世田谷代田
2020年12月05日
下北沢X物語(4139)―古関裕而と世田谷代田―

(一)朝ドラ「エール」は評判だったようだ、先月27日に放映が終わって、視聴者は寂しかったようだ、「これは物語の話で現実を元に作られたものだ」古関裕而はどこに住んでいたのだろう?「古関裕而、住まい」で検索を掛けてきて当方に繋がる。こちらは代田の古関裕而である、代田という土地環境が彼に影響を与えていないか?作曲家は昭和6年に代田にやってきた、そして当地で平成元年に亡くなる。約半世紀を当地で送った。葬儀も地元円乗院で行っている。世田谷代田は愛着の深い地であった。が、テレビでは代田のダの字も出て来なかった。代田という環境があって彼の音楽は生まれたと思うのだが、番組ではここに一切関心を払わなかった。
(二)
古関一家は、戦時中空襲にも遭遇した、いわゆる山の手空襲ではB29が間断なく飛んで来て焼夷弾の雨を降らせた。
防空群長の妻は隣組を守るために大活躍。日頃の訓練も世田谷区で一二の成績だったので、隣組に落ちた焼夷弾は不発弾もあったが、たちまち各自協力して消火し、我が家は焼けなかった。(「鐘よ鳴り響け」古関裕而自伝 集英社文庫 2020年刊
ここでは東京空襲、三月十日のこととして書かれている。この時に、焼夷弾は落ちていない。五月末の山の手空襲のことではないかとお孫さんの松本幸子さんに問い合わせたところ「そうだ」とのこと。
「私はテレビはずっとみていますよ。金子さん役の音という人は、金子さんそっくりだね」
金子さんが通っていたという世田谷代田大曽根歯科医院の大先生の証言だ。テキパキとしていたらしい。金子さん防空群長を務めていた。アルトが一帯に危機を告げる。
『空襲警報、空襲警報』
「彼女の声はよく通ったわ、聞き惚れて逃げるの遅れるぐらいだったわ」
「そうそうバケツリレーのときの指示もしっかりしていたわ、『バケツの水は半分にせよ』ときれいな声で言っていたわね……」
「そうそうバケツじゃなくて、彼女、女傑だったわね」
「エール」撮影前には下調べがある。一度、デレクターと一緒に代田を歩いた。
「住まいの近くに喫茶店を設定することになっているんですよ」
「いや、あのあたりにはそんなの無理ですね、肥だめはありましたよ。そういう店らしい店はありません、田舎ですよね……」
実際「エール」ではたまり場としての喫茶店が出てきた。当時の代田だとすればこじゃれている。
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2020年10月17日
下北沢X物語(4107)―「エール」と検索と古関裕而―

(一)ブログへのアクセス数は記事への関心を測るものさしだ。百を超えたときは間違いなく何かがあったときだ。10月16日は167件だ、調べると古関裕而関連の記事へのアクセスだ。当日「エール」をチェックする。空襲、「比島決戦の歌」、終戦だった。視聴者は空襲に着目したのか?試みにGoogleで「古関裕而 空襲」と入れるとトップに来る。5月25日にB29が「屋根上三、四メートルすれすれに滑空し、根津山の向こうに落ちた」(『鐘よ鳴り響け』)と書いている。B29の巨体が腹を擦らんばかりに代田の自宅の上を飛んでいった。古関裕而は「もうだめだョ」と絶叫したという。機は火を噴いていた、音も物凄い。ズシンとという音、赤堤に墜ちた。が、テレビの空襲は豊橋のだった。「比島決戦の歌」の逸話があって玉音放送だった、エールの戦争は終わった。視聴者は一区切りがついて、古関裕而関係の検索に掛かったようだ。
戦争も末期になってくると古関裕而のところには軍歌の依頼が多くなってくる。特攻機での攻撃も苦肉の策だった、中古機を使えば金が掛からない、取材した元特攻隊員が「最も低廉な戦法だった」と言っていた。軍歌も同じだ。鉄砲数十丁分の経費で国民の戦意を高揚させることができる。
テレビでは「比島決戦の歌」を巡っての話が出てくる。
歌についての「検討及び作曲者への注文」などについての会議が持たれた。これには作詞家の西條八十、作曲家の古関裕而、「新聞社の幹部・軍部の将校等が参集」した。
テレビのセリフでは軍部将校がこう声を荒げた。
「君の意見などどうでもいい、我々は勝たねばならないのだ!」
将校は西條八十の批判に対してこう切り返した。その将校の言い分だ。
「自分が小さい時歌った小学校唱歌『水師営の会見』の中に、敵将ステッセルの名が入っているのが印象深く残っている。この際ぜひとも敵のマッカーサーとニミッツの名前を入れてくれ、そして敵将の名前を国民に印象づけることが一番だ。」
と強行に主張して譲らない。西条氏は、
「そんな勝手なことを言われても入る余地はないし、人名を入れるのは断る」
『鐘よ鳴り響け』古関裕而自伝 集英社文庫 2020年刊
結局は、歌詞を次のように改変した。
出て来いニミッツ、マッカーサー
出てく来りゃ地獄にさか落とし続きを読む
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2020年09月21日
下北沢X物語(4090)―世田谷代田の古関裕而を歩く2―

(一)「ひるのいこい」は大好きだ。聞いていると懐かしさがこみ上げてくる。田圃や田や畑、そして山や川が自然に浮かんでくる。古関裕而の作曲法は独特だ、「情景を思い浮かべさえすれば、私は新しい音楽が聞けるのだ」(『鐘よ鳴り響け』古関裕而自伝)と、脳裏に情景を思い浮かべると曲が浮かんでくる、それを譜に書き写し取っていったと言う。しかし、書斎でずっと作曲していると風景が枯渇してもくる。そんな場合は、「近くの雑木林に行った」と彼は言っている。この雑木林こそは「根津山」に違いない。彼は故郷の風光を思い出しながら作曲したともいう。折に自宅から150メートルほどの根津山に行っては心を落ち着けた。散歩で曲想を蘇らせ、多くの曲を書いた、根津山は曲を創るときにとっかかりを与えた場ではないか。それで第二番目の居住地のトピックを根津山とした。
私たちは、羽根木公園・根津山から古関裕而旧居に向かった。世田谷代田で二番目に住まった場所である。(旧・1丁目408番地の家)
「古関裕而は世田谷代田では三箇所に住みました。この転居は作曲家としての成長過程ではなかったかと思います。言ってみれば、ホップ、ステップ、ジャンプ、ここ二番目が最も重要なところだった。居住期間は、昭和十年から昭和二十四年までだった。コロンビアの専属作詞家になったがなかなかヒット曲ができない。ようやっとできたのが『船頭可愛や』だった。これが昭和十年だ。続いて戦争時代には多くの軍歌が創られ、終戦を迎え、こんどは平和的な歌曲、『とんがり帽子』や『長崎の鐘』が創られました。激動の時代をここで生きたのです」
*居住年については、昭和十二年だったかもしれないと幸子さんから聞いている。
「この裏手すぐのところに小田急線が走っています。25パーミルという急勾配を急行が疾駆していくのです。車輪の破調があるいは『暁の祈る』の曲調に影響したかもしれません。小田原行きの急行が、がたたんたんたんと通ったときに、『ああ、堂々の輸送船』というメロディが生まれたかもしれません」
「誰でも知っている『とんがり帽子は』は、昭和二十二年です。作詩は菊田一夫、彼は今の奥州市に疎開していました。ここにある明治記念館のとんがり帽子がモデルになっていると言われる。しかし、作詞家と作曲家では風景が異なりますね。古関裕而はここ世田谷代田の根津山の麓、この家の北側は小高い丘、「私の家も赤い屋根でしたよ」ここに居住していた古老今津博さん、また近くの連句の宗匠宇田零雨は自宅を『柿緑園』と称した。緑が豊かだったからです。『緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン』、尖った鐘楼もありましたよ。中原教会のこれは尖っていましたね。そこらあたりふらつくと、メェメェと子ヤギが鳴いている。当時ここらへんにあった風景ですよ」
「鐘と言えば、『長崎の鐘』ですね、レコード発売は昭和二十四年(1949)年七月、ここから引っ越したのは九月ですから、ここで作曲されたのですね……戦争と平和が創出された家がここですよ。そう思ってみると感慨もひとしおですね。それらの歌に、一帯の土地柄が影響を及ぼしていたと考えると曲が豊かになりませんか?」
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2020年07月19日
下北沢X物語(4047)―古関裕而の代田空襲経験3―

(一)戦争末期、山手空襲で重爆撃機、一機のB29が経堂に墜落した。人々の記憶に強烈な印象として残っている。が、戦後七十五年、これも記憶の彼方に消え去りつつある。ところが代田に住んでいた古関裕而はこれを目撃していた。高射砲に被弾して墜落するまでの経緯は詳らかではないが、古関証言はこれを明かす証拠にはなりそうだ。当該機は千歳烏山の北部を東から西に抜ける途中、高射砲によって砲撃された。巨体は即座に火を噴いた。世田谷代田でこれを見ていた人々は、「万歳!」を唱えた。が、その手負いの機が東から一直線に飛んで来た。拍手を送っていた人々は恐怖した。案の定上空に来ると機は危険回避のために積み込んだ焼夷弾を落とした。「焼夷弾だ、消化しろ!」代田4丁目の今津さんは直ちに消化活動を行った。この証言によって墜落した機、西から来たGame Cook Charlee は代田に直進したきたことが分かる。この後、機は大きく右旋回をした。このときに屋根すれすれに飛んで来た。これを見て古関裕而は、「もうだめだよッ」と叫んだという。
赤堤に墜ちたB29のことは当ブログ何度も取り上げた。これまで関係箇所は実際に足を運んで調べてきた。
まず、千歳烏山の高射砲陣地だ、これは高射砲第百十二聯隊に所属する高射砲隊だ。
昭和20年4月24日夜、西から陸続とB29の編隊が侵入してきた。これを迎え撃ったのが千歳の高射砲だ。放った一発が敵機第4エンジンを直撃した。右翼端についているこれをやられて機はバランスを崩した。右端発動機が弱くなるから機は自然と右旋回をする。
当夜、代田4丁目10番に住んでいた今津博さんはこれを見ていた。丘の上にからは西の方がよく見えた。サーチライトに照らされた編隊がよく見えた。これに向かって近隣の高射砲がつぎつぎに火を放った。ほとんど当たることはない。ところがこの夜、一機に見事命中した。ずぼんと右翼に当たった、とたんに機は火を噴いた。
「当たった!当たった!」
隣組の人と一緒にこれを見ていたが皆喜んだ。
「万歳、万歳!」
小躍りして喜んだ。
『だいたいあのお客さんは中央線沿いにこちらに真っ直ぐに飛んでくるんですよ。それを見ていたところ、ブスッと当たったものだから喜んだんですよ。ところがその当たったやつがこちらに真っ直ぐに飛んで来たんですよ。恐ろしかったですよ。そして多分、危険を避けるためでしょう。焼夷弾を捨てるように落としたんですよ。家にも落ちてきたもんだからさあ、大変、消化活動をしてやっと延焼を食い止めました』
代田の古老今津博さんから聞いた。その彼も亡くなってしまった。
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2020年07月17日
下北沢X物語(4046)―古関裕而の代田空襲経験2―

(一)昨日の夕刊に「五輪×朝ドラ 期待はとぎれない」の見出しがあった。朝ドラ「エール」の故郷、福島で観光客を期待する動きを報じていた。一方、作曲家の東京での本拠地では何も起こっていない。朝ドラに世田谷代田が出てこないからである。が、却ってその方がいいだろう。密かな舞台は密かである方がよい。自伝「鐘よ鳴り響け」では作曲法の秘策が語られている。彼は楽器を使わずに直接に五線譜に曲を書き込んだ。この場合、「書くこと自体がまだるっこい」と。「それよりは、ジッと耳をすましている方がいい、情景をしっかり思い浮かべさえすれば、私は新しい音楽が聞けるのだ」と言う。情景はすなわち景色だ、回想されるのは故郷福島だ、が、住んでいたのは世田谷代田である。思ったことは、ここにある根津山が模擬故郷、曲想を得るために歩いたようだ。
世田谷代田での空襲経験だ、いわゆる3月10日の東京大空襲が強烈な印象としてある。この一帯では、北沢一丁目に住んでいた宮脇俊三がこの夜のことを記録している。
頭上にはB29の群れが、これまでにない低空で、つぎつぎに現われ、探照灯を浴びながら東へゆっくりと旋回していた。低空を飛ぶB29は、冬空を高々度で飛んでいた銀一点のそれとは違って、怪鳥のように大きかった。しかも、あとからあとから絶え間なく、轟々とやってきた。ちょっと途切れてホッとすると、すぐまた新しいB29が続々と現れた。それはもはや「お客さん」ではなかった。やっぱり東京を焼く気か、と思った。
宮脇俊三鉄道紀行全集2 増補版 昭和時刻表史 角川書店 平成11年刊
東京大空襲の目標地点は家屋が密集する下町だった。東のそこへ向かうB29が世田谷上空に飛んできた。これ以前は高射砲での砲撃を恐れて高高度を飛んでいた。が、陸軍の応戦は大した威力はなかった。それで3000メートルという低空で怪鳥が地上を舐めるように飛んでいった。これを見ていた人々は恐怖に駆られた。
この時のことは、「鐘よ鳴り響け」ではこう書いてある。
三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルぐらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるのか分からぬ悲痛なものだった。
近隣の人の合いことばがあった、「何かあったら根津山に逃げろ」と。ここには横穴式の大きな防空壕が掘られていて、かなりの人数を収容できた。
居宅から根津山の防空壕は近い、150メートルほどだ。が、この間に小田急線の線路がある。これを越えていかなくてはならなかった。
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2020年07月16日
下北沢X物語(4045)―古関裕而の代田空襲経験―

(一)「鐘よ鳴り響け」は、古関裕而自らがまとめた自伝である。記録としてもまた文芸エッセイとしても勝れている。表題には時間軸と価値転換が象徴的に表されている。戦争時代から平和時代へ。鐘は「長崎の鐘」の響き、加えて「とんがり帽子」に出てくる、「鐘が鳴りますキンコンカン」の音も入っているだろう。一つには平和への願いだ、またもう一つには鎮魂の意味がある。彼は、「軍歌の覇王」とも言われた。数多くの軍歌を作った、「露営の歌」によって送られて行った兵士たち、「荒鷲の歌」によって、特攻への決意を固めた兵士もいた、これら兵士たち、さらには国民への自らの悔悟の意味を加えて、「鐘よ鳴り響け」としたのではないかと思う。
「鐘よ鳴り響け」には世田谷代田で経験した空襲のことが記録されている。一つは、昭和20年3月10日の東京大空襲である、もう一つは、5月25日の山の手大空襲である。この二つは、大きな空襲でよく覚えられているが、年が明けて連日のように敵機が襲ってきた。恐ろしかったのは2月25日だ。
午後二時、突然、空襲サイレンが雪空を震わせた。管理室のラジオを聞きに行ったカノ子が、息をはずませて帰ってくる。
「戦爆連合よ、B29の大編隊!」
氏家君が、うっとうめいた。私も、胸の中の黒い風の塊が吹き抜けた。巨大なB29が、戦闘機の護衛をつけて、東京の上空に現れたのは今日がはじめてだったからだ。
「日本空襲記」 一色次郎 文和書房 昭和四十四年刊
管理室とは、静仙閣のことだ、北沢一丁目一一一三番地、代田二丁目との境に建っていた。一帯に空襲警報が鳴り響いた。
これまで飛来してきたのは高空を通る、重爆撃機B29だけだった。が、この時、爆撃機はお供に艦載機を引き連れてやってきた。こちらは軽量だけに飛行は自由自在だ、人がいれば機銃で狙ってくる。どれほどこれが怖かったことか。
サイレンが鳴ると共に隣組の防空班が活動をし始める。
「くうしゅうけいほう!」
町内を駆けて危険を知らせる。
「くうしゅう〜けいほう〜」
隣り町の代田一丁目ではこれを美声で発する人がいた。
「あの人の、空襲警報を聞くともううっとりしちゃってだめね」
ドラマチックソプラノで唱えている人がいた。
「鐘よ鳴り響け」を読んで初めて知ったのは、古関裕而の奥さん、古関金子さんは防空群長であったのだ。3月10日の空襲のときは大活躍をしたようだ。
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2020年07月08日
下北沢X物語(4040)―帝国音楽学校の英才教育2―

(一)今回手に入った写真には40名の人が写っている。証言者の渡辺さんは「おさらい会」の後の記念撮影ではないかと言われる。が、丹念に見て行くと、「おさらい会」ではなくもう少し規模の大きい「練習発表会」ではなかったか?このことから推測するに帝音が深く関わっていたであろうことだ。ふだんは帝国音楽学校の学生を教えていたが、小学生などの学童や生徒にも教えていたようだ。昭和12年の末のことだと思われる。始まりは春だったのだろうか、練習の積み重ねがあってそれを披露する発表会が開かれた。演目は不明である。証言者の話からピアノの発表はあったことは確かだ。想像するに歌曲独唱、バイオリンの発表などもあったのではないか。興味深いことは帝音の学生が参加していることである、これは写真から覗える。
手に入った集合写真にはどんなドラマが隠されているのか。これを推理し、読み解く面白さがある。写真には40名の人が写っている。この人々によってどんな会が催されたのか。
◎会は、「おさらい会」なのか、「発表会」なのか。
証言者の渡辺さんは、「おさらい会」があった後の記念写真撮影だという。
「おさらい会」はお稽古ごとでよく使われる。これは、日々積んできた練習やレッスンの成果を発表しあう会のことである。
結論から先に言うと、これは、「おさらい会」ではなく「発表会」であったと推理される。写真では、発表者が写真前列に坐って記念写真を撮っている。(掲出写真)
〇開催場所
明白である、帝国音楽学校講堂である。収容人員がどれくらいなのかは不明である。写真に写っている人の数からして大勢の聴衆を予定して会は開かれた、プログラムがあってこれに基づいて開催されたと思われる。
〇観客
「おさらい会」という場合、観客は呼ばない場合が多い。が、「練習発表会」の場合は人を呼んで発表する。
このとき観客はいたのか、いないのか。結論は「いた」である。
理由は、六人が花束を持っているからである。発表者の関係者が会が終わった後に花束を発表者にあげたと考えるのが普通である。
おもしろいのは、女学生の一人がフランス人形を持っていることである。
孫娘が発表会に出るというのでおじいさんか、おばあさんがその子に持ってきたのではないか?
写真の右手後方に和服を着た女性が十数名ほど写っている。学校に音楽を習いに来ている子のお母さんではないかと渡辺さんは言う。
〇服装
いわゆる「おさらい会」の場合は、カジュアルでもよい。が、今回の場合は、発表者はフォーマルな服装をしている。学校に通っている男女は学生服を着ている。高女生ぐらいの花束を持った女子が2名いるが、振り袖を着ている。
全体に片手間の発表会のように思えない。振り袖にしても着付けが必要だ。日曜日に開催されたものではないだろうか?
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2020年06月25日
下北沢X物語(4031)―世田谷代田の古関裕而―

(一)古関裕而作曲「船頭可愛や」を聞くと家の近くにある万葉歌碑が思い浮かぶ。「草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我れは紐解かず寝む」(写真)だ。なぜか?曲と歌に描かれる思いが一致するからだ。曲では「千里離りょうと思いは一つ/同じ夜空の/エー同じ夜空の/月をみる」と歌われる。両方ともに思う主体が遠く離れたところにいる。歌は所謂「防人歌」だ、遙々と任地の九州筑紫へ向かって旅をする夫を思う歌だ。曲の律は民謡調で、遙けさ、長閑さがじぃんと伝わってくる。心の奥底に眠っている民族情感を歌が刺激してくる。歌が詠まれたのは天平勝宝七年二月二十九日、千二百六十四年前だ、曲を聴くと万葉集時代まで遡っていく。「ひるのいこい」にも同じ情調があってこちらを刺激してくる。
「船頭可愛や」は古関裕而、最初のヒット曲だ、苦難苦悩を重ねてやっと生まれた曲だ。レコードが発売されたのは昭和10年7月である。世田谷代田居住時代だ。最近知ったのは曲づくりに難渋すると彼は近所の雑木林を散策したとのこと。
同じ世田谷代田に住んでいたのは萩原朔太郎だ。昭和10年11月に散文詩風小説『猫町』を書いて上梓している。こう始まる。
旅への誘いが、次第に私の空想ロマンから消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。
朔太郎五十歳だ、旅への蠱惑感をすっかり失った自分を描いている。その様を弟子の三好達治は「旅行嫌ひの漂泊者」(『朝菜集』)と批評している。やはり近隣を漫歩していた。ほっつき歩いたときに「猫町」は発想された。
「代田の丘の61号鉄塔」下で「猫町」を書いた。冒頭、旅への感懐だ、旅への憧れがあったがもはやそれは消え果ててしまった。五十年も生きてきて感性が摩滅してきたのだろうか。それで考えたのは「主観の構成する自由な世界に遊ぶ」ことであった。
萩原葉子は「父・萩原朔太郎」(筑摩書房)でこう書いている。
私も道で父と逢っても、たいていはぜんぜん気がつかないですれ違ってしまう。
「お父さま……」と呼ぶと、ぎくっとあわててひょぃとソフトを取って、私に挨拶するみがまえになるのだった。
常に想いに耽って歩いていた。古関裕而の場合は近所の雑木林に行っては曲想を練ったり考えたりしていた。朔太郎の場合は雑木林よりも町だ。代田から下北沢方面に行きここの路地に行っては迷っていた。
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2020年06月20日
下北沢X物語(4028)―世田谷代田の萩原朔太郎と古関裕而―

(一)世田谷代田地区を縦貫する高圧線、駒沢線は風景としては特異である。代田線を併架しているからだ。駒沢線の線数は6、代田線は6、都合十二本だ。これらを抱え持つ高圧線は必然的に高さが必要となる。NO52号(現若林、東急世田谷線北)から74号(京王代田橋駅北)までの22スパンである。若林から代田橋駅までの約3キロ弱である。この代田線、詩歌音楽終焉ラインとも言える。なぜに代田線を詩歌音楽人を終焉の地ラインとしたのか?偶然か?57号、三好達治、60号、音丸。61号、萩原朔太郎、服部克久、63号、古関裕而・金子夫妻。62号下には川口慧海の碑がある。彼は黄檗宗の僧侶だ、読経しているときに一切蔵経の音に不審を感じた、これが発端となって鎖国をしていたチベットに侵入し、自身の疑問が正しかったと突き止めた人だ。音関係人だ。
代田線鉄塔物語
「鉄塔代田線沿いを詩歌人や音楽人の多くが終焉の地とした?あんたねそれは偶然ですよ。全く脈絡もないのですよ。生きているものは何かと意義づけをしたがる、線繋がりは意味はありません。単に気のせいですよ」
「終焉の地というのは、長年暮らしてきたその地で亡くなるということですね。萩原朔太郎は世田谷代田の自宅で昭和17(1942)年5月11日に亡くなっているのです。13日に居宅で告別式が行われています。このときの葬儀委員長が佐藤惣之助ですね。彼の奥さんが朔太郎の妹ですから親戚筋になりますね。この佐藤惣之助が作詞して古関裕而が曲をつけているのが何曲かありますね、有名なのが阪神タイガースの歌、六甲おろしです。当地での接触もあったように思います。それはそれとしてですね……」
「なんだ?」
「古関裕而 は平成元年(1989)年8月18日に亡くなっています。8月20日に通夜、21日に告別式が行われいるのです。これが代田円乗院です。自宅近くのお寺ですが、これも偶然といえば偶然でしょうね。萩原朔太郎の家から百メートルぐらいしか離れてはいないのですね」
「偶然だよ」
「そうでしょうね、萩原朔太郎の家の隣に住んでいた人、『くるしい、くるしい』という声が聞こえてきて、『わたしこわいものだからふとんをかぶってしまいました』、彼女は小学生ぐらいのときだったので、とても怖かったと」
「臨終のときの喘ぎが聞こえてきたというのはちょっとリアルだな。本当のことか」
「本当です、その当人から取材していますから」
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2020年06月17日
下北沢X物語(4026)―古関裕而と世田谷代田の音環境2―

(一)近代から現代へ、移動手段は大きく変わった。鉄道から車、飛行機へと。大勢を乗せて走る汽車に人々は抒情を感じていた。これが文学の素材となっていた。が、移動手段の高速化個別化によって抒情性は失われた、車、飛行機、新幹線には文学性は希薄になった。自身鉄道文学を調べているがこれの存立は区切られる。明治、大正、昭和である。隆盛を極めた鉄道文学も古典化しつつある。古関裕而は鉄道が活力を持っていた時代に生きた。かつての文学が鉄道に抒情性を見出していたが音楽もそうだったろう。古関音楽には鉄道という観点で興味を持つ。昨日、古関裕而の代田を歩いた。今は、鉄道は地下化したが彼が生きていた時代は地表を走っていた。昭和6年春に越してきたときは代田八幡神社の杜の鳥の声が聞こえてきた。加えて家のすぐ近くを走る電車の音も。
昨日、世田谷代田を歩いた。代田八幡神社にも行った。歌人、斎藤茂吉は、戦後この近くに住んでいた。
代田なる八幡宮の境内にわれは来たりてまどろみゐたる (歌集 つきかげ)
歌人は山形から代田に引き揚げてきて、息子、茂太さんの家に住んだ。ここには孫がいた。「茂吉の体臭」(斎藤茂太著 岩波書店 昭和三十九年刊)ではこんなエピソードが記されている。
近所を通る小田急の音を孫共が、マネして、「デンゴロン、デンゴロン」と抑揚をつけて電車遊びをするのをみて、「フゥん、デンゴロンか、うまいな、デンゴロンは」と妙なところで感心するのであった。
歌人は、孫が真似る電車の音形容を誉めた。確かにうまい、実際に聞こえていた音を工夫した擬音語に置き換えていたからだ。多分これは下り電車だろう。
世田谷代田駅を出た電車は始めはゆっくりでこのような音がする。モーター音とジョイント音を混ぜた音だ。代田八幡神社の裏手辺りまではこんな音である。問題はこの後だ、隣が梅丘駅で、ここへ向かって急勾配になっている。いわゆる二十五パーミルだ。急坂を下る故に音が連続していく。デデゴロロン、デデゴロロンとなる。急坂では更に勢いがつく。
デデデゴロロロ、デデデゴロロロと速度をさらに上げていく。そして梅丘駅手前の踏切で最高速度に達して、電車は空気にスポッと穴が開いたようにそこに消えてしまう。
「成瀬巳喜男監督は、あの梅丘の踏切はいい踏切だと言っていました」
映画プロデューサーの森栄晃さんから直接聞いたことがある。監督は踏切を描く名手だ。
『いいか、世田谷代田側からの急坂を急行は最高速度で下ってくるんだよ。そしてこの踏切に差し掛かって、一瞬に過ぎてゆくんだ。そのときに遮断棒がポンと跳ね上がる、すかさずここに和服を着た女を渡らせる。草履がいいな、磨かれたばかりのレールの上をまたいで行かせる、そうすると絵が生きてくるんだ』
「あの踏切はいい」と成瀬監督が批評したことから浮かんだ物語である。監督が言ったのではなく自分が想像したものだ。
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2020年06月13日
下北沢X物語(4023)―古関裕而と鉄道と世田谷代田―

(一)土地の文化と人間に深い興味を持っている。著名人の場合故郷の土地柄と絡めてよく論じられる。が、居住した都市への関心は希薄だ。群馬の前橋から来た人が世田谷代田が朔太郎終焉の地だと知って驚いていた。おらが地元の偉人は郷土ナショナリズムで語られる。この4月から朝ドラ「エール」が始まった。古関裕而・金子夫妻をモデルとしたテレビ小説だ、前者の出身地福島、後者は豊橋、土地では大きな話題となっている。古関裕而は世田谷代田に58年間住んだ。愛着深い土地だった。が、ドラマで当地が取り上げられることはない。つい先だって歴史という観点から「昭和に響いた“エール”〜作曲家・古関裕而と日本人〜」がBSで放送された。歴史文化は住環境と深い関わりがある。しかし、やはり当地のことについては触れられなかった。
BSは「英雄たちの選択」という題で主には古関裕而が作った軍歌を取り上げていた。彼は軍歌を多く作曲した。戦時中、軍歌が量産された。「日本の軍歌 国民的音楽の歴史」(幻冬舎新書 2014/9/19)の本の解説ではこうある。
軍歌は、日本史上、最も国民の心を掴んだ音楽だ。初めての軍歌「来れや来れ」が登場した一八八五年から終戦の一九四五年までに作られた曲は一万超。軍歌は、政府にとって国民を戦争に動員するための道具であり、国民には最も身近な娯楽、レコード会社・新聞社・出版社には、確実に儲かる商品だった。一九三七年の「露営の歌」は約半年でレコード売上六〇万枚超の大ヒット。一九三八年のミリオンセラー「愛国行進曲」は、第二の国歌といわれる定番曲となった。そこには、今では怖いイメージがつきまとう軍歌のまったく違う姿がある。誕生から末路まで、史上最大の大衆音楽の引力に迫る。
この解説を読んで思い起こした。元特攻兵故久貫兼資軍曹から聞いたことだ。「特攻作戦は最も安上がりな戦法だ」と、量産された軍歌も同じだ。
「軍歌は最も安上がりな戦法だ、稿料を払ったって大砲の弾一発分にも満たないだろう、軍歌を作って国民の心を狙うんだ」
実際このプロパガンダは効いた。歌で訴えられると弱い国民である。
軍歌で大ヒットした「露営の歌」は古関裕而作曲だ。先に述べたBSでもこの逸話を紹介していた。これが鉄道がらみでおもしろい。
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2020年04月26日
下北沢X物語(3991)―朝ドラ「エール」と世田谷代田―

(一)朝ドラ「エール」がこの4月から始まった。この余波を受けている。昨日もブログのアクセスが増えた。「エール」スペシャルなどの番組があってその影響らしい。我等のフィールドの世田谷代田に古関裕而は長年居住していた。それで彼については何度も触れてきた。2017年11月19日には、「世田谷代田も朝ドラに加えて」との記事を発信している。古関裕而夫妻の故郷の福島市と豊橋市がオリンピックイヤーの記念となる朝ドラをとの運動を始めた。当地世田谷代田こそは境涯の主舞台だ、運動のことは風聞でたまたま知ったことから「世田谷代田も仲間に入れてよ」とアピールしていた。事前の準備は早くに始まっていて、下調査ではNHKにも協力した。が、放送前に情報は漏らさないでと……が、本放送は始まった。もうヒミツはなくなった。
古関裕而は当地、世田谷代田に昭和六年(1931)から住んだ。その間当地では三箇所に住んだ。そして平成元年(1989)に物故された。その間、58年間を当地で過ごした。当然のことながら地元の人は彼のことを覚えている。このブログでは当地一帯に住まう文化人のことを取り上げてきた。彼に関するエピソードは何度も紹介してきた。
昨年だったろうか、事前調査があって私も局の人と会った。一緒に現地をフィールドワークしたことがある。
「当地での風景に高圧線というのがあります。世田谷代田ではどこでも目につきます。作曲家も常日頃見ていたと思います。ここには音楽関係の人が多く住んでいます。この高圧鉄塔と音楽家には少なからず因縁があります。かつては高圧線下は家は建たなかったのです。それでここを背にして家を建てれば、少々楽器の音がしても人に迷惑にならない、それで家を建てた人もいる。例えばここら辺近辺では大村能章がいい例です……この高圧鉄塔駒沢線は線が12本あります。五線譜二つ分ですね。ここに意味があります……作曲家は常に考えているのはサビですね、明けても暮れても考えている。これと高圧線との関係はまったく無かったとは言えません……鳥がここに留まるわけですね。動物のことですからバラバラッと留まるわけです。これが発想の源になったということもある……とある瞬間五線譜に鳥が来てパラパラッと留まった。『あ、これだ!』、サビのヒントをこれによって獲得した者もいる……古関裕而さんところも二階の窓を開ければもう向こうに高圧線が見えていましたからね」
道々そんな話をしたことを覚えている。
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2019年11月23日
下北沢X物語(3889)―朝ドラと世田谷代田と文化地図―

(一)当ブログでは「朝ドラに世田谷代田も加えて」と提案していた。世田谷代田で生涯を終えた古関裕而・金子夫妻の物語が朝ドラ「エール」として来年度放映される。夫妻の故郷福島市と豊橋市がドラマ化に当たって署名活動を行って実現したものだ。夫妻のそれぞれが青春時代を送ったのが福島と豊橋である。が、いずれも上京し世田谷代田に住まった。その間約60年あまり、ここが終の棲家だった。人生の大半を過ごした地だ。ゆえに加えてと。代田との関わりは帝国音楽学校だ、金子さんがここに入学したことが機縁となった。時を経て古関裕而は昭和史に輝く大作曲家となった。この地では多くの名曲を作曲した。そのプロセスが朝ドラでどのように描かれるのか興味深い。今回「下北沢文士町文化地図」には「古関裕而と世田谷代田」としてコーナーを設け、関連の写真を載せた。古関家の協力を得てのことである。
朝ドラは、連続テレビ小説の通称だ、朝の短時間視聴者を楽しませる、娯楽番組である。ノンフィクションではなく、フィクションである。よって代田という土地の固有性はリアルには描かれないだろう。が、夫妻が住むことのきっかけとなった帝国音楽学校のことはこのドラマの中では必ず出てくるはずだ。
なお、「下北沢文士町文化地図」改訂7版には「世田谷代田の音楽学校〜「帝音」の歴史〜として芸術学博士 久保絵里麻さんが帝音の歴史、及び年表をここに載せておられる。
今回、「下北沢文士町文化地図」改訂8版を刊行した。ここには「古関裕而と世田谷代田」というコラムを設けた。三枚の写真と一編の詩とを掲載した。一枚は、代田の自宅で楽譜を推敲する場面だ、二枚目は1933年頃(昭和8)代田の自宅前で長女を抱いた夫妻の写真である、三枚目は1938年頃(昭和13)駅のホームで撮った写真である。世田谷代田駅であるが、当時は世田谷中原駅と言った。
この駅で撮られた写真はぜひ載せたかった。この駅は、1945年5月24、25日の空襲で焼失してしまった。この世田谷中原駅の写真はずっと探しているが出てこない。それゆえに「世田谷中原駅」の駅名表示が出ているこれは貴重である。鳥居形の駅名表示版の前で撮られたもので「世田谷中原」の文字がはっきりと見える。
写真三葉と詩一編とを古関家に御願いして許可を得て掲載した。この詩もぜひとも載せたかったものだ。古関夫妻が代田に住み始めたころの様子が具体的に書かれているからだ。「春三月」と題されたこの詩には土地の固有性がはっきりと詠まれている。
・朝夕 美しい 富士の姿を窓から見て元気です。
世田谷代田から富士がよく見えた。
旧駅の跨線橋には富士見窓があって、富士の荘厳な佇まいがここからよく見えた。当地は富士の見える場所としては有名だ。
古関裕而夫妻が住んだ家の近くに斎藤茂吉が戦後に越してくる。やはり窓から見える富士のことを詠んでいる。
冴えかえるわれの住む代田の二階より
白糖のごとき富士山が見ゆ(歌集「つきかげ」)
古関裕而が住んだところは斎藤茂吉の家よりも一段高いところで一階からも富士が眺められた。世田谷代田に住んだのも富士がよく見えるところだからというのも一つの理由としてはあったろう。
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2019年03月08日
下北沢X物語(3717)―朝ドラ「エール」世田谷代田を歩く2―

(一)朝ドラは、連続テレビ小説の略称である、筋立てはフィクション、面白おかしく話を作って人を惹きつける。が、作曲家は現実に生きた人だ、それで人々は物語を信じてしまう。先だってBSテレビで「昭和偉人伝−人々にエールを送る歌作り 中村泰士・古関裕而一世一代のマーチ」という番組を見た。古関裕而が早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を作曲したのは有名だ。そのときのエピソードをドラマ仕立てにしていた。そのセリフだ、
「しびれをきらした応援部の学生は連日のように現れた。時には数名の大男たちが部屋を歩き周り、古関は曲ができあがる前にアパートの床が抜けないかと心配した……」
「紺碧の空」は昭和六年春、早慶戦で初お披露目がされる。時期的には世田谷代田でのことになる。しかし、ここはアパートではない、新居は平屋だった。ここら辺りは面白おかしく語っている。
上京直後の昭和六年(一九三一)年四月、音楽学校進学を強く希望していた古関金子は待望の帝国音楽学校に入学した。そのためもあり古関は、義姉の住む阿佐ヶ谷から世田谷の代田に新居を構えた。
『古関裕而物語』 斎藤秀隆著 歴史春秋社 2000年
朝ドラ「エール」世田谷代田の舞台を歩くは、まずは帝国音楽学校跡地から始まる。ここで古関金子は声楽の先生のベルトラメリ能子に師事している。
学校の開校は昭和二年、大根畑に忽然と現れた帝国音楽学校からソプラノが朗々と響き渡ってきた。地元民はびっくりしたが、これも日常となると上手下手が分かってくる。
「今度の入学生には歌のうまいやつがいる」
時が経てば、下手とか巧いとかが分かってくる。耳が肥えてくるはずだ。
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2017年08月09日
下北沢X物語(3336)―第3回研究大会:世田谷代田「帝音」�供�
(一)今日、九日は長崎原爆忌である。忘れがたい思い出がある。中2のときに学校で長崎原爆資料館に行った。何の気なしに入って原爆の被害のすさまじさに衝撃を覚えた。当時私は不良だった。勉強などはばかにしていた。が、この衝撃は忘れがたく、遠足から戻っての感想には率直な思いを書いた。気づくと二十枚ほどになっていた。それを当時の担任の先生がガリ版に起こし、印刷し皆に配ってくれた。自分に目覚めた思いがした。長崎原爆が自分を覚醒させたのだと思う。現今の文化探査のきっかけとなった。あれから五十七年経った。昨日は終戦記念日の番組の撮影に、テレビ信州のデレクターとカメラマンが家にきた。「戦争だと特攻で行った人にどうしても目が行きがちですけど、裏舞台にいて懸命に任務を果たしていた人がいるんですね。松本に来た特攻二隊、武剋隊や武揚隊の十五機には、全部に整備員がついていたのです。満州から最前線の沖縄や台湾にまでついて行っているんです。機は九九式襲撃機で中古です。くたびれた機の整備は大変だったのです。武揚隊などは台湾に行くまで機体不調で飛べなくなったり、不時着したりした機が多くあったのです。整備員は気が気ではなかったでしょう。しかし、中古機でも手がけていれば愛機ですね、彼らの多くは機とともに運命を共にすると覚悟を決めていました。出撃の段になって隊長に申し出るわけですが、『原隊に復帰せよ』と言われたのです。戦後、彼らは犠牲になって死んだ特攻兵士の家を訪れ、最後の様子を報告していますね。『飯沼伍長は所持金を国防献金しましてね、新聞に載ったのですよ』と武揚隊の整備員は遺族に報告しています。戦争の裏方、そういう人のことも私達は覚えておくことが必要ですね……」
時代はめくられる。が、その時々で何であろうと与えられた仕事にを懸命に懸命に生き生きて存在したものがあった。しかし、時代とともにふっと消えてしまい。そのまま忘れられてしまうものもある。整備員もそうだ。彼らがいて苦闘したことはほとんどは知らない。
今回の取材、『鉛筆部隊』が、童話作家高田充也さんによって童話化された。長野の地元ではこれが評判になっているようだ。この関連での取材でもある。
☆子どもたち、また戦争を知らない時代に向けて、メッセージをお願いします。
鉛筆部隊の学童たちは鉛筆を握って戦いました。ひたすらに手紙や日記を書きました。それらが今残っています。それらを読んで、文章力の高さを思います。小学生のレベルを超えていると思いました。ひたむきに書くこと、大事なのは手で書くことですね。
文章というのは面白いもので書く力がつくと思考力が高まります。物事の善し悪しがわかってきます。批評力ですね。あれはおかしい、これはよい。ものを見る目ができてくると世の中のことも分かってくる。思うに、この批評力こそが平和に結びつくものだと私は信じています。
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2012年03月13日
下北沢X新聞(2036)〜Game Cook Charlee 67年目の航跡〜

(一)
このところめまいがするほどの情報錯綜に慌てふためいている。それが歴史真実の埋もれたエピソードであるだけに興奮しもする。
思いがけない情報に次々に出会う。驚くことがしばしばだ。興奮、驚嘆の感情は使えば使うほど減ってくるように思うがそうではない。この数十日、オドロキ、モモノキ、サンショウノキだ。つぎにはどんな「キ」が舞い込んでくるのか戦々恐々としている。
なぜこうなったのか?。原因ははっきりしている。今日のブログの回数は2036、これは情報の集積を言い表す。言葉にすれば何万語なのか分からない。自分が発した数十万語がネットの海にあちこちにさ迷っている。それがあるとき忽然と拾われる。ネット上に生きている資料館だ。閲覧した人がコメントしたり、メールをしてきたり、そして電話を掛けてきたりもする。「北沢川文化遺産保存の会」の事務局経由で問い合わせがこちらへ回ってくる。
昨日も見知らぬ人から電話があった。これにも驚いた。「えっ」の五乗ぐらいでも間に合わない驚きだ。長野県安曇野市からである。話を聴いているうちに戦慄が走る。
前に「特攻隊の兵士の魂が取り憑いているんですよ。そんなの普通にありますよ」と真顔で言われたことがある。本当に魂は取り憑くものなのか?、驚きを通り越して怖いと思った。
電話されてきた方の話は最初はよく分からなかった。が、聞いていくうちに少し分かってきた。手に入れた資料に武揚隊とあるようだ。これをもとに検索を掛けたら私のブログにたどりついた。
この隊の消息を私はずっと追っていた。見つかった資料に書いてある名前をこちらの資料と照らし合わせてみた。するとことごとく一致する。「あった」、「あります」、一つ一つの名が合致していく。どうも全員のものがあるようだ!。
武揚隊のメンバーが女性に贈った辞世の句らしい。せつない恋物語のようでもある。知られざる逸話だ。「もう一つの戦史:鉛筆部隊と特別攻撃隊」は、脱稿して出版社には渡してある。どうする?。
「驚きのニュースですね、いいですよ、それは入れましょう」
返事は簡単だった。また、また長野松本へ取材し、鉛筆部隊の続きを書かなくてはならない。続きを読む
2011年03月25日
下北沢X新聞(1784)―古関裕而と世田谷代田―

(一)
「ざわざわ下北沢」という市川準監督の映画がある。この擬態語の巧みさに改めて気づいたことだ。
よしもとばなな著の「もしもし下北沢」は、この映画の台詞を枕に振って小説の導入としていた。この街は、なにかしらざわざわしていて蠱惑的である。それへの親しみをこめた呼びかけなのかもしれないと思った。
音がざわざわしている点、街に価値が錯綜しているという点でのとらえ方もできる。
先だって、「森茉莉の足跡を歩く」会を催した。そのときに久し振りに北口駅前市場の高村園のご主人と会った。もう何十年と通路を歩いている人の足音を聞きつけている人だ。前に若者がストレスを溜めた歩き方をしていると聞いたことがある。シモキタではお茶屋のご主人までもが音に敏感だ。
「そうね、ここも長くないね。短くて一年、長くて二年かな」
北口駅前市場は再開発によって壊される。今後を聞いたときに、そう言われた。
あらゆる商品を扱う店々が、ぎっちりと肩を寄せあい、まるでお互いがお互いにもたれかかることでやっと建っていられる、というような風情で林立している。市場の中をごちゃごちゃと走る路地はヒビ割れだらけの石畳で、はじめてここを訪れる人はきっと、東京都内にもまだこんな場所があったのかと驚くかもしれない。
鷺沢萌が「遮断機」(角川文庫)という作品で下北沢駅前市場をこう描いている。このかつての賑わいはなく、奥の多くの店のシャッターは閉まったままだ。この石畳の響きも、今はさみしい。かつてはカ行だった。カラコロ、カッコンカッコン、ガンザガンザなどだったのが、今はサ行で、スポーツシューズが、ときおり、サッ、シュ、ショと路地を響かせて通っていく。
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