アニーパイル劇場
2020年07月25日
下北沢X物語(4051)―アメリカ合衆国大使館への手紙―

(一)「東京荏原都市物語資料館」には文化の鉱脈が何層も埋まっている。何番の鉱床のどこそこに何々があるかは不明だ。が、外部の人は、整理されているはずとの前提で問うてくる。昨日も、電話があった。「徳永君、御存じでしょう?彼は英語が得意だったので全国大会のスピーチコンテストで優勝して新聞にも大きく載ったのですよ!」「えっ?……徳永君って誰でしたっけ?」、「ああ、あれです、ミドリ楽団が初めてワシントンハイツの学校に慰問に行くでしょう……」これを聞いて思い出した。そうかあれは徳永君だったのか?……相手は湯河原の鈴木さん、代沢小の卒業生だ、マリンバの安倍圭子さんの同級生である。彼と喋っていたら、「安倍圭子さんはミドリ楽団のことをアメリカ国民に知って欲しいと言っていました」と聞いて、「そんなことであればアメリカ大使館に本は送っておけばよかった」と。彼女カーネギーホールでも演奏している世界的なマリンバ演奏者だ。話は二転三転し結論としてはアメリカ大使館に手紙と本を送ることになった。
戦後における日米親善を物語るものが「ミドリ楽団物語」だ。が、本が出版されてこのことはほとんど話題にならなかった。
「私もね、あの話はもっと話題になると思いました」
鈴木さんもそう思ったようだ。続けて彼はこういう。
「しかし、戦後の世相というものがありました。厳しい面がありましたね。ミドリ楽団が活躍し始めたのは戦後すぐのことでしょう。大戦で敵のアメリカに親戚などがやられたとか、家を焼かれたという人が多くいた時代ですよね。『敵であるアメリカ人を慰問するなんてけしからん』という空気は確かにありましたよ……」
「確かにそうですね、子供は『ミドリ楽団』に入りたいと思っていたけど、親が許さなかったというのもありましたね」
戦争に負けて価値観は大きく変わった。軍国主義から民主主義へ、戦争に加担したものをつるし上げるということも行われた。
学校で教鞭を執っていた教師も問われた。が、戦中教育はまずかったと表だって反省する者は少なかった。時流に乗る教師もいた。
「疎開から帰ってきて教室に行ったら、元海軍にいたという先生、アメリカ兵が着るよな上っ張りを着ていました。その先生が黒板に『START DASH』と書いたのです。今でも忘れられない光景です」
元山崎小の疎開生徒の証言だ。
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rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)│
2020年05月30日
下北沢X物語(4014)―「ミドリ楽団」米軍慰問デビュー―

(一)「下北沢文士町」にはひっそりと歴史が埋もれている。その一つが「ミドリ楽団」である。元薔薇族編集長の伊藤文学さんは昭和19年に代沢国民学校を卒業している。6年のときの担任が浜館菊雄先生だ。「あだ名をハマカンと呼んでいた。浜館先生、絵が上手で勉強のできない子の顔を黒板に描いた。この先生の思い出ってそんなことしか覚えていない」と。が、「その浜館先生が、戦後、すごい仕事をしていた」と「ミドリ楽団物語」を読んで文学さんは知った。その楽団を率いていたのは浜館先生で、各所で演奏活動をし、ついにはアニーパイル劇場(東京宝塚劇場)で3日間の連続公演に及んでいる。その評判はアメリカ本国に伝わり全米でテレビ放映された。その立役者が浜館菊雄先生であり、発足時の重要メンバーが安倍圭子さんだったのだ。
安倍圭子さんに二度目の電話をして分かった。彼女が「ミドリ楽団」入ったのは小学4年生のときだった。
「代沢小の3年は担任は常田先生でした。4年生になって担任を受け持たれたのが浜館菊雄先生です。ですからミドリ楽団に入ったのはこの時です」
「とすると、後打ちリズムの入団テストは4年生のときの話だったのですね?」
「そうそうそうなんです」
浜館先生は音楽の先生だ、戦前にもうバンドクラブを作った。戦争に突入し学童たちは浅間温泉に疎開する。そのときに疎開先に楽器を持ち込もうと提案したのがこの先生だ。疎開先では「浅間楽団」を作り子どもらを指導していた。
昭和20年になって戦争は激化してきた。疎開先の浅間温泉も安全ではないということで代沢国民学校は塩尻近辺の寺に疎開する。
洗馬の真正寺は、浜館先生が受け持った。この寺には音楽が好きな子を集め、先生は指導をした。
戦争が8月に終わった。が、東京に戻れたのは11月になってからだ。学校は翌年昭和21年から動き出し、先生は「ミドリ楽団」を発足させた。
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