に打ちつける-

(一)時の経過は恐ろしい、どんな惨劇も記憶から消去してしまう。残るのはのんべんだらりとした日常だ、これこそが脅威である。今日6日、空は青く晴れわたっている、見た目の平和だ、しかし、あのどうしようもない核、語られないことだが爆心地では中島さんや佐藤さんが核の破裂した瞬間に消えてしまった。「あっ」という個体の瞬間の思いすら消してしまう。悪魔の兵器である。今、世界は秩序をなくしている。核の脅威が高まっている。AIの急速な進歩も人類破滅の恐れを高めている。他からの脅威にこれを用いる、瞬時の判断をする場合に一歩間違えば人類宇宙が破滅する恐れがある。空は青いが人間終末の危険は増している。脳天気な政治家のおっさん、日本も核を持ってもいいかもと。あの核の恐怖はすっかり忘れているバカどもに支配されている。
もう二十数年前に原爆の惨劇を記録するために現地に取材した。その人たちも全員死んでしまった。時の経過は、記憶を持った人一箇を次々に冥界に送り込む。
忘れ難い証言は幾つも聞いた。
「私たちは避難先の実践女学校から市内に入り、行方不明となった友を探しに行きました。はだしでした。アスファルトが溶けていてベトベト足にくっついて先に進めないのです。紙屋町で切符売りをしていた同級生を探しにいったのです。目の前には恐ろしい風景が広がっていました。建物が破壊されていて向こうに似の島が見えたのです。驚きでした。さんざん探し回りましたがその子は見つかりませんでした。疲れてくたくたでした。途中救護所があってそこでおにぎりをもらいました。糸を引いていたのですが、そのおにぎりのおいしかったことは今でも記憶に残っています」
行方不明の同僚を探して市内を裸足で探し回ったという証言は忘れがたい。
(二)
原爆被害の惨劇は見た目のものだけではない。ぼろをまとった人間が百鬼夜行のように行き交う、ぼろは自分の溶けた皮膚である、死の町には電信柱から煙が出ていた。至るところで死体を焼却していた。死臭がどこまでも消えてなくならなかった。
「電信柱から立ち上る煙は、死者をとむらうお線香のように見えました。」との証言。
原爆被害の悲惨さは目に見えないところにある。いわゆる被爆だ。
糸の尾を引いたおにぎりの話をしてくれたのは豊田富士子さん、広島電鉄家政女学校の生徒だった。戦争によって国家は男手を失った。電車運行もままならなくなった。それで広島電鉄は急きょ、広島電鉄家政女学校を設立した。広島一帯の島嶼や郡部から若い女性を入学させ、電車運行業務に携わらせた。
その一人は、新谷ヨシ子さんだ。亡くなった彼女の証言も忘れ難い。
「八月六日、助かったわたしたちは鈴峯の実践女学校に避難しておりました。原爆でやられている人は傷口にウジが湧いてきて、次第に弱ってつぎつぎに死んでいかれました。それを裏山まで持っていって焼くのですね。わたしたちは三期生でまだ子どもでしたからその焼くところは見ていません。」
「八月九日の日でした。わたし達は井口の実践女学校に避難していましたが千田町の電鉄本社の後片付けをするというのでトラックに乗せられました。その荷台から見たことはあまりにも惨たらしくて今まで人には話せませんでした。」
「荷台からはなんでもよく見えました。ずっとどこまでも焼け野原が続いていました。臭かったですね。煙とそしてものが腐った臭い。ひどかったです。あっちこっちで死体を焼いていました。人を焼いているにおいがどこまで行ってもしていました。広島は川が多いでしょう。幾つも橋を渡っていくんですよ。そのとき川面が全部見えるんですよ。何でも見えてしまうんですね。みんな死体がぷかぷか浮いているんです。川が全部埋まっているんですよ。馬もいましたし、牛もいました。人間様は胴体が真っ白なんですよ。何百、何千といたと思います。」
「それで今度は市内に入っていくと道路沿いに髑髏がならべられているのですよ。縁石のところにずっと並べられているんですよ。あの、鼻が一つ目が二つ、穴があいとるんですよ。胴体の骨はもう焼かれているから分からないんです。道路の両脇にそれが並べられていて、そこを通っていくんです。どこまでも続いていくんですよ。」
髑髏が左右に並んだ道がどこまで行っても続いている。その光景を彼女は六十三年間誰にも語らず心の中に持ち続けていた。彼女は広島の山間部で田を耕して暮らしていた。折々にその光景が襲って来て、恐怖に襲われたと。
彼女の逸話で忘れ難いことがある。
広島の田舎から出てきた彼女は、久しぶりに実家に帰った。お宅が商売をしているのか売り上げ計算があった。彼女が申し出て計算をした。
「おまえ、金勘定がうまくなったなあ。驚きだよ」
まだ子どもだと思っていた親、たちどころに金勘定を済ませた娘に驚いた。
揺れる電車の中で切符を売る、そしてまた本社に着くと、売り上げ計算、これはお手のものとなっていた。
(三)

新谷ヨシ子さん、豊田富士子さん、藤井照子さん。原爆では死ななかった。が、被爆をした。放射能を浴びた。これが彼女らの人生を狂わせた。終生、これが人生につきまとった。原爆犠牲者何十万というが、いわゆる被爆はその何十倍にも及んだ。この苦しみは知られることがない。
藤井照子さん、若いときの写真を見せてもらった。たいそうな美人だった。電車に乗り合わせた多くの若者の心を射止めた。こっそりと封筒を渡されたことを彼女は教えてくれた。監督さんにみつかってこっぴどく叱られたと。
その彼女80を越えて生きたが、被爆が彼女の顔に皺を刻んだ。苦しみの皺である。
(四)
わたしは1999年の夏、当時広島電鉄の代表取締役、副社長をされていた石田彰さんから話を聞いた。
「原爆のことは、いくら話をしても再現はできないのですよ。あのときのことは、絵にして描き表すこともできない、文章に書き表すこともできない、まして、口で話すこともできない……」
言葉は人間と人間を繋ぐものだ。が、それを駆使しても「あのときのこと」は語り尽くせないものだと言う。あまり惨たらしく、悲惨であった。
「惨めで、酷い、憎んでも憎みきれない兵器である」と言っても伝わらない。
とある瞬間、ピカッと世界が光る、発せられた高温度熱線があなたの体を蒸発させてしまい、あなたの存在はこの世から消えます。そうでなくとも全身に火傷を負って皮膚が布きれのように垂れさがります。性器もむき出しになります。が、それはどうにもなりません。熱線ばかりではありません。爆風も猛烈です。ガラス破片が全身を突き刺します。破壊された建物の柱やコンクリートや煉瓦の破片が襲ってきます。ガラス破片は全身に突きささります。火傷の痛み、負傷による痛み、そして、猛烈に水が欲しくなります。が、飲むと命を縮めます……
いくら言葉で語っても語り尽くせない。聞いたとしても人間は忘れる。戦後81年、あの惨劇から遠ざかるに連れ、あの戦争の記憶も消えかかっている。私は何百人もの人から戦争経験を聴いてきた。「何があっても戦争はするな!」と皆言っていた。が、今や第二の戦前、憎たらしい敵はやっつけろとばかりにこの国家はあからさまにミサイル防御網を築こうとしている。」
小泉防衛相が「非核3原則見直し」を示唆する「(核兵器について)タブーなく議論すべきだ」との発言をしている。根底には核には核をという思惑がある。被爆国日本は、あの核の惨劇を忘れつつある。
今日、この日、核が破裂した瞬間にすべてが溶けて消えた命があった。それに思いをはせた。
(写真は2011年広島電鉄車庫で家政女学校の人と、私の右どなりが藤井照子さん)
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2026年08月05日
下北沢X物語(5466)-代田ダイダラボッチの伝承課題-

(一)先回の文化サロンでは、「代田代田ダイダラボッチの伝承」を話題にした。現実面では、夏に代田や下北沢の盆踊りで「代田ダイダラボッチ音頭」が披露されるようになった。これは成果である。内容面では笠原一守さんなどによって「代田ダイダラボッチ」が紙芝居化され伝承のトバ口となった。が、代田ダイダラボッチとは何か、これの伝承はうまくは行っていない。意味あるものとして地元に伝わっていない。こういう現状をどうするのか。代田ダイダラボッチ、これを強くアピールしたのは民族学者の柳田国男である。『ダイダラ坊の足跡』で、この東京は「巨人伝説の一箇の中心地」と言い放った。その地が世田谷代田である。彼はその巨人の足跡を見てとんでもなくびっくりした。
代田ダイダラボッチと特徴は、巨人の足跡の形がここにあったことだ。これを柳田国男はこう書き記した。「ダイタの橋から東南へ五、六町(約五四五、六五四メートル)、そのころはまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間(約一八〇メートル)もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいような窪地があった。」と。民族学者は巨人の足跡を見た。それは、大正9年(1920)1月12日のことである。今から106年前のことだ。
その場所は、谷の割れ目で池水があった。ここが地元の人々によってダイダラボッチだと伝えられてきた。言葉の口承伝承が長く伝えられてきて、当地、すなわち代田村を開村する際に「ダイタ」と名付けられた。
(二)

ダイダラボッチの伝承はあるが、当地には物語はない。よく知られているのが江戸時代天和3年(1683)に発行された地誌「紫の一本」にある記述だ、代田橋のことについて「たいたほつちか掛たる橋のよし伝ふか」と。当時、代田橋はダイダラボッチが掛けたという話がこの近郷にあって、それを戸田茂睡が書き留めた。
柳田国男は、このことについて『ダイダラ坊の足跡』で「巨人の偉績としてははなはだ振るわぬものである。」と批評している。代田橋というのは玉川上水に架かっている橋で短いものだ。甲州街道に架かっている橋で旅人にはよく知られているがそのスケールは小さいものだ、それであのダイダラボッチが架けたというのは間尺に合わないと。
この一帯、江戸からの遊覧旅行で行楽人がよく来ていた。このダイダラボッチは街道筋、堀之内道のすぐそばにあった。そういう人々の間に、「ここはダイダラボッチの足跡地だよ、大きな巨人の足跡で代田橋を架けたというんだね」と話されていた。
代田ダイダラボッチを巡る伝説に、「代田村に巨人がのっしのっし」というものがある。
『ふるさと 世田谷を語る』代田篇 世田谷区発行 2003年刊にこの逸話は載っている。
出典が記してある「改訂世田谷の民話」「世田谷の民話」(1986年)の改訂版である、今日的な創作童話である。その末尾の締めだ。
次の日代田で夜目に見た巨人は筑波山に腰をかけ、長いキセルを浅間山の煙で火をつけ、煙草をうまそうにすっていました。巨人は、黙って代田の方に顔を向けにっこりと。
文体から見て分かるとおり、代田のダイダラボッチ、巨人伝説をおもしろおかしく民話に仕立てあげたものである。たいがいこういうダイダラボッチは善人である。
(三)
「お話にでてくるダイダラボッチはみな善人なんですね、民話に載っているダイダラボッチもそうです。代田の人々が冬に吹き付けるつめたい季節風に困り抜いていた
不思議なことに男体山と浅間山の頂きに竿をかけて大きなモメンの着物で風を防いでいるのが誰にでも見えるのです。
これは巨人の仕業ですね。話をおもしろおかしくしている点はいいのですよ。しかし、物語を伝えるにはこれでは難しいのです。今まで出てきた代田のダイダラボッチはやさしいのです。苦労するとか、困るとかがない。やはり大切なのは聞き手の共鳴ですね。それを今に住む我々がどう工夫するかが求められている」と。私は言った。
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2026年08月04日
下北沢X物語(5465)-世田谷の子よ、文化を耕せ-

(一)小学生諸君、夏休みだな、けども暑い、シャアネィ、冷房のきいた部屋でSNSで動画でも見るか!……まてよ、今朝の新聞、ーSNS・動画「見る」ほど学力低くーとあった。どういうことか、ネットを見まくっているとおバカになるということだ。人間は動物だ、動いていてこそ命が保てるものなのだ、簡単に言えば自分で行なうことだ、キミには手があり足がある。これは使わないと衰える。夏休みだ自分の手足を使って動こう。「興味を持ったことを調べよう」という自由研究を課せられているはずだ。これは嫌々やってもおもしろくない。いっち大事なことはおもしろがることだ。世田谷にはおもしろいことがいっぱいある。簡単なものでいえば文化だ、文化は耕すということだ、土を掘れば匂いがする、これが文化なんだよ。あっちとこっちでは匂いが違う。それが文化なのさ。
しかし、一歩外へ出てみても代わり映えのしない風景があるだけだ。日常なるものはのっぺらぼうだ。しかしだ、大事なことは、われわれは時を積み重ねて生きてきている。ここがだいじだ。ただ眺めるとのっぺらぼうである。しかしここに何かがある、ほんの少し歩いただけでも何かがみつかるはずだ。
たとえば道である、ふだん何気なく歩いている道にも手がかりがある。道はずっと時間を生きてきている。注意してみるとここに手がかりはある。観察していくとまっすぐな道もある。でもよく見ていくと必ず一つや二つはある。なんとなく曲がっている道だ。そこはかとなく曲がった道は古道だと考えてよい。
今残っている道は脇道がほとんどだ大体が四五メートルぐらいだ。古道は古くからあるから両脇に緑が多い。歩いていくとお地蔵さんがあったり庚申塔があったりすると、これは間違いなく古道である。人々が通った道に思いをはせる。とても大事なことだ。
(二)

世田谷は、東京の中心から距離を置いている。これを都外れという。「武蔵野」を書いたのは国木田独歩だ、彼は、武蔵野の一番大事なところを町外れという。都心と郊外との境である。彼はここにこそ宝が眠っているという。その場所は、都市と田園との境である。世田谷などはどんぴしゃりだ。こういうところにこそ物語が数多く眠っている。
武蔵野はいまは家々で蔽われている。昔は緑が豊かだった。しかし、都心と比べると敷地は広い、いまも緑が残っている。これは人間の森である。今でも木々がある家には、おじいさんやおばあさんが住んでいる。そういう人たちは大概が都心で仕事をしてきた人たちである。学を修めたり、ものを創ったり、現場作業を行なったりしてきた人である。みんなひとかどの人物である。
ちょっと話を聞くといろんなことを教えてくれる。
「あのな、生きていくうえでだいじなのは、メモをとることだよ。いいか、人間はわすれっぽいのだよ。だからちょっとしたことでもメモを取る。書くことは大事だ、書いたことは記録にもなるし、覚えにもなる。ここがポイントだな。人は忘れて生きていく……」
「人間は、時間にはしごをかけて生きているんだよ。一段一段登っていく、そのときに覚えていたこと、記録していたことが役立つんだ。あのほら一流選手でもそうだよな。次のステップにいくときは、大事だと思ったことはメモを取る、それを見ながら次にいくんだ。記録のはしごを登っていく、これは大事なんだ」
(三)

私は、21年間、世田谷の学童に接してきた。代沢小では歴史記録を話したり、それから夏休みの自由研究のお手伝いをしたりしてきもした。この世田谷には自由研究の題材はいっぱいあるんだ、材料がとても抱負だ。
近いところではダイダラボッチがある、世田谷代田駅前に足跡のレリーフがある。これもおもしろい、用水もある、玉川上水だとか、三田用水もある。川の研究もおもしろい。北沢川、烏山川、蛇崩川などもある。鉄道もおもしろいよ。小田急、京王、東急とか。例えば、京王本線軌道幅は1345ミリ、これは世田線と同じだ、普通とは違う軌道幅なんだ、どうしてこんなものが世田谷を走っているのか。調べてみるのもおもしろい。
駒沢競技場は知っているだろう、管制塔前の広場は有名だ。ここ敷かれている石はみんな都電の敷石だ、園内いたるところにこれが使われている。これもおもしろい。
戦争遺跡も世田谷にはたくさんある。世田谷平和資料館に行って調べる。これもよい。
(四)

世田谷は都市と田園の境である、素材材料がたくさんある。小学生諸君、これらをぜひ調べたまえ。北沢川文化遺産保存の会は21年間世田谷の文化を調べてきた。ブログ「東京荏原都市物語資料館」は、その記録を網羅している。興味を持ったら検索まどがあるので、興味を持った単語をここに入れて調べてほしい。
私らは、「下北沢文士町文化地図」を創っている。これは世田谷区のホームページにも載っている。これも検索で調べて見てほしい。
自由研究をしたい場合には、世田谷邪宗門のおじさんか、おばさんに相談してみて、私、きむらけんにも直接質問をして、メルアドは「東京荏原都市物語資料館」載っている。
小学生諸君、自由研究を行なって夏をエンジョイしよう。
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2026年08月02日
下北沢X物語(5464)-文化サロンとダイダラボッチ-

(一)この間、馬込からこられた人と朔太郎が描いた『坂』の話をした。坂は感情の刺激装置だ、昨日、恒例の文化サロンだ、暑さめげることなく自宅から代田邪宗門まで歩いた。途中若林の坂にかかった。太陽が照りつける中急坂を上った。登りきった所で聳え建つ鉄塔57号が見えた。ひとりでに「ああ」と言葉が出た。詩人の『坂』冒頭は、「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ」だ、頂上に立ち止まって汗を拭った、下り坂では詩は生まれない。登り坂において詩は生まれるものだと私は悟ったのだった。坂のあなたには何かがある、ふと「カルメン」のセリフを思い起こした、山の向こうには金銀財宝が眠っている、流浪民はそれを夢見て歩いた。わたしもまた塔の向こうの世界を思った。実感認識だ、上り坂で詩は生まれるものだ。
今回文化サロン、話題は二つ、ダイダラボッチと731部隊だった。
ダイダラボッチに関しては企画がある。世田谷代田駅前広場にレンガで図案化したダイダラボッチの足跡ができた。これは当地に伝わる伝承である。足跡が駅前に出現したことで当地に埋もれていた伝説はビジュアル化した。伝承は人から人へと伝わって受け継がれていく。しかし地域全体でこれを支えて行く雰囲気は希薄である。
わずかに、代田八幡神社の盆踊りで、また下北沢盆踊りでも「代田ダイダラボッチ音頭が踊られている。
ダイダラボッチ伝説の普及は一番汗をかいてきたのが我ら「北沢川文化遺産保存の会」である。それは何時からだったか。こういう時に積は役立つ。
2004年10月01日
下北沢の魅力(18)〜だいだらぼっち伝説を求めて〜
隣接する地域にどれだけおもしろい話があるか。それによって地域の魅力も違ってくる。下北沢の隣は代田である。その地名は、いわゆるだいだらぼっち伝説からきている。巨人伝説である。
代田に守山小学校というのがある。そこが窪地になっていてそれが、だいだらぼっちの足跡だったという。それが民話にもなっている。
「代田の村は、雑木と畑の高台でしたが一夜あけると大きなくぼ地ができ、水も湧き田圃ができていたのです。」「つぎの日、代田で夜目に見た巨人は、筑波山に腰をかけ、長いキセルを浅間山の煙で火をつけ、煙草をうまそうにすっていました。巨人は、黙って代田の方に顔を向け、にっこりと」(「改訂世田谷の民話」より、「ふるさと 世田谷を語る代田、北沢、代沢、大原、羽根木)」
一番最初に取り上げたのが2004年10月01日である。もう22年も前である。守山小学校はまだ存在していた。今は統廃合して下北沢小学校となった。
(二)

我らの活動が因となって世田谷代田駅前にダイダラボッチの足跡のレリーフができた。実際我らは、ダイダラボッチをテーマとした朗読劇を行なったり、紀要を作ったり、歌を創ったりして伝承活動を続けてきた。昨年は12月に守山地区会館でダイダラボッチ討論会を行なった。代田のダイダラボッチを伝承する活動の一環である。今年12月5日にまた開く予定である。去年よりも少し大がかりに行なう。
タイトルを「代田ダイダラボッチ伝承大会」として梅とぴあで開催する。
「代田ダイダラボッチの紙芝居」 笠原一守さんなど
「代田ダイダラボッチの映像画の上映」 名取典男さん
「代田ダイダラボッチとは何か」 口演 きむらけん
「代田ダイダラボッチ音頭」の紹介
世田谷区教育委員会へ後援申請を行なう。
文化サロンで話題になったのは地元の反応が今一つだということである。
「相模原にダイダラボッチの伝承があるので、関係箇所を訪ねたのです。地元の人は『ダイダラボッチ』のことは知っていました。『学校で習ったから」とのことでした。」
「学校へ紙芝居の上演を申し込んだのですが、反応は弱いのです。先生方が忙しいから手伝えないとか」とこれは笠原一守さん。
「ダイダラボッチについて地元は専門的に話せる人がいないということもあります。」
これは地元の山本裕さん。
三
「この間、世田谷代田の古関裕而を巡るを笠原さんがAIに漫画を創ってもらいました。あれ結構好評でした。今回はポスターを印刷して学校や図書館などに持っていこうと思います。小中学生は無料としましょう」
(写真、邪宗門前で老マスター作道さん奥さん、元気です。文化サロンの記念写真)
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2026年08月01日
下北沢X物語(5463)―北沢川文化遺産保存の会会報241号―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第241号
2026年8月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 �冢�
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:https://rail777.livedoor.blog/
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1、下北沢文士町の形成と横光利一 きむらけん
下北沢には文士が大勢集まって来た。その先鞭をつけたのは横光利一である。彼は北沢に家を建てた。このときのいきさつを記した作品がある。『睡蓮』、その冒頭である。
もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰(かつ)好(こう)なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下(しも)北(きた)沢(ざわ)という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が
洩(も)らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
書き出しの年号は重要だ、この作品、初出は一九四〇年、昭和十五年七月『文藝春秋』である。計算すると十四年前は一九二六年(昭和元年)である。季節については引用文の次に、「秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄(うす)闇(やみ)の中に際(きわ)立って白く見えていた。」とある。一九二六年秋、十一月である。
当時、彼は阿佐谷に住んでいた。阿佐谷文士村である。重鎮は井伏鱒二である。彼が著した『荻窪風土記』(新潮文庫 2014年)にはこう記されている。
横光はときめく花形作家になって。私の生(しよう)涯(がい)のうちで。こんな華々しい文壇進出をした人を見ない。暫くすると、新感覚派運動を実作で推進する態度を明確にした。やがて文学の神様という代名詞が定着し。たくさんの模倣者が続出するようになった。
横光利一は阿佐谷文士村では一目置かれる存在であった。文士仲間で飲んでの帰り、「まだ彼の書斎には灯りが点いている」と流行作家の仕事ぶりを羨んでいた。
この『荻窪風土記』には、当時、昭和初期であろう、東京の文学青年の動向を記している。
当今、 最新の文壇的傾向として、東京の文学青年の間では、不況と左翼運動とで犇(ひし)めき合う混乱の世界に敢(あ)えて突入するものと、美しい星空のもと空気の美(う)味(ま)い東京郊外に家を建て、静かに詩作にふけるものとこの二者一を選ぶ決心をつけることが流行っている。
阿佐谷そのものが東京郊外である、文士が集うには駅は必須だ、ここには官鉄阿佐谷駅があった。東京郊外の一角である。が、人が集まってくれば静寂でなくなる。当地で誰もが注目する横光利一である。人が煩わしい、それでさらなる郊外に越して行きたいという願望があった。どこがいいかを考えていた。そんなときに「家を建てるなら北沢へんにしたいと」友人が言っていた。
その北沢へは「電車を幾つも乗り換え北沢へ着いた」この径路が気になる。時が「一九二六年(昭和元年)」であればまだ小田急は開通していない。横光家の至近距離にあったのは海外植民学校である。ここの最寄り駅は玉電三宿電停であった。阿佐谷からだと新宿渋谷で乗り換えることになる。
小田原急行鉄道は一九二七(昭和二)年四月に開業する。着工は一九二五(大正十四年)九月十一日である。鉄道敷設は規定のことで、これの開通によって一帯が便利になることは十分に知り得ていたはずだ。武蔵野を突っ切って小田原に向かう線は前評判も高かった。北沢の土地下見はこの情報を知った上での行動だろう。
先に引用した『睡蓮』であるが、家を建てようとする土地について作家はこう述べる。
大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植(うわ)っている平凡な畑だったが、周囲に欅(けやき)や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦(あ)きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
当地に越してきた横光利一は子息を近くの代沢小学校に通わせる。つい数年前に代用教員としてこの学校で教鞭を執っていたのが坂口安吾だ。彼はそのときの経験を『風と光と二十の私と』に描いている。
その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。
安吾は学校一帯が「ひろびろとした武蔵野」だったという。まさにその武蔵野に横光利一は家を建て転居してきた。もともと彼は武蔵野への深い憧憬があった。小説『春園』にはこういう一節があった「武蔵野の中の人も手に入れぬ雑木林が欲しくなって毎日ぶらぶら郊外を歩いてみた。林の中を少し開いてそこへ小さな家を建て野菜を自分の手で造り静かに自分の勉強をしてみたくなった」と。阿佐谷から北沢への転居は、彼が思慕する武蔵野への具体的な行動だった。
北沢の居宅は犬養健が居宅を「雨過山房」と名付けた、武蔵野の中に設えた家には雨音が風情を添加したのだろう。
この山房には、川端康成、菊池寛、大岡昇平、林芙美子、中里恒子など著名な文学者がここに集った。ここに文士サロンが生まれた。
2、『下北沢文士町の発展と形成 きむらけん』
「北沢川文化遺産保存の会」会報第240号の感想 赤坂暢穂
今まで文学はおろか表題のような論考に関心を抱いたことがなかったので新鮮な気持ちで読ませていただきました。とは言うものの地域の特徴について、少なからず取り組んできた者としては地域の形成、変貌の要因の分析は不可欠です。
表題の論考を一読しての印象はとても良く整理され、纏まっていると感じました。特に村と町の対比がうまく整理されていました。分析視角で村と町の歴史的発展過程の差異や都市社会学的考察が成功していたように感じました。今後の文化研究の基礎になることを期待しています。
論考の評価を下げる事ではありませんが補足した方が理解しやすいと感じた点がありますので以下に列挙します。
I 語義的差異の□2「町」が含意するもの、の �� 都市的開放性 �⊃Χ蛤�住 の説明に工業、職人、を挿入。
II 空間構造の差異 □2 文士町=都市混在型、の説明に交通結節点であり新宿、渋谷に至近距離を付記するとより特徴がわかる。また商店街、劇場・映画館、学校に加えて沿線に大学、映画産業が立地していたこと、神社、仏閣、キリスト教会があったことも追記すると良いと感じました。
3、恒例文化サロン開催のご案内
文化サロンは、地道に長く続いている。今度は第21回目である。
8月30日(日)14時から、場所は邪宗門。 世田谷代田1-31-1
人にとって大切なのは対話である、人はそれぞれに過去を持っている、話し合うとここから逸話がこぼれ出てくる、それがおもしろい。複数回を開催して思うことは、気の交歓だったと思う。いつもとは違うメンバーで話す、これはとても刺激になる、話すことで自身が開放される。生きていく上で大切なことはこの心の解放である。
会費は会員外は200円、会員は無料、各自が飲んだものは各自が払うというのが参加条件である。どなたでも参加できる。どうぞおいであれ。
4、前橋文学館へのお誘い
前橋文学館では「萩原朔太郎生誕140周年」を記念して「ふらふらふらぬ〜る 朔太郎の危険な散歩」が行なわれます。これに当会「下北沢文士町文化地図」を寄贈して館に協力したことから招待券が5枚送られてきました。一枚700円です。
前号で紹介しましたが希望はありませんでした。8月後半ならいける、と。幾田さん+友達プラスきむらけん。3名、券は後2枚あります。
日にち 8月23日(日) 何時の電車かも決めていません。
希望される方は、きむらけんまで申し込んでください。
5、代田ダイダラボッチ伝承大会
代田ダイダラボッチを後世に伝えるための活動としてこれを開催する。紙芝居、映像紹介、口演伝承などを企画している。期日は12月5日 会場うめとぴあ 午後13時から
企画も募集したい。踊りを踊ったり、劇をおこなったり、希望がある場合には連絡を。なお、世田谷区教育委員会に後援申請を出す予定である。
6、町歩きのご案内
毎月、皆が楽しめる町歩きを行っています。公募して希望者が4名集まったら成立します。雨天の場合は中止です。希望コースも募集しています。
第219回 佐藤愛子を偲ぶ三軒茶屋町歩き
日時 9月20日(日)13時30分 田園都市線三軒茶屋駅改札前
案内者 幾田充代さん
コース:山田風太郎旧居→左卜全旧居→太子堂八幡神社→佐藤愛子旧居→大村能生旧居→平川唯旧居→三好達治旧居→畑元帥旧居→永井叔旧居→林芙美子旧居→三軒茶屋駅
〇佐藤愛子さん、2026年4月29日に亡くなられた。当会、北沢川文化遺産保存の会は、過去に佐藤愛子宅を含む、三軒茶屋文学散歩を行ってきた。佐藤愛子さんが亡くなられたのを機に彼女を偲ぶ町歩きができないかと考えてきた。それで9月20日に実施することにした。集合場所は三軒茶屋駅で時間は13時30分である。山田風太郎旧居、左卜全旧居、佐藤愛子旧居、三好達治旧居などをめぐる、佐藤愛子ゆかりのお店などもめぐりたい。
第222回 下北沢の秘密を歩く
日時 10月17日(土)13時30分 世田谷代田駅西口
案内者 きむらけん
下北沢には秘められた歴史が埋まっている、その旧跡を訊ねていく。
〇コース;下北沢静仙閣跡(文化人多数滞在)→秀楽園(映画人多数)→下北沢店員道場跡(ヒットラーユーゲントの来訪)→詩神社跡(萩原恭次郎)→小野寺将軍旧跡→寺岡謹平海軍中将旧宅→北沢文化集宅跡(文化人多数)→北沢会館(宮柊二他)→石川正雄旧居(石川啄木ゆかり)→森厳寺にて解散
◎申し込み方法、参加希望(開催の一週間前までに申し込む)
会費は、会員500円 非会員600円 学生400円
宛先メルアド:k-tetudo@m09.itscom.net
編集後記
▲先日三軒茶屋で納涼会を行なった。会員がAIに北沢川文化遺産保存の会の会員だと告げた。すると「教養に満ち満ちた会に入っておられる」と褒められたそうである。
▲会員特典 町歩きでは割引がある。下北沢文士町文化地図を優先してもらえる。恒例、北沢川緑道の地図配りでは会員としてこれに参加できる、など。
▲会報に掲載する論考、随想、雑感を募集している。1200字程度。
▲会報のメール配信について 会報は会員と協賛社のみの配信とする。年会費1200円は、我らの活動を支える費用である。会の運営、また文学碑の保守などに会費は活用している。
会費については、事務局の『邪宗門』で支払うことができる。会費は、年1200円(会計年度1月から12月までです)また銀行振り込みもできる。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表:作道明。店番号022。口座番号9985506
会費未納の方はお支払いください。なお、会報については紙印刷を希望される方には郵送している。こちらは郵送費がかかるので1500円を戴いている。
◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集・発行者の きむらけん
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2026年07月30日
下北沢X物語(5462)-馬込文士村と下北沢文士町-

(一)文士町のことが世に伝わったのは新聞記事である。それは 朝日新聞 東京版「児童文学作家きむらさん ブログで報告 冊子に 自転車でたどる下北沢文士物語」2006年6月24日朝刊である。ここでいう冊子は「北沢川文学の小路物語」である。これを見てびっくりされたのは「馬込文士村 ガイドの会」の会員だ。馬込にいた文士たちと重なるからだ。萩原朔太郎、萩原葉子、三好達治、宇野千代。大田区とのゆかりでは東郷青児、佐藤惣之助、坂口安吾である。馬込が一次居住地とすれば下北沢は二次居住地だ。ここにどんな開きがあるか、それは月日の隔たりだ。ここに恋が絡んでくる。朔太郎は悲恋、妻が男と駆け落ちした。宇野千代は新たな恋をして東郷青児とコルビジェ風の新居を淡島に設けた。三好達治は萩原アイを恋したが詩人では食えないと断られた。言えば恋物語の顛末だとも言える。
宇野千代は東郷青児と淡島にコルビジェ風の白い御殿を創って生活する。夜、月影の射す寝室で二人は乳繰りあっている。阿川家の家の池のかわずがゲェーコ、ゲェーコと鳴いている。千代女はこう切り出す。「ねぇ、あなたのこれまでの恋物語を話してよ」と。
どこから話したらいいかな、としばらく考えてから彼はゆっくりと話はじめた。
これは千代女の『色ざんげ』の書き出しである。豊富な女性遍歴のある東郷青児である。あれもあるしこれもある。思い出の倉庫にたんと眠っていた。
『色ざんげ』は、昭和八年発表である、千代女三十六歳、色気たっぷりだったろう。
(二)
萩原葉子は、『天上の花』を著した。三好達治抄である。
馬込時代のことが描かれている。このときに一緒に暮らしていたのが叔母、ここでは慶子と書かれている。朔太郎の妹である。この彼女に惚れたのが三好達治だ。求婚をした。
「一定の職業についてない書生の身分で、大事な娘を欲しいとは、何と己知らずの人間か」と、三好さんに当て絶縁状のような手紙を送ったのである。
『天上の花』講談社文藝文庫 1996年刊
前橋の実家からは申し出を拒絶する旨の手紙が来た。収入の乏しい詩人には娘はあげられない。その慶子は、作詞家の佐藤惣之助と結婚をする。
その惣之助が朔太郎の葬儀を取り仕切る委員長を行なった。ところが、その四日後に彼は脳溢血で急死する。
三好達治にはまた再びチャンスが巡ってきた。が、彼は結婚をして二人の子どももいた。それでも詩人は思いを棄てられずに再度求愛をして結婚をする。
現実に戻る。馬込から来られたお二人を鎌倉橋たもとに建てた文学碑へ案内をした。
三好達治の文学碑だ。
(三)
「詩人と美人というのはそりが会いませんね。結局二人は別れます。そして三国から引き上げてきてこの世田谷代田にずっと三好達治は住みました。私たちはこの鎌倉橋のたもとに『寒窓一盞』の文学碑を建てました。町外れのこの代田で明治神宮から飛んできた小鳥を相手に一献を傾けるようすを描いたものです……」
「宇野千代の紹介で代田に来るのですね、来てみたところ師匠、朔太郎の近くだったと知って喜んだと言います。鉄塔繋がりで言うと朔太郎が61号、達治は57号なんです」
馬込から来られた人とは、折があれば情報交換をしましょうと。
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2026年07月29日
下北沢X物語(5461)-馬込文士村からのお客さん-

(一)先日、馬込文士村関係者の大田区区会議員の庄嶋孝広さん、太田文学編集者の中野健作のお二人が来られた。梁田貴之さんの紹介である。せっかくの機会だということで朔太郎ゆかりの「代田の丘61号鉄塔」をご案内した。「馬込を出て、そしてここに行き着いたのですね」『氷島』の「帰郷」がある、副題には「昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る」とある。この二年後の昭和六年に「府下世田谷町下北沢一〇〇八番地」に転居し、そしてさらに二年後に「世田谷区代田一丁目六三五」番地に引っ越す。晩年におけるさすらいの顛末である。この鉄塔下で朔太郎は亡くなった。終焉の地である。
「朔太郎『帰郷』の顛末の地ですね……」
詩の一節が思い起こされる。
わが故郷に歸れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
日本詩人全集14 萩原朔太郎 新潮社 1866年
ここで言う「母なき子」は、二人の姉妹だ。姉は、萩原葉子である。かつて彼女は自身が詩中に登場してくるこの『帰郷』についてインタビューを受けた。その時の経験を振り返り、「お父さんは嘘ばかり書いているのです」と記者に応えていた。これを読んで、
「それはそうだろうなあ」と納得したものだ。詩はどう巧く嘘をつくかである。
(二)

「ここに鉄塔が聳え建っていますね、これは『代田の丘の61号鉄塔』といいます、世田谷区地域風景資産になっています。我々が努力をして実現したものです。これは送電線ですね。じつはこの鉄塔は大田区と深い繋がりがあります。鉄塔ができたのはかなり早いのです。大正初期には完成しています。山梨県に桂川という川があります。ここで起した電気を大田区の六郷変電所に送るためにつくられました。京浜急行に電気を送っていたのです。それでこの線は、昔、桂川電力線と行っていました。これが東京電灯に買収されたのです、戦後は電気事業が一本化されて今は東京電力が所管しています……」
「この『代田の丘の61号鉄塔』は萩原朔太郎とその娘萩原葉子の生存痕跡を記すものとして世田谷区の地域風景資産に認定されました。二人とも馬込文士村ゆかりの住民でしたね。」
萩原葉子は馬込小学校、この代田では東大原小学校に通っていた。
「じつは、この鉄塔を地域風景資産にするには確たる理由が必要でした。萩原朔太郎がこの鉄塔のことについて何か書いていればいいのですが、これはありません。しかし、萩原葉子の場合は違っていました。彼女はこの代田の家では虐待を受けていました。朔太郎のお母さんにいじめられていました。思春期の心穏やかでないときに、『私はあの鉄塔に登って死ぬ運命にある』と自伝小説に書いているのです、『あの鉄塔』というのは今目の前に見えている鉄塔です。ゆえにこれが決め手となったのです」
(三)
「この萩原朔太郎邸によく来ていたのは佐藤惣之助ですね、朔太郎は人を呼ばないですね、お母さんが嫌っていたそうなんです。が、惣之助は別格、人気作曲家で興が乗れば彼自身が作曲した『赤城の子守歌』を歌っていました。彼の奥さんが萩原アイ、朔太郎の妹ですね、この二人の住まいは大田区東雪谷なんですね。旧番地は分かっているのですがピンポイントで探し当てていません、荏原病院の近くですけどね……」
萩原朔太郎は、昭和十七年五月十一日に死去する。その葬儀委員長が佐藤惣之助である。彼は四日後に脳溢血で急死している。これがさらなるドラマを生む。
(写真は邪宗門で)
rail777 at 18:43|Permalink│Comments(0)│



















