広島原爆
2020年05月26日
下北沢X物語(4011)―Net開催第13回「戦争経験を伝承する会」―

(一)5月24日の第13回「戦争経験を伝承する会」は非常事態宣言で中止をした。しかし、テレワーク同様、ネットでの開催は可能だ。よってここにネットで内容を伝達するものである。テーマは「ヒロシマの原爆を語る」だ。
・今年は戦後75年、時の経過とともに戦争は風化していく。が、昨年11月ローマ教皇フランシスコが来日し、「核兵器は安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない」、核使用は「犯罪以外の何ものでもない」と。核の恐ろしさを改めて考えさせられた。米国の核の傘にどっぷりと浸かっている吾々への警鐘でもある。赤ん坊も爺さんも婆さんも見境なく一瞬にして殺戮する兵器の使用は犯罪以外の何ものでもない。吾々は核の被害を犠牲者数で言う。が、核の惨さはその数で表されない。生き残っても死ぬまで放射能の後遺症に苦しむ。身体をどんどん蝕んでいく。その後遺症のひどさは話題にならない。核には核をというのが今の論理だが、これは人間として改めていかなくてはならない。
私は、鉄道が好きだ。深く感銘を受けた話があった。広島では8月6日、被爆してすぐに市内電車を蘇らせようと人々が動き始めた。3日後にもう一部区間が動き始めた。この電車の警鐘、「チンチン」を聞いて絶望的な状況にあった市民が生きる勇気を得た。この話をぜひ物語に書きたいと思って関係者に取材をした。(写真は往時の新聞記事)
戦争中広島では市民の足となっていた電車が市内中を縦横に走っていた。が、男たちは次々に戦争にかり出され人手が足りなくなっていた。それを補っていたのが「広島電鉄家政女学校」の女学生だった。1945年4月には約300名が在籍していた。彼女等は学業の傍ら、交代で電車業務に就いていた。8月6日も数多くの女学生が運転士として車掌として業務に就いていた。この日原爆で30名が犠牲になった。
電車は市内各所を走っていた。乗務していた女学生は皆被害を受けた。彼女らはあらかじめ知らされていた集合場所に集まった。それは宇品の神田神社だった。当夜全員が集合したのは夜遅くだった。やけどをしたり傷を負ったりした者もいた。揃ったところで避難場所へ移動した。井口村(西区)の実践高等女学校である。被爆した広島市内を東から西へと横断していく形である。市内各所はまだ燃えていた。着ていた衣服を井戸の水で濡らして頭からかぶる。それでも熱くて耐えられないほどだった。路傍には瀕死の人々が方々に転がっていた、死体には何度も躓いた。か細い声でみな助けを求める、「水を、水を」という声も何度も聞いた。それをうち捨ててひたすらに歩いていくしかなかった。彼女らもほとんどが負傷していた、人の面倒を見る余裕はなかった。
続きを読む
rail777 at 18:30|Permalink│Comments(0)│



















