北沢川文化遺産保存の会会報

2023年02月28日

下北沢X物語(4659)―会報200号:北沢川文化遺産保存の会―

画像2
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第200号    
           2023年3月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 �冢�
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、萩原朔太郎大全2023 
  「幻影の『猫町』下北沢/朔太郎X線の彷徨」の開催のお知らせ


 趣旨:昨年は萩原朔太郎イヤーでした。没後80年を「萩原朔太郎大全2022」と銘打って全国展開の記念イベントが開かれた。52個所で展覧会や講演が行われ、下北沢地域はどうした?お忘れではないかとの思いが残った。またと無い下北沢地域の特異性は、それは朔太郎終焉の地であること。「萩原朔太郎大全2023IN下北沢」と名乗る舞台です。
 萩原朔太郎を中心に、北原白秋が、中原中也が、大手拓次が、大木惇夫が、三好達治が、<X線の街・下北沢>の今昔を闊歩徘徊する。まさに芸術文化を代表する当地ならではのイベントを開催します。どうぞぜひご参加ください。

日時:2023年4月2日(日)14時開場 14時30分開演
出演:谷川賢作(作曲・ピアノ・朗読)
   原田節(オンド・マルトノ・歌・朗読)
   波多野睦美(歌・朗読)
萩原朔美(朗読・朔太郎役)
会場:世田谷美術館 〒157-0075世田谷区砧公園1-2
    https://www.setagayaartmuseum.or.jp/
料金:予約 \4500 当日 \5000
予約問い合せ:BIGTORY:Tel:03-3419-6261/Email:bigotry@mba.ocn.ne.jp
企画・台本構成・演出:大木雄高
原本台本:きむらけん
協力:世田谷文学館・LADY JANE・邪宗門・
予約・問い合わせ BIGTORY+大木雄高
後援:世田谷区 萩原朔太郎記念前橋文学館
主催:北沢川文化遺産保存の会

画像1
注記:2022萩原朔太郎大全は、全国的な盛り上がりをみせました。しかし、終焉の地である下北沢及び代田地区ではこれに関連しての催しはありませんでした。それで遅ればせながら下北沢地域では当会と、BIGTORY+大木雄高とが協力して萩原朔太郎2023としてこれに参入するものです、新視点でのまちづくりでもあります。(K)

2、会報発刊200号に寄せて
当会会長 谷亀�冢�


私が本会とかかわるきっかけとなったのは、平成13年から14年にかけて実施した「第1回世田谷区地域風景資産選定」ではなかったかと考えています。
北沢川文化遺産保存の会が発足する2年程前にはなりますが、当時、二度目の都市デザイン担当係長として「住民主導のまちづくり、都市デザインの展開」の最前線で出来得る限りの施策展開に躍起となっておりました。
 「代田の丘の61号鉄塔」が、第2回目の地域風景資産として選定された時は検査員として遠目で見ておりましたが、「第1回目の概念を遥かに超越」した象徴として捉え、感心していたのを今でも思い出します。
そしてきむら主幹を中心に活動が活発化し、まち歩きや顕彰碑建立などのイベント、研究発表会にも参加するようになり、少々微妙な距離感ではあったものの常に重大な関心をもって会の活動を見守っておりました。
その距離が一気に無くなったのが、世田谷代田駅前にある我が家壁面への「北沢川文士町文化地図」の設置です。父の遺言で、壁面にはポスター等の掲示をけっして許しておりませんでしたが、地域に絞った文化と歴史の情報発信に寄与する完成度の高い盤面でしたし、寧ろ、我が家に相応しい意匠になったと今でも確信しております。

さて、ここからもう少々お目を拝借し、マクロ的な視点から文化人が集まった代田の不思議な側面をご紹介しようと思います。
世田谷代田駅前広場からも神々しく拝観できる霊峰富士。
私も、毎日富士山を仰ぎつつ、日々の生活の改善、安寧を祈願しておりますが、「富士山と代田との位置関係」を考察すると大変に興味深いことがわかります。
「富士山頂」から「夏至の日の出」を拝むと、その線上に「世田谷代田」が乗っているのです。逆に、「代田」から「冬至の日の入り」を望めば「富士山」に沈みます。「ダイヤモンド富士」が有名ですが、地球の楕円軌道等もあり、単純な日没時間と一致していないなど若干のズレが生じてはいるものの、富士山頂から見て真東から「23度26分」北側に振れた位置に「世田谷代田」は位置しているのです。
この数字は、ご存じの通り、「地球の傾斜角」です。
因みに、代田の先を辿ってみると、「明治神宮」、「皇居(江戸城)」、そして太平洋に臨む直前に「鹿島神宮」が配置されています。
 よく「レイライン」とも称されますが、この線上は「富士山を中心とした地球の壮大ないとなみ」を熟知した何者かが意識的に配置したのではないか、不思議な力が潜んでいるのではないかと中学生の頃から密かに研究してきたものです。けっして都市伝説などではありません。今後も研究は続きます。
さてさて、そのような土地に生まれ育った者としては、何らかのエネルギーやひとを引き付けるものが有るのではないかといろいろ調べてみると、「小田急小田原線の世田谷区内の布設ルート」があります。小田急線は、新宿から左右に振れながら南下しますが、東北沢駅付近で世田谷区に入ると真っすぐに「レイライン」に近づき、下北沢と世田谷代田の間でしっかりとライン上に乗ります。豪徳寺駅付近で若干右に振れるものの、その後は成城学園前駅を通過するまでライン上にありますので、小田急の運転手さんは、さぞかし気持ちよく運転しているのではと思っております。一度お聞きしたいものですね!
ここまでお読みになってくださった皆さんは、既に半分呆れているかとも思いますので、私の妄想(?)はこれまでにして話を王道に戻します。
 
私が信じてやまない、この不思議な場には、確かに文士、音楽家などが終結しはじめたのは昭和のはじめ。小田急線の開業による適度な宅地化があったからに他なりません。もちろん、東西に流れる北沢川、西の高根の根津山、縦横に走る堀之内道と滝坂道、そして南北を縦貫する鉄塔群の存在が後押しして「何か良い感じの場所」感を醸し出し、引き付けて来たのではないかと推察しております。
富士山、筑波山の眺望(筑波山も、良く見えたと父が話しておりました。)を土台に、それら豊かな自然環境が加わり、芸術家たちの集いの場に成長してきたのではないか。
しかしながら、敗戦と戦後の混乱期に加え、環状七号線の開通でまちは分断され、戦前は下北沢にも劣っていなかった賑わいのあった世田谷代田は、今、生鮮三品すら消滅したまちになってしまいました。
そのような時代の転機を担っているのが私たちではないかと悟った今、きむら主幹率いる北沢川文化遺産保存の会の役割はさらに重要になると感じております。

以前にもお話したとおり、まずは、世田谷代田駅前広場をより地域の歴史のわかる情報発信源としていくために尽力していきたいと思います。一つ考えていることは、ここに「古関裕而顕彰碑」を建立することです。古閑裕而さんは福島出身で駅前には銅像が、また市には記念館もあります。ところが上京以来、終生代田を離れることなくこの地で多くの名曲が生まれておるのにもかかわらず、古閑さんが愛した世田谷代田には、何ら記念するものがないのです。
そのような想いから、世田谷代田駅前に記念碑を建てたら如何だろうかと思っております。皆さんの絶大なるご協力方、よろしくお願い申し上げます。

3、代田と私(代田の近現代を語る)
             奥谷民雄さん 代田三丁目在住

 
 我らの定例的な日常活動は、町歩きを基本としている。毎月一回開いている。これはこれで健康的でよい、しかし、近隣を歩き続けてきたがもう種が尽きかけているという点もある。毎回、毎回、企画を考えて、提案している。この頃、考えたのは何も町歩きでなくてもいいのではないかと思い始めた。思いついたのは懇談会・研究会である。
 代田居住の奥谷民雄さん、記憶力の素晴らしい人だ、暮れに文化談義をしているときに近隣に居住する文化人のわれわれが知らないエピソードをつぎつぎに披露された。
視点として大事なのは昔であるが、著しい変貌があったのは近代である、具体的には昭和2年に小田急が開通して以来、代田は急速に変貌した。ここの視点が欠落しているように思える。鉄道線を通して新しい文化がこの一帯に浸透してきた。奥谷さん、「思いつくままに代田、特に宮前について思い出を話してみる」とのこと。
 会場の借用時間は多めに取ってある。まず奥谷さんにプレゼンをしていただく。その後、持参のお茶でも飲みながら文化談義をしましょう。どうぞおいでください。

日にち 3月11日(土)13時半から 開場 13時  17時まで使える。
場所 花見堂地区会館 第3会議室  講師 奥谷民雄さん
資料代 500円 参加申し込みは町歩きと同じ


4、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第183回 4月15日(土) 大山道旧道を歩く(三軒茶屋文士町文化地図発行記念)
三軒茶屋誕生のなぞを解く〜なぜそこに追分はできたのか
 案内者 木村康伸 東急田園都市線三軒茶屋駅中央改札 13時集合
コース:三軒茶屋駅→大山道道標→若林富士講碑→常盤塚→大吉寺・圓光院→世田谷代官屋敷(世田谷郷土資料館中庭には道標などがある)→用賀口道標→大山道旅人の像→野中の地蔵→用賀追分→用賀駅
コースの魅力:三軒茶屋は、江戸時代中期に大山道の追分(分岐点)ができたことにより生まれた。なぜそこに追分ができ、三軒茶屋はできたのか。大山道の旧道を歩きながら、歴史的・地形的な観点からそのなぞを解き明かしてゆく。なお、参加者には新しくできた「三軒茶屋文士町文化地図」をさしあげます。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。090-3501-7278
 きむらけんへはメールk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
■ 編集後記
▲今号は記念すべき200号、単純に12で割ると16,6となります。つまりは十六年半ということになります。われながらよく続いたと思います。今回は、一つの大きな節目となることから谷亀�冢魂馗垢亡鷙討鬚�願いしました。次号は「201号」となります。この間、どんなことでも記録しておくべきだとの意見、ここに書いておけば記録として残ります。ちょっとした覚えなどでも構いません。どうぞ投稿してください。
▲3月行事では、懇談会、研究会を入れた。歩く会はこの月はありません。けやきネットに会として入会したので会議室が取りやすくなりました。時に応じて、町歩きを行って、そして公的施設で懇談をするのもいいのではないかと思います。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ



rail777 at 13:00|Permalink│Comments(0)│

2023年01月31日

下北沢X物語(4640)―会報199号:北沢川文化遺産保存の会―

2005年4月3/4日 040
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第199号    
           2023年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 谷亀 �冢�
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、世田谷から考える世界史 きむらけん

 「信州から考える世界史」の企画があって原稿依頼があった。自身ずっと取り組んでいたのは、松本出撃の特攻である。そのことから「陸軍松本飛行場から出撃した特攻隊」をテーマとして書いて提出をした。
 どうしてこのテーマが世界史に結びつくかという点は難しい。さらに「世田谷から考える世界史」となると一層に難しい。
「陸軍松本飛行場から出撃した特攻隊」を支える基礎資料は、世田谷の疎開学童から得られたものである。本来なら公的記録はあるはずだ、飛来機の入りと出は日誌に記録をしていた。機種、機数、どこから来てどこへ去ったか。ところが昭和二十年八月十四日、
「陸海軍は、秘密文書が連合国軍の手に落ちるのを防ぐため、重要文書を焼却した」。だから正式な記録は残っていない。
 陸軍松本飛行場に特攻機が飛来してきたのは二十年二月、三月、四月、五月である。ちょうどこの期間に浅間温泉に世田谷からやってきた疎開学童が二千五百名ほど滞在していた。学童らは、毎日日記をつけた、また親には手紙を書いた、この中に特攻隊員たちの記録が埋もれていた。陸軍飛行場に降り立った特攻隊員たちは浅間温泉に泊まった、疎開学童等と毎日顔を合わせる、またお風呂でも一緒になった。
 この特攻隊員たちとの交流がどう世界史と結びついていくのか。実は分かっているのはこの特攻隊員の一部は満州新京で発足している、このとき二月十日に発足した武揚隊と武剋隊は、満州国皇帝溥儀に謁見している。
 武剋隊の今西修軍曹は代沢国民学校の疎開学童立川裕子さんに出撃前に黄色い布に思いを書いた、その始まりは「男児一期の快。生還もとより期さず……」と書かれている。
「あの布きれは皇帝溥儀から戴いた恩賜の煙草を包んであったものです。それに今西さんは書いてくださったのです」
 この恩賜の煙草を包んだ布は満州から飛来してきた特攻隊員はとても大切にしていた。彼らは皇帝と接見し御言葉を戴いたことを誇りに思っていた。ところが最近になって知った。彼は『わが半生』という手記を書いている、そこに接見した特攻隊員に御言葉をかけたがすべてそれは側近の差し金によるものだったと告白している。
 満州国が傀儡政権であったことを端的に表していると言ってよい。世田谷の疎開学童は特攻隊員を通して隣国の様子を知った、満州が極寒の地であることを初めて知ったとも言っていた。
詳しくは、最近発刊した『台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語』に記したことである。陸軍松本飛行場に飛来してきていたのは武揚隊や武剋隊だけではなかった。平壌の第五航空群傘下の航空兵が松本飛行場に送り込まれていたことである。何のためか、それは爆装改修のためである。戦闘機はそのままでは特攻機として使えない、まず、両翼に250キロずつの爆弾を装着する、そのために機体を軽くする。また沖縄までの遠距離を飛ぶために増槽タンクを設置するなどしなければならない、これを爆装改修という。今回分かったことは平壌の第五航空群から多数の機が松本に飛来してきていたことだ。これが平壌に戻ると特攻命令がでて台湾や九州に振り分けられている。
 特攻隊員と疎開学童との交流があったのは、浅間温泉に疎開していた学校七校のうち六校であった。代沢校、駒繋校、東大原校、山崎校、二子玉川校、第一師範附属校である。ほとんどの学校がふれ合っている。それだけ数多く特攻機が来ていたことを証明している。
 
 表題にある「世田谷から考える世界史」にはあてはまらないが、満州からきた特攻隊、そして台湾に渡った特攻隊、その範囲はグローバルであった。彼らと学童とが交わることで世界の広がりを確認したことであろう。
 全貌は分からない、四月三日に「近々戦果を挙げるからよく新聞を見ていてくれ」と手紙を寄越したのは小柳の湯隊である。前線からの知らせだったが、その彼らはなぜか分からないが満州に戻ってしまって「元気か?」という手紙を寄越したと。
 戦後になってぜひ会ってほしいと連絡があってとある女子生徒は当人に逢ったという。白いマフラーを首に巻いた若い青年は髭ぼうぼうの親父さんになっていて、幻滅したという。これもグローバルな話の一端になるであろうか。

2、鎌倉通りの桜の樹とお地蔵さん

 『どんなつまらないことでも記録しておくべきだな』
 月末の集まりでの文化談義でこう言った人がいた。本当にそうである。人間の記憶ほどあてにならないものはない。やっぱり記録は大事である。

 先だって面白いことがあった。代沢の人が邪宗門に来られたそうである。私が、旧下北沢3号踏切脇の桜のことを書いた文章があって、これを転載ミニコミ誌に転載したいという申し出があったそうだ。
「あああそこの桜にまつわる話は面白いですね、どうぞどうぞお使いください」
 当事者に私はそう言って同意を伝えた。
 その桜の樹は昔の下北沢静仙閣の玄関のところ生えていた。この桜について
2013年03月23日に「桜と踏切と学童と」という題で書いている。

 私にとってこの桜については深い思い出がある。まず、この桜については、作品の記述からみつけたものだ。それは一色次郎著『東京空襲』からである。記述の日付は昭和20年3月20日となっている。
 彼、一色次郎は、この桜の木の側にあった「静仙閣」に居住していた。ところが、昭和20年3月10日の東京大空襲の後、ここの「管理人から、強制疎開の立退を宣告される。私鉄の線路に密接しているので、第六次建物疎開に該当したのである。」それで、彼は「世田谷区代田二ノ八二三」に引っ越していく。3月27日にお別れの挨拶に下北沢「静仙閣」を訪れる。 

 カノ子が管理人室で話し込んでいる間に、私は地蔵さんのまわりを掃除する。宝暦三年(1753)から立っている、この小さな地蔵さんも、こんどはどうなることだろう。地蔵さんの背中のサクラはまだ若芽も出ていない。枝ばかりの梢に夕もやが漂っていた。
「東京空襲」一色次郎 河出書房 昭和42年

 下北沢静仙閣の前には「サクラの木が一本あって、その下に小さな地蔵さんが立っている。私は朝夕その前を通るたびに、ぺこっ、とおじぎを」(「東京空襲」)していたと言う。つまり、その桜の木こそ、代沢小の生徒たちが保存運動をしたものであった。

毎年ここの桜は見事な花をつけていた。ところがこの桜が伐り倒されるということになった。それで代沢小の学童がこれを切らないでほしいという嘆願書を小田急に出した。これが認められて桜の樹は残った。
 しかし、この間、これを見る機会があって行ったところだいぶ枝が刈り込まれてしましい。昔の面影はなくなっていた。
 文化人が多く住んでいた静仙閣跡は、ずっと駐車場として使われていたが、今はビルが建てられている。下北沢に近く場所がいいことからきっとマンションが建つのだろうと思ったことである。
 思い出深いのは宝暦三年建立のお地蔵さんのことである。このお地蔵さんはどこへ行ったのだろう。随分探していた。まだ小田急線が地上を通っていたときだ、ちょうど2号踏切と3号踏切の間の空き地で地元の人が交通安全を呼びかける活動をしていた。
「そこの鎌倉通り脇に桜の木が生えているでしょう。昔、樹の根本にお地蔵さんがありましたがそれは知りませんか?」
「いや、そんなの聞いたことはない」
 大方の人の意見だった。ところがである、
「そのお地蔵さんは、代田二丁目の〇〇さんの家の玄関に祀られているよ」
 一人の古老が教えてくれた。そこに行ってみると、
「あった、あった」
 私は感動してしまった。これらのことは記録があったことで確かめられた。私にとっては小さな地域史の発見であった。
 どうでもいいようなことかもしれないが、大事な記録である。

3、代田と私(代田の近現代を語る)奥谷民雄さん 代田三丁目在住
 
 我らの定例的な日常活動は、町歩きを基本としている。毎月一回開いている。これはこれで健康的でよい、しかし、近隣を歩き続けてきたがもう種が尽きかけているという点もある。毎回、毎回、企画を考えて、提案している。この頃、考えたのは何も町歩きでなくてもいいのではないかと思い始めた。思いついたのは懇談会・研究会である。
 代田居住の奥谷民雄さん、記憶力の素晴らしい人だ、暮れに文化談義をしているときに近隣に居住する文化人のわれわれが知らないエピソードをつぎつぎに披露された。
視点として大事なのは昔であるが、著しい変貌があったのは近代である、具体的には昭和2年に小田急が開通して以来、代田は急速に変貌した。ここの視点が欠落しているように思える。鉄道線を通して新しい文化がこの一帯に浸透してきた。奥谷さん、「思いつくままに代田、特に宮前について思い出を話してみる」とのこと。
 会場の借用時間は多めに取ってある。まず奥谷さんにプレゼンをしていただく。その後、持参のお茶でも飲みながら文化談義をしましょう。どうぞおいでください。
 
日にち 3月11日(土)13時半から 開場 13時  17時まで使える。
場所 花見堂地区会館 第3会議室  講師 奥谷民雄さん
資料代 500円 参加申し込みは町歩きと同じ


5、プチ町歩きの案内
◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第182回 2月18日(土) 鎌倉通り伝説を歩く
参加者が検証者 笹塚駅改札口 13時集合
 兼ねてより誰もが持っている疑問がある、北沢代田を南北に貫く鎌倉通りである。これは本当の古道なのか、新道なのか。神社の由緒書きに創立をこの古道に関連付けている所もある。鎌倉通りと言われている道を笹塚から太子堂八幡神社まで歩く。参加者が検証者となって道を観察しながら歩く。参加費500円は、北沢川文化遺産保存の会に寄付する。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円

感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。090-3501-7278
 きむらけんへはメールk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
■ 編集後記
▲毎回、投稿を募っています。次号は「200号」となる。12で割ると16年半となります。これはほとんどネットにも載せてある。貴重な記録である。
▲3月行事では、懇談会、研究会を入れた。歩く会はこの月はありません。4月以降は未定、芝道を歩くが候補として上がっている。ここを歩きたい、また、ここを案内してもいいというような提案を歓迎します。
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。新しい年になりました。会員は会費をよろしくお願いします。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 ▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ
(写真は、鎌倉通り、旧下北沢3号踏切そばにあった桜の木、現存はしているがだいぶ今は枝を伐られてだいぶ小さくなったように思われる。ここにかつてはお地蔵さまが祀られていた)



rail777 at 18:00|Permalink│Comments(0)│

2022年01月31日

下北沢X物語(4417)―会報第187号:北沢川文化遺産保存の会―

P1040213
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第187号    
           2022年2月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、「三軒茶屋文士町地図」について(クラウドファンディングの応募について)     
               当会主幹    きむらけん

三軒茶屋はおもしろい、ここには下北沢と違う文化がある。ここに居住した文学者としては林芙美子が知られて居る。当地が『放浪記』の一舞台となっている。ここに意味深いものがある。三軒茶屋に住んだ文士達には流浪的なところがある。典型的なのは太子堂を拠点として文学活動をや音楽活動をしていていた大空詩人永井叔である。ここを拠点にして近郷近在を流浪した。その足跡は全国にまで及んでいる。
 三好達治と三軒茶屋の関係はよく知られていない。彼は世田谷代田の外れに住んだ、淡島通りを挟んだ向こうは太子堂だ、ここの清水湯に来ていた。彼のエッセイ『薄暮の新緑』は三軒茶屋の街並を描いたものである。ここには戦後のこの町の様子が見事に描かれている。彼もまた流浪人である。
 三軒茶屋には流浪の文人が住んでいた。山田風太郎も住民の一人だ、当地は分去れの町だ、人々がやってきては去って行く。人が集まってきて情報もあつまってきた。風太郎などは居住時代に多くの情報を近隣の市民から集めている。
 地図には三宿も入っている。時代で重なることはなかったが芹沢光治良と葛西善蔵とが住んだ場所はかなり近い。が、前者は丘上である、『巴里に死す』を書いた、葛西善蔵は烏山川沿岸『酔狂者の独白』を書いている。丘と谷間との違いがタイトルに現れているように思う。葛西善蔵は酒飲みだった、芹沢光治良は葡萄酒をたしなんだ。地形による差が感じられておもしろい。 
 三軒茶屋は分去れの町、Y字分岐点である。茶屋が三軒あったことから名前が生じた、別れ路は旅人には結節点でもある。一息ついて茶を飲んで行き先を思う場である。「遙かやな」とも思う。抒情性が高まる場である。そういう箇所に文学者が来ては去っていった。

 前号でも案内をしたが「三軒茶屋文士町(太子堂・三宿)文化地図」を作ろうと企画している。そこで考えついたのがクラウドファンディングだ。これに企画を載せて市民から寄金を募ろうというものだ。編集委員会を作って企画を立て、作業をすでに着手している。お手伝いしましょうと水谷晃さんが手を挙げてくださった。
 一月中であれば早割で手数料が割引きになる制度があった。当初、これに合わせて応募しようと考えていた。が、一点目、クラウドファンデングのシステムについて我々には十分な知識がなかった。二点目、蓄積のある「下北沢文士町文化地図」づくりの先入観が強かったこと。三点目、慌ただしく応募するよりも計画をしっかり練り直すこと。以上のことから企画を出す段階になって上記のことを考えて踏みとどまった。
下北沢の地図の場合は、基本的な構図ができていてそれが活用できた。が、新しい地図の場合は、まっさらから考えていかなくてはならない。そうすると費用がどうしても高くなる。約四十万円ほどの費用がかかる。一般に知らしめて、この費用を果たして集められるのかという不安もあった。それで一月に出すことは断念した。すこし時間をおいて戦略を練ってからにしようという考えになった。

 「三軒茶屋文士町(太子堂・三宿)文化地図」を作ろうという試みは社会的に有意義な試みである。当該地域、多くは忘れ去られた文化の営みを地図上に表示してこれを後の世に伝えようとするものである。多くはないがこの活動に賛意が示されている。我々はこれに勇気づけられ、励まされている。
 今のところ、田島哲夫さんがネット地図で下図を作っている。これがそのまま使えれば問題ない。ところが、ネット地図だと印刷する際に緻密度が不足するらしい。この点が解決できると費用も逓減できるように思われる。が、当方、この方面の知識が疎い。どなたか教示してくださるとありがたい。皆さんには、知恵を貸していただきたい。
 いずれにせよ、時間をおいてクラウドファンディングには応募するつもりである。ぜひ皆さん、応援をよろしく。

2、靴     エッセイスト 葦田 華

 憧れの高校の進学クラスに合格したのは、1957年の春であった。高校の制服は紺色サージのセーラー服で、襟の下から紺色のスカーフを巻いて、襟元で二つの蝶のように結ぶのであった。制服は洋裁屋さんに仕立ててもらい 、大切に奥の部屋に掛けてあった。カバンは、中学時代の紺色の皮カバンで済まして、後は靴を買ってもらえば仕上がりだった。私は上級生が履いている黒革の、横でパッチンと留める靴を買ってもらう積もりでいた。
 その頃、近郊に嫁に行っていたカズヨ叔母がやって来た。私がお茶を出しに茶の間に行くと、「華に良いものを持ってきたよ。」と得意気に言った。私はわくわくしながら、その良いものを待っていた。
 その日は珍しくいつもの席に父がドッカリと座っていた。叔母は「華が高校生になるとなあ、兄さんもいろいろ物入りだろうと思ってな、私が女学校の時に履いていた皮靴を持って来ただあよ」と父に言った。手提げバッグからガサガサと新聞紙に包んだ物を出して、畳の上に広げた紙の上に並べた。それは、まあ!大正時代の、和服に袴の女学生が
履くような、旧式極まりない代物であった。踵が4センチぐらいあり、前は黒紐で編み上げるようになっていた。私は愕然とした。
 父は「さすがはカズヨだなあ、いい靴だ!華、これを履いて入学式に出なさい。」と言って、ガブリとお茶を飲んだ。私は悔しかった!こんな靴を持って来た叔母が恨めしかった。どこの誰が、セーラー服にこんな編み上げ靴を履いて入学式に行くだろうか !「嫌だ嫌だ!こんな靴は履きたくない!叔母ちゃんのオセッカイ〜!」と怒鳴りたかった。
だが私は父の手前、萎れ切っていても、「はい、有り難うございます。」と言わざるを得なかった。
 叔母は「さあさあ、玄関に行って履いてみろし。」と、上機嫌であった。そしてまたクヤシイことに、そのイヤな靴のサイズは私にぴったりであった。
 夜、布団に入ってから、何で嘘をつかなかったのだろうか!と腹が立った。
あの時玄関で「あっ!この靴小さいよ!無理、無理、華には履けない!」と言えば良かったのに!」と思うと悔しかった。
 カズヨ叔母は晩婚の上、子供に恵まれず、うちの姉妹を猫っ可愛いがりする人であった。
ある時など、うちの三女の玉枝を養女にしたいと言い出し、父母を困らせた。言い草が振るっていて、「私には子供が一人もいない。兄さんには四人も女の子がいるんだから、一人
ぐらい私に呉れたっていいじゃないか!」というのであった!
「犬や猫の仔じゃあるまいし。四人もいるんだから一人呉れとは理屈が通らない!だからカズヨさんは嫌なのよ。」と、襖の陰で母は怒っていた。この叔母が、私に《ノロマの華、だけど素直な華》というあだ名を付けた張本人であった。
まだ私達が子供だった頃、四人でおはじきをして遊んでいたら、カズヨ叔母が忍び足でやってきて、「ホーレ、おおぎやの餅菓子だぞ!ワンと言え!」と言った。
すると玉枝が「ワン!ワン!ワン!」と叫んだ。
私は余りの悔しさに、「玉枝!犬の真似なんかするんじゃない!」と叱って、カズヨ叔母に反抗した。
 桜が満開の入学式の朝、叔母の女学生時代の靴を履いて学校に行った。友人達はピカピカの、横でパッチンと留める靴を履いていた。叔母の履き癖のついた靴はグリングリンして、実に歩きにくかった。私は1週間我慢した。だがその靴はしょせん骨董品であった。
靴を裏から打ち付けている釘が飛び出してきて、靴下も破り、私の足裏にも痛い傷を付けたのだ。
 おかげでその嫌な靴とはおさらばできたが、父には言い出しにくくて、母にいくばくかのお金をもらって、濃い緑色のビニール靴を買ってきて履いて行くことにした。
玄関に揃えておいたら、玉枝が来て「アハハハハ、カエルみたいなヘンな靴!みどり色!誰の靴?華姉ちゃんの?美智子姉ちゃんの?」とぬかしおった。
私は怒り心頭に発して「玉枝のバーカ!お姉ちゃんがどんなに大変な思いを我慢してきたか知りもしないくせに!」と思ったが、すぐに玄関に飛び降りてみどり靴を下駄箱に仕舞い、生意気な玉枝を無視してやった。
カズヨ叔母と玉枝はなんとなく、常識外れの所が良く似ていた。
 やがて冬休みが来た。私は山梨から上京して、下北沢の祖母の家に遊びに行った。炬燵で温まりながら、カズヨ叔母ちゃんの女学生時代の靴を履く羽目になった話をしていたら、寝転んで私の話を聞 いていた母方の祖母が、ガバッと身を起こすと、「華ちゃんや、その靴はあたしが買って上げよう !」と言った。
「さあ、支度をおし。あたしも付いていって上げよう!」と言ってくれた。
 下北沢のひつじ屋さんの並びの靴屋で、念願の“乙女靴”を買ってもらい、私はこの上なく幸せであった。これでフツーの高校生になれたと、自信が湧いてきた。
たかが靴、されど靴であった。ちなみにカズヨ叔母は父のすぐ下の妹で、女学生時代は私の母と同級生だったそうだ。(了)

3、プチ町歩きの案内

◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。ただ、オミクロンの感染爆発は、気になっている。
更に広がるようであれば、また前のように順次繰り延べとなるかもしれない。

 プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(四名集まったら成立する。)
 
第171回 2月19日(土) 烏山川・北沢川・比較文化探訪行
案内者 別宮通孝・きむらけん 田園都市線三軒茶屋中央改札口 1時集合
烏山川と北沢川はこの両河川の文化には大きな違いがある。相違の原点は鉄道と震災にある。震災当時鉄道が開通していたかどうかが大きい。鉄道は玉電と小田急である。実際に現場を歩いて文化比較するものである。まず烏山川を行き、両河川合流点からは北沢川を遡り。「代田の丘の61号鉄塔」由来碑まで歩くものとする。


第172回 3月19日(土)駒沢のダイダラボッチ伝承地を歩く
案内者 きむらけん 田園都市線駒沢大学駅改札前 1時集合
 目黒区八雲、世田谷区野沢、上馬 三箇所の伝説地を訪ねる
第173回 4月16日(土)空川の谷の文化を歩く
 案内者 梶山公子さん 井の頭線駒場東大前駅 1時集合

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                
▲「世田谷ライフ」3 2/27発売。下北沢特集、「鉄道史から紐解く、いまとこれから」は、きむらけんに取材した記事を載せている。
▲今号は、187号だ、12で割ると15、6。十五年半も続いてきたことになる!
▲会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。年末になりましたので、会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506
▲「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。◎当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者のきむらけんへ



rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)│

2021年11月01日

下北沢X物語(4357)―会報第184号:北沢川文化遺産保存の会―

CCI20151019_0001…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第184号    
           2021年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」        
                   当会主幹    きむらけん 
   

  先号でお知らせした「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」については、発行する方向で準備に入っている。おおよその面取りもできた、基本的なレイアウトも決まった。文化事象の痕跡としては映画館跡(五箇所)、銭湯(現役・廃湯 草津湯、清水湯)神社仏閣、碑(大山道・馬魂碑など)を考えている。
 歴史経過を考えると「軍都から平和の町へ」というフレーズが浮かんでくる。それで野砲兵聯隊跡など軍事関係は記すつもりである。地図を作っていると町が見えてくる。文学を中心に据えて作っているが、気づいたことは定着者がいないことである。多くがさすらい歩いていた人が、ここに立ち止まった。そしてしばらくすると他所に移ってしまっている。この点からしても「三軒茶屋・太子堂」はさすらいの町、流離の町だったといえる。これを象徴するのが分去れ、追分だ、人がやってきてそしてここと別れてよそに去っていく。昔、ここでは分岐がはっきりあった。玉電の分岐機だ、渋谷方向から来た電車は一方は大山街道へ、一方は高井戸方向へ、分岐機で二両編成がくにゃりと曲がって腹を見せてとおる、これが電車の花舞台だった。
 地図づくりは面白いし、楽しい、皆さんも参加あれ、情報を寄せてほしい。

2、永井叔さんと歌ったこと  会員寄稿 田島 哲夫

 世間がアンポ、アンポと騒がしくなる数年前なので、1948年生まれの私が10歳位の頃だったと思います。仙台市の琵琶首新丁とか琵琶首丁と、広瀬川がぐるりと大きく蛇行して出来た地形に由来する住所に住んでおりました。当時あちこちに残っていた空き地は子供たちの絶好の遊び場となっていました。

  暑くも寒くもない時季のある日、誰からか、集まりがあると聞いて何だろうと、琵琶首丁の確か若林さんという人の家の前の広場に行ってみると15〜20人位の子供たちがひとりのおじいさんの周りに集まってました。近づくと小さい子供を前にして、手を伸ばせばすぐ届く近さで取り囲んでいます。お母さん方が外側にちらほら。「おおぞらしじん」ていう人よ、と教えられましたが、薄くなった頭に眼鏡をかけて、何よりもその長いアゴヒゲの、おとぎ話にでも出てきそうな容貌を見て、何だか不思議な人だと思いつつ、マンドリンを弾きながら唄うおじいさんに声を合わせてみんなと歌ったりしましたが、歌詞カードがどんなだったのか記憶には残っておりません。おじいさんがどのような声だったのか、しわがれてたり、変な声だったりしてれば覚えていると思いますので普通の声だったのでしょう。訛りもなく、イントネーションは普通だったと思います。どんな服装だったのか小学生に関心のあるはずもありません。
 
 学校で習った歌の他に、自分で作ったという歌も教えてくれましたがあまりピンとは来ませんでした。他にお話もしてくれましたが何を話したのかこれも記憶にありませんが、話すときの調子は、気楽に世間話をするような普通の感じでの話し方だったと思います。また、特定の誰かに集中することなく、万遍なく全員に向かって話してくれました。「本にものったんだよ、ほら」と、自分のことが掲載されている雑誌も掲げて見せてくれましたが、その挿絵が、長い髪を後ろになびかせて警官から追いかけられている場面だったので「乞食だと…」と、これは私の口から出てしまいました。雰囲気がちょっと凍り付くような感じになったので慌てて口をつぐみましたが、悪いことを言ってしまったものだと今でも想い出すことがあり、そのたびに慚愧の念にかられてしまいます。初めて言うことです。

  そのこともあって何だか冷めてしまい、40分位はいたと思いますが途中で集まりを離れてしまいました。それでも気になって20分位経って様子を見に戻ると、やや人数は少なくなっているものの、まだ集まりは続いていたので、遠くからしばらく眺めておりました。おじいさんの名前が永井叔ということやその事績は近年になってから知りました。永井さんの想い出はこのようにおぼろげでやや苦いものもありましたが、自作だという歌の一節のみ、はっきりと心に残っております。「カーネーションの 花はねえ〜」という歌詞で、採譜すると「ミーミレドードー ラド―ラミ―」となります。

永井叔


  家に帰って父(1920年生)に話したら、「大空詩人か、有名な人なんだ、おれも子供の頃集まりに行ったことがあるよ。ここにも来たのか。」父は東京の人で当時は蒲田在住。親子で同じ人に同じ経験をしたのかと子供心にびっくりしたことを覚えてます。

〇永井叔についての追加情報(赤坂暢穂氏からの11月3日)

 私は、北沢小学校の5、6年生(1953-54年)の頃、担任が福田誠夫先生(福田正夫の長男)で音楽の時間にたまに、永井さんを学校にお呼びして、校舎西側の非常階段に下から上まで生徒が並び、担任が生徒に裏が白い紙を持ってくる様に言われ、白いところに楽譜と歌詞を謄写印刷、それを見ながら生徒は永井さんの演奏(マンドリン、ハーモニカ、鉄琴か木琴)で歌を歌いました。
 今の様な管理教育が厳しい中ではとても考えられない貴重な体験をしました。

3、忘れられない先輩たち(その2) <飲兵衛君の思い込み>
              エッセイスト 葦田華

 
 ケロヨンを背負って帰って来た飲兵衛君は、しらふだと至って穏やかで、おまけに結構ハンサムであった。
 田舎の実家は、父親が中学の校長で、毎月きちんとお金を現金書き留めで送ってくれていた。彼はまず下宿代を払うと、残りは端から飲み代にしてゆき、月なかばになる前には早やゲルピンになるのが常であった。
彼は親しい友人達に、両手を合わせて、金を貸してくれと頼んだものだ。ところが、例の<ケロヨン事件>を知っている男子学生はみんなニベも無く断り、仕方なく腕時計を質にいれたり、本を古本屋で売ったりして、なんとか次の送金までを繋がなければならなかった。
飲兵衛君は手っ取り早く金が欲しかったので、職業安定所に赴き、うまい仕事で稼ぐことにした。それは深夜の道路工事の人夫仕事で、朝になってやっと仕事が終わるという、キツーイ仕事であった。酒を飲んでいない時の飲兵衛君は、よれよれの学生服でも、一次限の講義からしっかり勉強する男でもあった。

  ある日ホトホト疲れて講義の最中に眠ってしまった。それを見ていたクラスメイトの女子学生が、いたく飲兵衛君に同情して、ある日彼に言った。
「あなた、夜中に道路工事しているって聞いたんだけど、そんなに生活が大変なの?」
「いや僕さあ、親父が亡くなっていてね、おふくろさんに金を送って貰ってるもんだから、どうしてもやり繰りつかないことがあるんだよ。」(嘘つけ、このケロヨンが!)
「まあ!大変なのね。でも君は偉いわよ。夜中の道路工事なんかして働いて!!ホント、エライわ!」とお嬢さん育ちの彼女は言った。
「あなたが朝ごはん抜きで講義を受けてるって聞いたからね、アタシ今日お弁当持ってきたの。たいした物じゃないけど、召し上がってね。」と、チェックのハンカチに包んだ弁当を渡してくれた。
深く礼を言って、彼は庭の木陰のベンチで弁当を食べた。
「ああ、久しぶりだなあ、こんな旨い飯!肉ジャガも沢庵も梅干しも、おふくろが作ってくれた高校時代みたいに旨い!」 彼は実に感動した。

  さて、次の日、また彼女が違うハンカチに包んだ弁当を渡してくれた。今度は塩鮭と卵焼き、沢庵と梅干し。念のいったことに、胡麻塩までが振ってある。
さて次の日はカツサンドだった。飲兵衛君はなんだか、夢を見ているように幸せだった。
たとえ昨夜の残り物の肉ジャガでも、たとえ今朝の塩鮭の残りでも、飲兵衛君には有り難かった。その上今日はカツサンドだ! 次第に内容がランクアップしているじゃないか!
たとえカツサンドが、昨夜のトンカツの残りだとしてもだ!
飲兵衛君はフッと、<彼女、俺に惚れているのかな?>と思った。ずっとそう思っていたかった。
十日ばかり差し入れ弁当があったあと、フッツリ弁当が来なくなった。彼はおおいに落胆した。そしてまた、ゾロ新宿に通いだした。
「もういいや!弁当のひとつや二つが何だってんだ!畜生!笑わせるな!あんなオカチメンコ、誰が相手にしてやるものか!弁当でひっかけやがって、畜生!」
痛飲して帰る飲兵衛君に、残念ながらその夜は、倒れているケロヨンも、ペコちゃんもいなかった。

4、プチ町歩きの案内

◎コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
 プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(四名集まったら成立する。)
 町歩きはコロナ禍の中で中止となる場合が多かった。先月は久しぶりに実施した。今後も感染対策を心掛けながら「プチ町歩き」を実施していきたい。

■第168回 11月20日 (土)下北沢駅東口 13時
 案内者 木村康伸 世田谷の古道をはしごする
道程:下北沢駅→二子道→北澤庚申堂→二子橋→滝坂道→若林稲荷神社→堀之内道→若林富士講碑→大山道→常盤塚→六郷田無道→向天神橋→江戸道→駒沢大学駅
*ポイント:古地図を片手に下北沢駅から、二子道を皮切りに滝坂道、堀之内道、大山道、六郷田無道、江戸道と、世田谷古道探索の小さな旅に出かけます。道端の庚申塔や史跡を地名を頼りに、身近な古道の謎を解いていきましょう。


第169回 12月18日(土) 地下鉄 二重橋前駅 JR東京方面改札 13時
 案内者 堀川克幸・米澤邦頼 皇居清水門を中心に歩く
*ポイント 皇居近辺の地形の高低を歩いて実感する。スニーカーなど歩き安い履き物を
コース:駅→御幸通り→和田倉門・噴水公園→将門塚・和気清麻呂像→竹橋・清水門・北の丸公園→昭和館→九段下駅(地下鉄)

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

5、テレビ朝日の「じゅん散歩」 北沢川緑道から羽根木公園が紹介される。
(毎週月曜〜金曜日午前9時55分〜10時25分)
1、世田谷代田駅前のダイダラボッチ広場は11月3日に取り上げるとのこと。
2、世田谷区地域風景資産「代田の丘の61号鉄塔」も紹介されるが
  日にちは分かっていないが。放映予定日は11月1日〜5日だとのこと

■ 編集後記                                  
▲エッセイやコラムにあなたの記事を書いてください。
▲町歩きの予定。22年の希望コース、また案内したいとの要望もどうぞ。前から提唱している森茉莉コースについては幾田充代さんに春にやっていただこうと考えている。
▲会報は会員にメール配信しています。会友には無料配信しています。迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへ「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
*掲出写真は、永井叔 「緑光土物語」



rail777 at 07:37|Permalink│Comments(4)│

2021年04月01日

下北沢X物語(4216)―会報第177号:北沢川文化遺産保存の会―

CCI20210328 (6)
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第177号    
           2021年4月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、コロナ禍における活動と展望
                                  きむらけん
 コロナ感染防止ということで不要不急の外出は自粛してほしいとのこと。これによって街歩きも中止している。それでもできる範囲で活動は続けている。世田谷代田駅前広場が3月28日にオープンをした。これに向けて「世田谷代田駅 駅前広場開場記念事業実行委員会」が地元で結成された。当会もこれに参画して活動に加わった。とくには開場に際しては広場にダイダラボッチの足跡が設けられることから、ダイダラボッチについて解説した冊子を創ることになった。「代田のダイダラボッチ」〜巨人伝説読本〜である。これの制作に全面的に協力をした。
 執筆は、きむらけんが担当した。また編集委員会を作ってレイアウトづくりを行ってもらった。内容としては小学校高学年をねらいとした。それで副題を「巨人伝説読本」とした。この冊子を通してダイダラボッチの再認識をしてもらい、できれば今後の伝承への力になってもらいたいという願いを込めた。次代へのメッセージでもある。

 人の精神は経年を生きる、その過程において記憶してきたことは大事である。古老に聞く、年を経てきた人に聞く、これは何百人も聞いてきた。そういう中から埋もれていた町の文化を掘り起こしてきた。下北沢店員道場、独逸親衛隊の下北沢来訪、一番大きかったのはやはり疎開経験だ、これの掘り起こしをすることで近代戦争史の隠れていた事実を掘り起こすことができた。具体的には「鉛筆部隊と特攻隊」である。
 しかし、コロナ禍によって人と人との接触は極力避けるようにということで人から証言を聞くことができなくなった。このことから当方は散歩調査が中心となった。一人で各所を訪れ、町並みなどを見学し写真に撮ってきてそれをブログ、東京荏原都市物語資料館に記事としてまとめてきた。

 北沢川文化遺産保存の会は、下北沢や代田を中心にして情報蒐集を続けてきた。大勢の人から話を聞いてきた。そしてこられを地図づくりに生かしてきた。が、コロナ禍にあって情報収集ができないことは痛手である。
 古老がいなくなりつつあることも大きい。大古老だった三十尾生彦さん、長年下北沢に住まっていた彼からは多くのことを聞き知った。
 一番街の大月菓子店の文子おばあちゃんは貴重な存在だった。情報基地で彼女のところにいくとあらゆる情報があつまった。飯田勝さんや今井兼介さんから話を聞けたのは彼女のお陰である。映画プロデューサーの森栄晃さんを紹介してくれたのも彼女だった。
 大月菓子店は、北の情報ステーションとして重宝してきた。が、もうだいぶ前に店を閉めてしまった。人はどんどんと年老いて行く自分も同じである。しかし、このことはついつい忘れがちだ。この頃は古老だと思って話を聞くと、自分より相手が若いという場合がよくある。それともう一つ感じることは人々が昔話に興味を持たなくなってきたように感じる。思うに街の歴史はどんどん捨てられていくばかりである。
 多くの疎開経験者に出会ってきた。その人は手紙だとか日記などを大概は持っていた。恐らくそういうものはその人がいなくなると燃したり、捨てられたりしていると想像できる。自身特攻隊と疎開学童の関わりを調べてきた。疎開先で書いた手紙や日記には公に残っていないことが書かれている。できれば捨てないでほしい。
 自身の執筆だが『嗚呼八塊陸軍飛行場−特攻隊長と少年の物語』に取りかかった。渡台見聞は欠かせない。が、コロナ禍で行けない。完成が見通せないでいる。

二枚の肖像画
                      エッセイスト     葦田 華


 父の実家の客間には、床の間と違い棚があって、私はなぜか、しょっちゅう違い棚に足を向けてその前に寝かされていた。それはたいてい、風邪で熱が出るとか、何かしら病気をすると寝かされるポジションであった。
 私の足元の違い棚の上には、濃い黒い髭をたくわえた少し怖い感じの男の人が、額に収まっていた。その肖像画には何か人を畏怖させる力があって、私は長いこと、私に<華>という名前をつけてくれた、厳格な祖父だと思っていた。後になってその人は<明治天皇>だと知って、「なんだ、おじいちゃんじゃなかったのかあ。」と、少しがっかりした。
私が五歳ぐらいの頃だ。
 明治天皇の額に並べて、もう一枚の肖像画が額に入れて飾ってあった。その人はえもいわれぬ柔和な優しい瞳の顔で微笑んでおり、可愛い子羊を抱っこして私を見つめていた。
この人は誰だろうかといつも思っていた。赤い衣の上から青い布をはすかいにまとって、白い羊の群れの真ん中に立っていた。真ん中から分けた焦げ茶色の長い髪。髭もたくわえていたが、少しも怖くない。私はこの人を非常に好きになった。でも、誰なのか何にも知らなかった。
 五歳のくせに、私には深い悩みがあった。それは弟が三歳で死に、どこかに行ってしまったきり、二度と帰ってこない、ということであった。死ぬということは五歳の私の恐怖であり、眠る時にはいつも弟と、死ぬということばかり考えていた。お盆が近づくと、お寺の幼稚園児だった私は、先生に引率されて本堂に入り、地獄絵図を見させられた。それはそれは恐ろしい地獄の絵であった。そしてある絵図の所に来て、私は足が凍りついた。小さな子供達が河原で石を積んでいる。そこへ鬼が来て、刺のある太いバットで積み上げた石を崩してしまうのだ。泣いている子供も大勢居る。私は思わずへたりこんで大泣きをしてしまった。

 帰宅して、「おばあちゃん、タケシはどこに居るの?」と聞くと、「へえ、サイノカワラずらなあ。」と言った。私はタケシがかわいそうでたまらず、また大泣きをした。祖母は「ワシがなあ、朝晩経文を唱えて拝んでいるだぁからな、タケシは大丈夫だぁよ。お地蔵さんが助けてくれるだぁからな。」と言った。
 月日が経ち、私は七歳になった。ある日曜日、朝ごはんを食べていると、仲良しのナオキちゃんが、「ハナチャン、日曜学校に行きましょ!」と呼びに来てくれた。ナオキちゃんとは、別になんの約束もしていなかったが、私は嬉しくて、手を繋いでスキップして、初めて白いペンキで壁全体が塗られている<教会>という所に行った。
 教会の靴脱ぎ場所には、子供の運動靴や下駄がたくさん脱いであった。中に入ると、正面が一段高くなっていて、壁に十文字のヘンな木が飾ってあった。「あれはなあに?」とナオキちゃんに聞くと、「あれはね、えすさまがはりつけになった、じゅうじかっていうもんだよ。」と教えてくれた。私には<えすさま>も<はりつけ>も<じゅうじか>も、生まれて初めて聞く言葉だった。
 子供達はワイワイガヤガヤおしゃべりしていたが、一年生から六年生までごちゃごちゃに混ざっていて楽しそうだった。私はこれが教会学校なんだな、と理解した。三編みの高校生のお姉さんが子供賛美歌の冊子を配ってくれたり、詰め襟のお兄さんが玄関の天井から下がっている紐を引っ張って、尖塔の鐘を鳴らしたり、ウキウキする雰囲気だった。
 やがてオルガンが鳴り、全員が歌を歌いだした。ナオキちゃんが、子供賛美歌のページをめくって「ここを歌うんだよ」と教えてくれた。
 牧師さんはとっても小柄な女性で、青木郁子さんという方だった。牧師さんのお話は全く解らなかったが、紙芝居はとても面白かった。最後に、皆が待ちに待っていた小さい絵カードが配られた。私に配られたカードの絵を見て、私は仰天してしまった。あの、明治天皇の隣りの、私が大好きなあの人が描かれているカードだったからだ。「ナオキちゃん、この人はだれ?」「やだなあ、えすさまじゃないかあ。」「この人がえすさま?!」そこへ青木牧師が来て、私の両手を優しくとると、「華ちゃん、今日はよく来てくれたわね、楽しかった?何か心配なことがあったら青木牧師に話してね。」とおっしゃった。

 私は、タケシという弟が三歳で死んで今はサイノカワラで石を積んでいるらしいこと、鬼が来てせっかく積んだ石を壊し、死んだ子供がいじめられていて、我慢できないほどかわいそうだ、ということを一気に語った。
 青木牧師は「まあ、華ちゃん!つらい思いをしていたのね、ううん、大丈夫!タケシちゃんはね、イエスさまに抱っこされて真っ直ぐに天国に行ったのよ。」「天国ってどこの国ですか?」「イエスさまのお父さんの神さまの国、そこは素晴らしい国でね、悲しいことも苦しいこともひもじいこともなんにも無くてね、幸福でいっぱいになれる国なのよ。」「死なないと行けない国ですか?」「ううん、ちがうわ、生きていてイエスさまを神さまと信じたらね、華ちゃんの心は天国になるのよ。イエス・キリストを神さまだと信じることが大切なのよ。」と青木牧師は言った。その瞬間!私はイエス・キリストを神だと信じた。
 なんと幸いなことだろうか!たった七歳で神に出会えるとは!弟の死という辛い試練の後にキリストに出会えたのだ。イエス・キリストが抱っこしている子羊は、タケシなのだと解った。
 聖書には「あなたが私(神)を選んだのではない。私(神)があなたを選んだのだ」と記されている。私は事あるごとに、「神さま、私を選んでくださって感謝です。」と祈る。そして七歳の私を教会に連れていってくれた、小野ナオキちゃんのために神さまの祝福を祈っている。また、明快にイエス・キリストを神だと教えてくださった青木郁子牧師に、深く深く感謝しているのである。
(2021、1、13)

3、プチ町歩きの案内

 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。
◎先月緊急事態が延長されたことからプチ町歩きは中止した。それで順次繰り延べての実施である。コロナ感染の広がりも心配される。計画変更の場合は個別に連絡する。

第164回4月17日(土)  落合文士村を歩く
 案内者 松山信洋さん  西武新宿線 下落合駅南口改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館→地下鉄・西武中井駅


第165回5月15日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
  案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

P1020507
■ 編集後記                                  
▲「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」世田谷代田駅前ダイダラボッチ広場開場記念冊子は開場日の3月28日に関係者に配布をします。会員は邪宗門でもらえます。
▲3月28日(日)午前十一時 世田谷代田ダイダラボッチ広場オープンしました。当会では、広場完成記念地図(第八版)、ダイダラボッチ音頭、冊子「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」を作り、駅前広場開場記念事業実行委員会の支援を行いました。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
▲会員は年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。

◎「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」の寄贈について
ダイダラボッチ広場が3月28日に開場した。これを記念して冊子を作った。
  B5版56ページ
昨日、世田谷区の各部署に出向き冊子を寄贈した。
 ・世田谷中央図書館 23冊 ・世田谷区郷土資料館 3冊
 ・世田谷区教育委員会 6冊 ・区長室   2冊
  なお、国立国会図書館には郵送で1冊献本した。

*公的機関で所蔵希望の場合は寄贈したい。当方に連絡を。






rail777 at 08:02|Permalink│Comments(0)│

2020年11月01日

下北沢X物語(4116)―会報第172号:北沢川文化遺産保存の会―

P1020146
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第172号    
           2020年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、谷畑のダイダラボッチは池渕か? きむらけん

 「武蔵の巨人民譚」(雑誌 武蔵野第二巻第三号 大正八年)に荏原のダイダラボッチがある箇所として世田谷代田の他に「駒澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑等にもあるよし」と書かれている。この谷畑のダイダラボッチは自身のフィールドワークによってその候補地を探し当てていた。が、大阪の柴田昭彦氏から情報を得た。
  大場磐雄著作集第六巻 記録―考古学史 楽石雑筆(上)」(雄山閣、昭和50年)に次のような記述があると。「鈴木堅次郎氏のダイダラボッチ説」として

 〇矢畑にある巨人伝説地は「池ブチ」というところにて池あるところなりという。

 谷畑のダイダラボッチの在処について言及している文献はこれが初めてだ。
  池渕はダイダラボッチではないか?これは2008年10月15日、下北沢X物語(1188)〜荏原ダイダラボッチ巡礼行2〜で話題にしている。池渕はとても興味深い地であった。

・池渕は、池の縁にある。この池は文化二年の「目黒六ヶ村絵図」にも描かれている。これは「原の清水」と呼ばれていた。ここには「千年杉」が生えていたと「世田谷の河川と用水」には記録されている。そして、宝暦十二年の「衾村の村絵図」にはこの淵に第六天が祀られていた。これも水の神様であるようだ。
・かつて池のあったところは現在「衾町公園」となっている。ここには「衾町公園付近遺跡」があって縄文時代中期の遺跡となっている。縄文時代の竪穴住居跡があって、土器や鏃などが出土している。この一帯が古くからの生活の場であったことが分かる。

1、池としての窪みがあること。
2、池の縁に神が祀ってあったこと
3、すぐ側に縄文中期の遺跡があること
4、千年杉がここにあったこと


 谷畑ダイダラボッチの在処は不明であった。が、池渕が出てきてここが有力視されるようになった。 ただ問題は残る。同じ衾村村内とはいうものの距離が離れている点だ。谷畑という名は今はなくなったがこの地名そのものは当時としては知られていた。地域として広いゆえに、西谷畑、中谷畑、東谷畑と呼んでいた。一方、池渕というのはもっとローカルなもので、はじめ私もこの池渕のことは全く知らなかった。
 谷畑ダイダラボッチ、池渕説、鈴木堅次郎の言葉につい乗ってしまってこのように開陳している次第だ。ゆえに元々考えていた谷畑の凹みをダイダラボッチとする説を完全に否定するものではない。自分自身はずっと自由が丘ダイダラボッチを信じ込んで、何度か人を連れて案内したことがある。
 諸説紛々ということばもある。一つに決めてしまうのではなく、異説を出し合っていけば論点が絞られてくる。谷畑の窪み説、池渕説があってよい。却っておもしろい。その点でこのところ柴田昭彦氏から送られてくる情報はとても大事である。とても助かっている。彼は次のこともメールしてこられた。

 著作集第六巻の15頁に、谷川(昭和3年母方の姓を相続して、大場に改姓)磐雄氏が、大正7年10月に清水窪に行って、農夫に聞いた「スリバチ山」と貉窪の話がありました。これは、磐雄氏自身が自らのフィールドワークで見つけ出した場所ということになります。真新しい情報はありませんが、聞き取りを行なった「清水窪」の土地自体には巨人の足跡がなく、その場所から見て、西向かいの衾大岡山、南方の貉窪に巨人伝承があるというのも興味深いことです。
 
  当地一帯で「清水窪」は、有名だ、すぐ近くの小学校は「清水窪小学校」と名づけられている。洗足池へ流れこむ水流の一つの湧出源で今も大切に保存されている。
 大場磐雄は、大正七年「十月二十六日、清水窪付近に採集にゆき、そこの百姓にいろいろとおもしろきことをきけり」とある。
 大正年間であれば、百姓に聞けばきっと生々しい情報が聞けたろう。が、大岡山には常々行くが過去のことを知る人は今はもうほとんど居ない。
「今でも東工大に時計台ってあるだろう、昔はあそこから何人も学生が飛び降りていたけどね」と証言する人がいた。今は、回りに大きな建物が建って時計台は目立たなくなった。

2、初めてのランドセル

          エッセイスト 葦田 華

 私が小学校の入学を控えていた昭和25年、母はなかなかランドセルを買ってくれなかった。小さいくせに私は業を煮やして「お母さん、ハッちゃんはもうランドセルを持っているよ。「お華のランドセルはいつ買ってくれるのぉ?」と言った。すると母は「あんたにはね、赤い皮のランドセルを背負わせてあげるから、もう少し待っていなさい。東京のイサヲ伯父さんに頼んであるから、もうすぐ着くと思うんだけどねえ。」と言うのだった。こちらも、もうすぐ入学式になるという頃、イサヲ伯父ちゃんから小包が届いた。

 ところが包みの中から出てきたのは赤いランドセルではなくて、可愛いパッチン止めのついた黒い革靴だった。私はキャッキャッと喜び、畳の上で革靴を履いて、歩いたりスキップしたり寝転んでみたりしてはしゃいでいた。「東京でも、革の赤いランドセルは売ってないんですって。」と、母は伯父ちゃんの手紙を読むと、ため息をついた。 母は遠くの方を見てぼんやりしていた。あと数日で入学式だった。

 さて、それから、母は細長い町の下町から中町、上町まで、あらゆる雑貨屋や用品店、カバン屋を尋ね回り、やっとズックのランドセルを買うことが出来た。たった一個売れ残っていたのだそうだ。ベージュ色のランドセルは帆布の布で出来ていて、ハッちゃんのランドセルと同じだった。
私は嬉しくて嬉しくて、跳んではねては姿見でランドセル姿を眺めて喜んでいた。

 さあ、今日が入学式という朝、目が覚めてビックリした。枕元に、見たこともない凄いランドセルが置いてあったからだ。ランドセルのふたに、一面色鮮やかな刺しゅうが施してあった。背景として斜めにススキ、真ん中には黄色い女郎花と紫色のリンドウ、赤いワレモコウ、手前はピンクや赤や黄色の菊の花の図柄であった。

 私は愕然とした。あのまんまで良かったのに、ハッちゃんと同じフツーのランドセルが欲しかったのに、夜中にお母さんが全部刺しゅうをしてしまったんだあ!と、悔しかった。こんな満艦飾のランドセルなんて欲しくなかった!と、実にガッカリした。するといつの間にか母が来て、「どお?綺麗でしょう?お母さんねえ、ゆうべ1時までかかって仕上げたのよ。」と言った。

 私は小さい時から「のろまの華、だけど素直な華」とあだ名で呼ばれるぐらいに、素直だったらしい。母が午前1時までかかって作ってくれたんだ、と思うと、嫌だのオウだのとは言えなかった。「嫌だ!」と言えない性質の私は、その「満艦飾」のランドセルを背負って、ピッカピカの革靴を履いて入学式に出た。
 私の小学校は、小さい城下町にあり、結構なマンモス校であった。上級生が私のランドセルを見てヒソヒソ話しているのや、同級生の女の子達が「ヘェー!?」という奇異の目で私を見るので、いたたまれない気持ちだった。
 式も終り、教科書をいっぱいいれた「満艦飾」で帰宅すると、母だけは至極御満悦で、「こんな素敵なランドセルを背負っている子供は、一人も居なかったわねえ、華!」と言った。私は嫌々ながら「ウン。」と答えた。だがよくしたもので、日にちが経つうちに<満艦飾>の刺しゅうのことなどすっかり忘れていた。だんだん手垢がついて汚れてきたし、クラスメートも、もう慣れっこになったらしかった。

 さて、月日は経ち、三年になっていた。ある暑い土曜日のこと、帰宅するため校庭を歩いていたら、バラバラ!っと大粒の雨が降ってきた。あっという間の凄まじい土砂降りの雨に、広い校庭には身を隠す場所も無かった。遮二無二走って、濡れネズミになって帰宅した。玄関でランドセルを下ろして仰天した。雨に濡れた刺しゅう糸からは染料が滲みだし、「満艦飾」の刺しゅうは全ての色が混じりあっていた。その色はほぼ紫がかった黒に近く、見るも無惨な秋草だったのだ。

 母が刺しゅうをしてくれた昭和25年、敗戦後の日本は貧しくて、粗悪品ばかりであった。刺しゅう糸もその例に漏れず、いいくらかげんの糸だったのだ。私はグチャグチャに色が滲み出て混じりあったランドセルは、見るのも嫌だった。けれど母はそれを乾かして、翌朝には、「しょって行きなさい!」と厳命した。私は悔しかった。
「お母さんが最初にヘンなことをしなければ、ずっとハッちゃんとお揃いだったのにィ」と思ったからだ。でもがまんして、色がめちゃくちゃに混じりあった汚いランドセルを背負って学校へ行った。

 何年生までその汚いランドセルをしょっていたのか覚えていない。かといって、新しいランドセルなんて買ってもらった記憶もない。とにかく、豪華で色とりどりの革のランドセルの宣伝をテレビで見るにつけ、非常に複雑な思い出が甦ってくるのだ。


3、プチ町歩きの案内

 コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
 *四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

第162回 11月21日(土) 13時 東急線・多摩川駅改札前集合
 案内者 木村康伸  六郷用水を歩く
コース:多摩川駅→丸子川合流地点→六郷用水復元水路→女堀→鵜の木松山公園→下丸子南北引分→下丸子駅 *注:今年1月、4月に中止となった企画を三度目の正直で11月に実施する。喜多見の次太夫堀の先に当たる六郷用水沿いは史跡の宝庫であり荏原の歴史の縮図でもある。用水沿いを歩きながら、荏原の歴史の物語を紐解いていく。プチ町歩き対応としてコースを短縮し内容を凝縮した。


第163回 12月19日(土)13時 集合:渋谷駅南口・稲荷橋広場のエスカレータ下 案内者:梶山公子
 「(仮題)渋谷川中流を歩く―『寛永江戸全図』を参考にして」

・今回の町歩きツアーでは、渋谷駅南口から天現寺橋周辺までの約2キロの道程を、開渠の本流、そして昔の支流や分水を確かめながら歩きます。コース:稲荷橋(渋谷ストリーム)―徒歩橋(金王八幡宮の川)―並木橋(鉢山分水)―比丘橋(猿楽分水)―庚申橋(水車)―渋谷橋(道城口分水近傍)−恵比寿橋(いもり川近傍)山下橋―(玉川水車)―天現寺橋(笄川)―狸橋(白金分水)・解散 
*渋谷川の中流部は、陸化した東京湾の中心を古東京川が流れていた約2万年前に骨格が完成し、7千年前の縄文海進前後から流域に人々が住むようになりました。そうした渋谷川の太古の歴史を振り返りつつ、江戸・明治、そして現代への川の移り変わりと人々の生活を考えます。午後1時から3時半頃までの予定ですので、よろしくご参加下さい。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
 きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net  電話は03-3718-6498    
米澤邦頼へは 090−3501−7278

■ 編集後記                                  
▲会員の訃報:今井 明氏。9月25日に逝去された。30日に下北沢聖書教会で家族葬が行われた、享年81歳でした。代沢小の卒業生だった。「早稲田大学の考古学の一員で遺跡の測量をされた。カンボジアの世界遺産、アンコールワットの測量も担当された」(聖書協会のしおりから)とのこと。ご冥福をお祈り申し上げます。
▲今年も後二月となりました。いつもは恒例の忘年会を実施していましたが、コロナ感染が収まっていません。納涼会に引き続き、暮れの忘年会も中止することにしました。
▲会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は、衾町公園、旧池渕地区)




rail777 at 12:00|Permalink│Comments(0)│

2017年09月24日

下北沢X物語(3367)―会報第135号:北沢川文化遺産保存の会―

DSCN0151
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第135号   
           2017年10月1日発行(毎月1回発行) *ネット版
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、いとしなつかし昔の代沢

 北沢川文化遺産保存の会は、十二年前に発足した。考えてみるとあの時代は、昔ばなしの宝庫だった。古老の誰を捕まえても昔の話を覚えていた。三田用水のことなんかは、相好を崩して語った。「昔は恵比寿まで流れていってビール瓶を洗っておった。もっと昔はこの水を使って水車を回し、海軍の火薬を作っていた……蛍も飛んでいた」などと。
 あれから十数年、当たり前のことだが古老も年を重ねていく、現古老は転入者が多く、昔をあまり知らない。逆に聞かれて、話をすると皆驚く。昭和は遠くなりにけり。

 古い地域紙は面白い。昭和五十九年発行の「みにこみ7」には、何と、鳴瀬速夫さんがエッセイを書いている。代沢小鉛筆部隊の隊員だった。疎開先では起床のラッパを吹いていた人だ。ラッパ隊員にはお握りの特配があって、「それがすばらしく旨かった」と。
 これは「みにこみ」に載った「幻のぼうけん山」と題された鳴瀬さんのエッセイだ。
 
 ピュー!パチン、「痛え、やったなあ!」土合戦である。土くれの投げ合いで、顔に当たって泣き出す子もいる。両軍土手の上と下とにわかれての戦いだ。草むらから姿を現して、ヒューッと投げる。
 合戦上は急斜面の土手の草むら、雑木もまばらに立っている。テレビももゲームマシンもない戦中派の子どもたちには、この通称「ぼうけん山」は実に楽しい遊園地であった。
 こんなすばらしい子ども世界が、わが代沢にあったのである。それは現在、梅ヶ丘通りと一つ南の通りの間で四丁目三一番地のあたりだった筈である。
 今では立派な住宅が建ち並び、昔を偲ぶよすがは何もない。坂道の傾斜のみがぼうけん山の「史跡」である。だが、あれから四十年も経ったのに今もこのあたりを散策すると、『トロッコ』(芥川龍之介)の良平のように、「なんの理由もなく」ふと、往時の土手や草むらが思い出される。
物質に恵まれた今の子どもには、こんな素朴な楽しさを味わうことはできない。かわいそうな気もする。物は消えるが思い出は消えない。


 確かにそうだ。買ったゲームのソフトなどは古びるとゴミになる。が、少年時代の思い出は永く記憶に残る。芥川龍之介の『トロッコ』の引用は興味深い。ここに出てくる良平少年は、大人になっても思い出す。トロッコで遠くまで連れられていく。ところが突然に土工にもう返れと言われて、暮れかけた線路道を懸命に走る。その寂しい線路道を……
 思い出深い、その場所はすっかり消えてしまったが、「坂道の傾斜のみがぼうけん山」の史跡として残っているという。さてそこはどこか、地図で調べて驚いた。何と代田七人衆の末裔柳下政治さんの裏手の山だった。
 私は、二○○五年一月柳下政治さんにインタビューをしている。それをブログに「代沢の古武士から聞いた話」として記録している。その彼も亡くなられた。代田七人衆のうち柳下、清水家が本村から分家し、下代田を開拓した。
「わたしはここが本家でここで生まれました。代田は向こうが本拠地だけどうちと清水さんなんかがこちらを開墾してきてこちらの方に土地は広がってきた。私のところは柳下だけど、山の下にあるものだからその方が通りがよくて『山下』という字名がついてしまったのですよ。」
柳下さんが言う山の、その斜面のことを鳴瀬さんは言っていた。柳下家の裏山は少年たちの「冒険山」だった。ちょうどその冒険山の下に大きな欅の木があった。柳下家の大欅である。この欅こそ文学に関係してくる樹木である。
 昭和十六年二月に世田谷区下代田二二八番地に越してきた俳人がいた。加藤楸邨である。新しい環境のところへ来て刺激を受けた。それを次のように書いている。

 見なれぬものの中に身を置いて、その中から激しいものを感じ取る気持ちがよびさまれてしまった。こころひそかに前の欅を仰ぎ、裏の櫟を見る朝夕に、この心の向きどころが定まりかけていた。
 旅おもふ欅を春の露走り 『加藤楸邨』 田川飛旅子著 桜楓社


 山下にある大欅こそは俳人加藤楸邨を旅に誘っ樹だ。ちょうどこの坂は北向きだ。北風が吹いては虎落笛を慣らした。これが俳人を漂泊に誘った。そして孤島で詠んだ絶唱

隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな

 後鳥羽院が流された隠岐の島へ旅をした。そして歌人の一人心を突き止めようとしたのである。この時期に詠まれた俳句作品に「転校の子に泣かれゐる雪の中」というのがある。代沢小に通っていた楸邨の息子、加藤穂高さんのことだ。「代沢に転校してきたが勉強はこちらの方が進んでいるのです。追いつかなくて泣きました」と。その現地の子の筆頭は鳴瀬速夫さんである。同級生である。この二人、浅間温泉に疎開した。鳴瀬さんは千代の湯だ、ここで満州からやってきた特攻隊武剋隊のお兄さんたちと一月暮らした。一方、加藤穂高さんは、桐の湯だ、重爆撃機飛龍に乗った隊員が度々旅館に来ていたという。

2、池上線を旅してみませんか

 東急池上線をご存じですか。近隣の私鉄幹線は十両編成で快速で突っ走っている。が、池上線の編成は三両だ、これが荏原南部をことことと走っている。都会ののどかなローカル線だ。五反田と蒲田の間を結んでいる線である。この線に関するイベント情報が流されている。

 東急池上線、10月9日は無料に 開通90周年イベントを沿線で開催
当日は、池上線の駅改札付近で「1日フリー乗車券」を無料で配布。これを利用すると池上線内が1日乗り降り自由になります。東急電鉄は「電車を1日無料でご利用いただくという試みは、首都圏の鉄道会社では初めての取り組み」といいます。


十月九日は体育の日だ。この日が全線無料だという。これを使って沿線を見学してまわるというのはどうだろうか。まず、五反田に集まる、最初は戸越銀座駅で降りて、関東有数の長さの商店街を覗く。つぎが洗足池、ここは池を一周する。勝海舟の墓もある。その次は、石川台駅だ、映画舞台としてよく使われる。見学したいのは池上線切り通しだ。ここに駒沢線のNO1がある。
 池上線でぜひ降りたいのは池上である。本門寺に参拝する。最後は蒲田駅だ、ここは蒲田撮影所跡を見学する。蒲田で解散し、再度個人的好きなところへ行く。

10月9日(月・体育の日)五反田駅JR東口改札前
13時集合。(東急は混雑が予想される)
 会費 無料 保険代なし 何となくみんなで行く。
 五名集まれば実施しようと思う。締め切りは10月6日、なるべく早く連絡をしてもらうといい。米澤かきむらに


3,代田を知ろう!学ぼう!講演会

 八月の当会の研究会、納涼会に秋元正美さんが出席され、宣伝されていた。
 代田図書館講演会。タイトルは、「昭和10年代20年代の代田」だ。
 期日 10月14日(土) 13:30〜15:00
 場所 代田区民センター第3会議室
 定員:30名 直接会場へ、先着順
講師
  秋元一男氏 ふるさと世田谷を語る。代田編話者・中原出身
  秋元正美氏 代田北町会会長          中原出身
  柳下隆氏  美土代会代表幹事         本村出身
 

4、都市物語を旅する会 
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前 案内人 松山信洋さん
 (新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟


第133回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
 案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々
第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
 案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん  (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
第135回 1月20日(土)午後1時 東横線代官山駅改札前
 案内人 山内久義さん(代官山ステキ総合研究所 事務局) 代官山を歩く
 新しく変わりつつある代官山を、街に詳しい山内さんの案内で歩く。これも初めての企画です。代官山ステキ総研は当会と連携関係にある団体です。
コース:駅→マンサード代官山→代官山ひまわり坂→代官山アドレス(同潤会跡)→
テノハ代官山→ヒルサイドテラス(旧朝倉邸を眺めながら)→猿楽神社(猿楽塚)→T-SITE
→猿楽古代住居跡公園 + モンキーカフェ

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498


5、市民活動体験喫茶パオ
 10月22日(日) 11:00〜18:00
 キャロットタワー三階 市民活動コーナー
  市民活動支援コーナー登録団体が活動をする 地図配り、紀要展示
  きむらが詰めていて活動します。おいでください。

6、古老の話を聞く(下北沢地下道)

 下北沢地下道のことをよく覚えている昭和二年生まれの石川寿男さん。一度話を伺ったが図を新しく書いたとの連絡。また資料も見つかったと。話を聞きにいくことにした。
期日は、10月7日(土)午後二時から石川さん方自宅。
 できれば同道して駅へ行き、往時の痕跡を調べる。参加希望あれば当方へ。なお、自宅は旧代沢小近く。

■ 編集後記
▲先月「世田谷のダイダラボッチを歩く」は、台風余波の雨との報で中止しました。コース再検討しました。柳田国男がダイダラボッチ探訪のために歩いた道を辿ろうと。それで代田橋駅集合にしました。途中は代田五丁目からバスに乗り野沢銀座まで乗ります。ここから駒沢村にあった二つのダイダラボッチ跡を歩き、解散を学芸大学にします。実施期日はまだ決めていません。いずれ計画に組み込もうと思います。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
▲当会も発足し十二年になるがどのように継続するのか、大きな課題となってきた。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。(写真は、池上線電車)



rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)│