代田連絡線
2023年01月19日
下北沢X物語(4632)―代田連絡線伝説 下―

(一)『日本空襲記』(一色次郎)には1945年6月1日の電車の運行状況の記載がある。「会社線=京王線 新宿−笹塚間 不通 小田急線 全線開通」とある。この差異ははどこから来るのか、京王線の新宿−笹塚間は沿線全部が焼けている、小田急線は焼け方がまだらである。理由は爆撃の仕方が違うからだ。一色次郎は根津山南端からB29の襲来を子細に観察している。各機は三コースに別れて隊列を組んで襲来してきた、綿密な計画のもとに各機は分担地域を攻撃した。京王線沿いは絨毯爆撃で軒並み町を襲っている。中野杉並である。帝都線の車庫がある永福町はこの空襲の延長域にあって焼けた。戦災図を見ると空襲空白域があった。小田急沿線の大山町や上原だ。下北沢もこれに連なる。米軍は意図的にここを焼かなかった。彼らの戦略があった。戦争終了後の計画だ、代々木練兵場を進出基地とする。その西側にある西原町や大山町は除外した、ここを高級将校の住まいにしようと目論見があったからである。
下北沢がなぜ焼けなかったか、大きな謎である、焼け遺ったから古い町並みが残された。外国人の目には興味深く思われた。戦後、下北沢駅南口に線路側に向けた絵看板が建っていた。「国際ベーカリー」とあって、黒人のコックが左手のトレイにパンを載せた図が描かれている。おしゃれな絵看板と土臭い日本家屋と奇妙にマッチしている。空襲で焼け遺ったゆえにこの奇妙な異国風景が現出された。焼け遺った町、これをカラー映像に残した米国人がいたDr オーステン博士である。焼かれなかった街並が彼の手によって撮られ、そして残された。
「下北沢がなぜ空襲を受けなかったか、本当のところはわかりません。が、北沢の綿谷邸などは意図的に残されたのではないかと思います。玄関から見ただけでは邸内の広さはわかりません、航空写真で見ればそれは容易に分かります。米軍は偵察写真を見て候補地をピックアップした、それで綿谷邸は米軍に接収されたのです。大山町や代々木上原のお屋敷は意図的に空襲をしなかった。当日南東の風が吹いていた、焼夷弾は風で飛ばされる。風光を考えての空襲が結果的に下北沢を救ったのではないか?」
先だって某局のデレクター企画について事前調査があった。そのときに私は以上のような説明をした。
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2023年01月17日
下北沢X物語(4631)―代田連絡線伝説 中―

(一)東京空襲は一日のみだった、が、山手空襲は二日間に及んだ、後者の爆撃にどれだけ力を注いでいたか、投下された焼夷弾は前者の倍近い3,258トンである。政府中枢を狙ったものだった。外務省、運輸省、大東亜省など、新聞社もやられて合同新聞を出さねばならなくなった。東京の知の拠点を狙って首都を壊滅させようとした。中心市街だけではなく都市中枢を支えている知識人の居住区も狙われた。ただ例外があった。高級住宅街だ、占領後に上位高官の宿舎として温存しておく必要があった。その一帯は空襲からは外された。一方帝都線は役人や軍人など首都をささえる路線として狙われた、永福町車庫は狙うべき施設だったと思われる、インフラの効果的な破壊で帝都線はマヒした。
帝都線の運行状況である。5月28日、鉄道線の運行状況を合同新聞は伝えている。「井の頭線(渋谷吉祥寺間不通)」と。
一色次郎は東松原を最寄り駅とする代田西の丸荘に居住していた。「
5月30日時点では、焼け遺った単行が一台あって、これが明大前と一高前とをピストン輸送しはじめた。しかし、一輌で足りるはずがないのである。ところがこの30日に変化があった、彼は新聞記者である、行きはこの電車に乗って一高前まで行き、なんとか辿り着いた、勤めを終えて帰宅する。省線で新橋から渋谷に着く。五月三十日の日記にはこう綴られている。
渋谷の混雑はひととおりではなかった。また、道玄坂を越えて一高前まで歩く。ところが一高前まで行ってみたら、電車は神泉から出るようになったということで、下りを自分で待つような間のヌケたハメになる。神泉は、渋谷とこの一高前の間の駅である。終点はダメだが、神泉までは使えるようになったらしい。ともかくこの電車に乗って吉祥寺へ行く人はこんどは西永福で乗り換えるということであったが、そこはけさは、なんでもないようなことを言っていた。まるで何がなんだかわからない。それでもいちおう電車が動くようになった。 『日本空襲記』
帝都線の復旧に関しては重要な記録である。渋谷は駅一帯は空襲を受けていた。駅は使えない、が、神泉駅はトンネルとトンネルの間にあってここは使えたのだろう。
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rail777 at 18:30|Permalink│Comments(1)│
2023年01月16日
下北沢X物語(4630)―代田連絡線伝説 上―

(一)代田連絡線は、長年調べてきた、しかし、振り返るとそこらに転がっている記録を鵜呑みにしてきたように思う。〇〇に書かれているから事実だろうとの先入観があった。代田連絡線は鉄道ファンには興味深い話題だ、ネットでもよく書かれている。この記述の中で必ず触れられるのは神泉トンネルで焼失を免れた電車のことだ。Wiki「代田連絡線」でも「永福町駅にあった永福町検車区が被災し、渋谷 - 神泉間のトンネルに駅員らが人力で避難させた2両などを除いた井の頭線の大半の車両が焼失」とある。なるほど駅のそばの神泉トンネルで被災を免れたのか!それで避難していた2両が被災を免れて、これが応急的に走ったというのだ、しかし、段々に分かってみるとこれも伝説ではないかと思えてた、さて真実はどうなのだろうか。
帝都線、井の頭線の被災状況や運行状況について非常に客観的な情報を載せているものがある。それは一色次郎の『日本空襲記』である。日記形式で書かれた正確なものだ。その彼は、代田西ノ丸荘に居住していた。最寄り駅は東松原である。
山の手空襲である。1945年5月24日、25日両日に亘って敵機B29は当地に襲来してきた。24日、一色次郎は居宅と尾根続きにある根津山に行って観察している。小田急線が眼下に見下ろせるところだ。ここでB29が列を作って海側から進入してくる様子を彼は観察していた。
爆撃機の長い列は、真東の海の上からもつづいている。これは三番目の侵入口である。こんやは、いったいどういうことなのだろうか。私は胸の奥がしんとつめたくなった。敵はどうして、こんなにもたくさんの飛行機を飛ばすのだろう。
『日本空襲記』 文和書房 1972年
敵機は、整然と隊列を組んで海側から侵入してきた、まず二隊が並行するコースを飛んでくる、見ているとこんどは東側からもう一隊がやってくる。これまでとは違った攻め方である。隊形は計算されている、緻密な爆撃計画のもとに爆撃機は動いている。これを眺めている一色次郎は恐怖を覚える。
私は首をかしげないではいられなかった。いくら考えてもわからなかった。東からの爆撃機の隊列は、正確な間隔をたもち、落着いて、すべるように走ってくる。
爆撃機は「正確な間隔」を保って飛んで来る、爆撃計画がいかに緻密であるかが分かる。一機一機にはどこを爆撃するのかが事前に命令として伝えられていた。中野区から杉並区にかけては見事に焼けている。
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2023年01月13日
下北沢X物語(4628)―交点文化探訪:代田連絡線再び―

(一)11日、代田連絡線跡を久方振りに訪ねた、かつて十数年前は町歩きの定番として何度も訪れていた。今回行って感じた変化は二つある。街並が変わったことと人がいなくなったことだ。後者は証言者だ、前はそこらへん歩いている年寄りに聞くと「途中に架かっている鉄橋は怖かった、小学校高学年だったな、一人で渡れて一人前だった、枕木の間から下がのぞき見えるんだ。足が震えたよ」と答えが返ってきた。そういう人はもういない。いつも訪れていた春宮さんの家を通りかかる、「壁に代田連絡線跡という看板を建てましょう」、「ああ、いいよ」と言っていたご主人も三年前に亡くなられた。奥さんがおられるはずだと思って同行のデレクターと訪ねた。「あら、懐かしい、先生ですか!」と彼女は健在だった。
昨日、お堀端を歩いた(写真)、江戸城の説明看板があって「徳川300年」とあった。えっ、そんなに短かったのかと思った。日々の散歩では縄文遺跡にふんだんに出くわす。縄文一万年が心に染みついている、「300年では古老三四人を並べればすぐにも届きそうだ」と思った。が、一昨日旧下北沢2号踏切、3号踏切付近を歩いたが変化に驚いた。まず前者のそばに日本家屋の佐山一雄邸があった、こちらは更地(写真)になっていた。後者のすぐそばに旧静泉閣跡があった、名だたる文化人が住んでいたアパートだ。跡地は駐車場だったがビルが建築されていた。『方丈記』を思い起こす。
昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。
古老の佐山一雄邸にはさんざんに通いつめた、文化発掘の端緒を切り開いたお宅だ、ここでの聞き書きが私の原点であった。このブログはナンバーを振っている。今日のは、4628だ、�癸韻砲蓮屮▲法璽魯�ウン物語」を載せている。これは佐山一雄さんが飼っていたシェパードの名である。懐いていたワン公は軍用犬として徴発される。代金としてもらった10円をそばの川に彼は投げ捨てたと。
当ブログ内に検索窓がある、「佐山一雄」と入れると数多くヒットする。家や人はいなくなっても記録は残る、佐山宅に通い詰めて一雄さんの証言を聞き、これを網羅的にここに収録している。下北沢の陰の近代史である。都市の変貌がここには記録されている。
佐山氏宅の西隣には新しい学生寮ができた。まず最初は斎田家の田圃だった、これが時代ごとに建て変わってきたことを説明した。
「へぇ、そういう変化をたどってきたのですか!」
デレクターは驚いていた。
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rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)│



















