武揚隊
2021年04月29日
下北沢X物語(4235)― 一特攻隊長の遺詠(下)―

(一)武揚隊隊員が思いを書き残していた和綴じ帳には謎が多い。浅間温泉富貴の湯の彼らの滞在は四十日にも及ぶ。この間に高山宝子さんを中心とする女子学生が慰問に訪れた。これは何時のことだったのかは分からない。手がかりは全隊員14名のうち11名が揮毫していることだ。これら総体から読み取れることは特攻突撃への思いが熱いことだ。ゆえに慰問団訪問は松本飛行場からの出撃直前だったに違いない。その筆遣いや言葉からは時間が切迫していたことが読み取れる。ここには言霊が詰まっている。印象深いのは山本薫中尉と五来末義軍曹の遺詠が左右同じページに書かれていることだ。因縁の二人だ、両人がいなかったら武揚隊の行方を追跡しなかったろう。
(二)
高山宝子さんが富貴の湯を訪問したのは1945年3月末、浅間温泉を出て松本陸軍飛行場から九州に向かって出撃する直前だった。彼女は仲間を引き連れて旅館に慰問に行った。隊員の一人飯沼芳雄伍長は彼女の同級生だった。これが訪問のきっかけだった。遺墨の順番は意味がある。隊員は各部屋に別れてていて彼女等は一つ一つを回っては揮毫を頼んだ。
回っていった一つの部屋には山本薫中尉と五来末義軍曹がいたように思われる。
「お別れに当たってのサインをお願いします」と宝子さんは頼んだ。
「五来、お前から書け」と隊長。
「わたしからですか」と軍曹、彼はおもむろに筆を取った。
君が為 南十字星の下遠く 花と散るらん 大和ますらを 五来軍曹
(自分が仕えている君主、あなたのために私はあの光り輝く南十字星の海原遠く
そこで敵艦にぶち当たって花と散りましょう、強く堂堂とした立派な大和男子として……)
「五来なかなかいいじゃないか、『南十字星の下遠く』がいいよ。よし、おれも書くか」

いざ行かん 浅間の梅を えびらさし
わたつみ遙か 香をとどめん
武揚隊長 山本薫
「隊長いいですね……『わたつみ遙か 香をとどめん』がいいですよ」
「隊長さん、素敵です……」と宝子さん
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2021年04月28日
下北沢X物語(4234)― 一特攻隊長の遺詠(上)―

(一)知覧特攻平和会館から「三十一音の遺書」という企画展の案内を戴いた。特攻出撃に当たっての思いを三十一文字に託して特攻隊員が詠んでいる。このうち一首は私には思い出深いものだ。9年前の夏、NHK長野放送局に行った。そのときに誠第三十一飛行隊山本薫中尉の短歌について最初に聞かれた。なぜだろうと疑問に思った、が、すぐに謎が解けた。翌日松本博物館の『戦争と平和展』を見学した、入ると隊長の歌が真っ先に飛び込んできた。白い布地に大きく墨書されたものだ。同隊の他十人の遺墨もきれいに飾ってあった。この遺墨の所在は私のところに偶然届いたものだ。持ち主の箪笥の中にひっそりと眠っていたものだ。遺墨の多くに武揚隊とあった。これを手がかりとしてネットで検索した人がいた。すると当ブログが引っ掛かった。これが機縁となって日の目を見たのである。この遺墨を中心に展覧会は開かれていた。
(二)
知覧特攻平和会館の学芸員 羽場恵理子さんからの手紙にはこうあった。
このたび、知覧特攻平和会館では、企画展「三十一音の遺書」の図録を作成いたしました。展示品の一つに武揚隊の山本薫少佐の遺筆を展示しておりまして、その説明を作成する際に、木村様の書籍『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』を参考にさせていただきましたのでお送りします。
遺筆の原本は2019年に知覧特攻平和会館に寄贈された。私が所有者に代わって館に届けたものである。
原本は高山宝子さんと言う人が持っていたものだ。この娘さんが田澤澄江さんだった。彼女に正体不明の遺筆の調べを任されたのが安曇野在住の丸山修さんである。ネット検索に掛けたのは彼である。
作品(『鉛筆部隊と特攻隊』)はほぼ仕上がっていた。そんなときに飛び込んできた新情報である。丸山さんにはすぐに遺墨を複写したPDFをメールで送ってもらった。これには十一人武揚隊隊員が思いを筆に託してサインをしてあった。新しい資料の発見だ。
と号第三十一飛行隊(武揚隊)が陸軍松本飛行場に降り立ち、浅間温泉に滞在していたことは分かっていた。が、物証はなかった。これそのものが彼らの松本滞在を立証する証拠そのものとなった。
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2021年01月23日
下北沢X物語(4171)―特攻台湾因縁大円環―

(一)めくるめく因縁物語だ。1945年2月11日、満州新京で特攻四隊が結成された、皆、「誠」がつく、台湾に本拠を置く第八飛行師団の通称号だ、戦況は逼迫してきて翌3月には米軍は沖縄に侵攻して来る。四隊は、敵を迎え撃つ、武剋隊、扶揺隊、蒼龍隊は本土南端九州から直接特攻出撃した。が、武揚隊だけは師団命令によって大陸経由で台湾へ渡る。海も空も敵に落ちた中での渡台は決死行だった。4月12日与那国島近辺でグラマンに遭遇し長谷川信少尉を含む三機が敵の餌食となった。辛うじて台湾に着いたのは十四名のうち三機と八名だった。武揚隊は悲運の隊だ、が、戦後75年、この8月、台湾から一本の電話が入る。少年時代武揚隊隊長山本薫中尉と出会って空に憧れ、ついには空軍に入ってパイロットとなった邱垂宇さん、八十七歳からだ。運命の円環に自分も呑み込まれてしまった。
(二)
「長谷川信少尉はズーズー弁の海老根重信軍曹と西尾勇助軍曹とともに台湾に渡るときに米軍機に撃ち落とされたんですね、段段に分かってくると敵の巣窟に突っ込んだのですね……」
私は電話で秋元佳子さんに言った。
彼女によると浅間温泉富貴の湯では長谷川信は温厚な様子だったと言う。しかし時が経って考えてみると浅間滞在がこの武揚隊の運命を決めたのではないかと思う。
「この頃下馬はよく散歩で通るのですよ。大田幸子さんの家のわきは……」
富貴の湯に東大原小は疎開していたと知ってから元学童をさんざん捜し回った。が、なかなか見つからない。
これも因縁の円環かもしれぬ、建築家今井健次さんの息子今井兼介さんが教えてくれた。
「隣の家には家賃の控え帳があって中村草田男とか、栗林忠道などのサインがあるそうです」
中村草田男は俳人だ、栗林忠道は、硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官である。これも、つてのつてを辿ってようやくご主人に会うことができた。
『私の妹は東大原小で浅間温泉に疎開していました……』
『えっ!』
その妹が太田幸子さんである。篠山さんの紹介で彼女に会った。そのときに一番衝撃を受けたのが疎開学童と特攻隊員が一緒に写った写真だ。これは歴史的写真として方々で使われた。(写真は一例だ)
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2020年11月17日
下北沢X物語(4127)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語17―

(一)機械近代と特攻隊長に遭遇した少年の物語、青春小説だ。戦争が密接に絡んでくる。「私はとても好奇心が旺盛でしたね。これは子どもの頃からです……」小学校四年の邱垂宇さんは変化に敏感だった。「今度なあ、日本軍がここに飛行場を作るというんだよ」と彼の父親が言う。一帯は砂糖黍畑がどこまでも続く田舎だった。「空から飛行機が飛んでくる」、聞いただけでも嬉しくなってきた。やがて砂糖黍は伐り倒される、少年も作業に動員された。土を掘り、均し、固める。そのうちにロードローラーがやってきて滑走路を踏み固めた。「試験機が来るらしい」と聞いた。興奮で寝られなかった。とある日、爆音を聞きつけた。「飛行機だ!」、空から下りて来た二機は、タッチアンドゴーを繰り返す。「試験飛行だ!」、邱垂宇は直感的に分かった。「行くぞ!」と言って弟の手を引っ張った。飛行場への道を懸命に駆けた。「絶対に見逃すもんか!」。
(二)
「確かあれは百式司令部偵察機だったと思うのです」
邱垂宇さんと話していて何時も感心するのは飛行機の型に詳しいことだ。
前に広島で取材をしたときにその女性が電車の形を数字で言っていた。百形、二百形、「最新型は六百五十形でした」などと。不思議だった。が、分かってみれば何のこともない。彼女は戦時中市電を運転していた。常々乗務していると機械の見分けが付く。
邱垂宇さんは軍用機から民間旅客機まで乗りこなしている。昔から飛行機の機種については深い関心を持っていたらしい。
「流線型で綺麗な飛行機でした」
百司偵は、帝国陸軍の主力戦略偵察機として使用された。気筒のカウルがかっこいい。尾翼がピィンと立っている。
「あれは何回か模擬着陸訓練をしていました。そして何回目かに着地したんですよ、白い埃がパッと散ったのです。車輪がキキッと音を立てました。どきどきしました……」
邱垂宇さんは、八塊陸軍飛行場で起こったことを数多く証言されている。一番こちらが知りたいのは、何時か、誰か?である。
「一つ一つの逸話はとても記録として大事です。その話がいつ頃だったのか思い出してくだされば助かります」
証言の中にB25墜落事件のことが書いてあった。誰もがこれを見に行った。
「確かあれは、1920年の6月15日だったと思います。戦後になってアメリカ軍が調査に来ていますから乗務員の名前も分かると思うのです。こちらで調べておきますから……」
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2020年10月12日
下北沢X物語(4104)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語16―

(一)中国語と日々格闘している。漢字ゆえに書かれている内容が少し透けてみえる。ちらちら見えるから却って知りたいという欲望が募ってくる。邱垂宇さんは八塊飛行場での体験を回想して書いておられる。ここでの特攻隊員たちとのふれ合いは具体的である。いわば油臭いつきあいだ。松本浅間温泉にいた疎開学童と特攻隊員たちのふれ合いは綺麗だったと言える。なぜなら現場ではないからだ。ところが邱垂宇さんは飛行場の現場にいた。言えばガソリンの匂いが漂ってくるところ、エンジンの音が直に聞こえてくるところだった。ゆえに男の子の経験はリアルである。
松本でも学童は機の音を聴いて形式を当てる遊びをしていた。邱垂宇さんの場合は驚きだ、エンジンの音を聴いてアメリカの戦闘機の機種が分かったようだ。そういう生々しい経験が文章に書かれている。意味がわからないが魅力的な文章だ。
邱垂宇さんは当時十歳である。武揚隊の隊長は台湾八塊で彼と出会った。少年には飛びっきりかっこいい将校に見えたようだ。2008年8月に「全國第一本國繪式軍警消雑誌」、「兵器戰術圖解」が出されている。日本で言えば雑誌「丸」に当たるものだ。ここに「桃園八徳機場的回憶」として邱垂宇さんから八塊飛行場の昔について取材した文章が載っている。書き手は劉文孝氏である、台湾では軍事関係に詳しいエキスパートのようである。これが台湾の邱垂宇さんから送られてきた。
書かれているのは中国語だ。簡単なのは訳をしてもらうことだ。ネットで調べると翻訳を請け負う会社は沢山ある。が、私は早く内容を知りたいと思って一語一語、中国語を拾ってはパソコンに打ち込んでいる。ところがこれがやっかいだ。台湾語、旧漢字である。「湾」も「灣」と表記する。普段使ったことのない漢字が頻繁に出てくる。その一例が「他們」である。どんな意味か?調べると代名詞で「彼ら」という意味だ。「他們」と言っているのは邱垂宇さんである。その彼がいう、「彼ら」とは八塊陸軍飛行場にいる特攻隊員に他ならない。
何事も初めて行うことは困難が伴う。最初は一つ一つ、例えば「従」とあると検索に掛ける。
「従 旧字」と。これはとても面倒だ、そのうちにワープロの機能に「異体字」とあることが分かった。「従」と入れて、これにカーソルを合わせる、すると異体字の候補が示される。「從」が出てきたら置き換えをクリックする。手間が一つ省ける。
しかし、単純には行かない。日常まったく使わない漢字が出てくる。これは「文字パレット」を出して、偏や旁から探しだす。これは相当に面倒だ。「卡」「另」「怎」「它」「很」「跟」など頻繁に出てくる。それでもカーテンの向こうにどんな魅力的なことが書いてあるか?この興味こそが人間の活力となる。
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2020年09月11日
下北沢X物語(4083)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語8―

(一)台湾桃園市で今開催されている「鉄翼栄光」展は当地でも大きな話題となっている。メディアも多く取り上げている。ネットでこれが見られる。記事の中に武揚隊山本薫隊長と邱垂宇さんとの出会いが書かれている。この新聞記事は何度も繰り返し読んだ。感銘深い記事である。「在八��餘慶堂住了55年的邱垂宇分享,誠特攻隊到家裡住時,自己才4、5年級,看著隊上最年輕才17歲,隊長山本�眞羂嗅藏�23歲,出任務時背著箭袋的英勇模樣,受到啟發,長大後進入空軍官校38期畢業……」邱垂宇さんは身震いするほどに英雄的に見えた隊長、彼に感化されて空軍士官学校を志望して合格し憧れのパイロットになったと。
と号第三十一飛行隊(武揚隊)は、新京から長野松本飛行場へ、そして九州新田原へ、さらには台湾へ行き。海峡を飛んでようやっと陸軍八塊飛行場に着いた、苦闘苦難の道のりだ。部下を敵機に奪われたり、機が次々に脱落したり、自らも与那国島に不時着をして負傷した。ここから船で台湾に渡った。ここで一人の少年に出会ってその彼に大きな影響を与えた。
記事には隊員の最年少は十七歳であったという。邱垂宇さんの記憶に基づいて書かれた記事だろう。これは誰か調べてみた。
以前、飯沼芳雄伍長の同級生の石川矩長さんから情報を得た。彼は昭和二十年時で松本中学五年生だった。十七歳である。ゆえに記事にある年齢は飯沼芳雄伍長に他ならない。邱垂宇さんに聞いていないが、飯沼伍長のことを覚えているかもしれない。
知覧特攻平和会館の記録では八塊陸軍飛行場からは32機の特攻機が出撃したとなっている。飯沼伍長は昭和20年7月19日に八塊から出撃した。が、宮古島まで行って墜落したようだ。それで「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」には載っていない。
特攻出撃者でないと数の中に入らない。が、事実は、八塊から出撃したのは33名である。可能性としては飯沼伍長のような者が他にいるかもしれない。
この他、武揚隊の海老根 重信伍長、西尾 勇助軍曹、長谷川信少尉がいた。三人も出撃を夢見て台湾に渡る途中敵機に撃墜され、与那国島北方の海で亡くなった。準特攻戦没者である。現地では八塊飛行場の歴史をまとめようという動きがある。このことも記録してもらいたいと思う。
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2020年08月30日
下北沢X物語(4075)―鉄翼栄光:国境なき特攻物語1―

(一)ネット発信を続けて16年、数々の奇遇、奇譚に遭遇してきた。これがきっかけで「鉛筆部隊と特攻隊」は編まれ書籍として発信をされた。情報は情報を生む、因縁の円環は果てもない。昨年、改訂新版「鉛筆部隊と特攻隊」を出してこれのけじめをつけた。ところが戦後75年、76目に入った8月の終わり、この26日に電話が突然に「圏外からです」と告げた。受話器を取ると台湾からの国際電話だった。向こうからは流暢な日本語が聞こえてきた。何と彼が告げたのは山本薫中尉の名である。苦難苦闘一千里、日本から台湾に飛んだ特攻隊「武揚隊」を率いた隊長の名である。「耳を疑う」という卑俗な慣用句がある、が、私はその情報を聞きさして卒倒しそうになった。「まさか!」である。
この情報の前ぶれは一日前の25日にあった。が、これも唐突だった、こちらの電話は「京都」からだった。この前には「福島」からあった。この県に知人はいない。が、思い当たる節があった、もしやと思った。が、その想像は当たっていた。電話の相手の長島雄一さんが告げた名は、武揚隊の長谷川信少尉である。彼は福島出身である。
それで今度は「京都」から掛かった、奇縁、因縁は果てがない。相手が口にしたのは何と山本薫中尉の名である。新手の情報だ。が、繋がりが読めない。長島さんの場合には喜多方高校の先輩である長谷川信を研究していると。これを聞いて事情がすべて飲み込めた。
京都からの電話は京都大の先生だった。ふと戦後史でも研究しておられるのかと思った。後でこのことは分かるが鈴木雄太先生は理系の研究者だった。
いきさつはこうだ、彼の知人が台湾に住んでいてその人の叔父から私へのコンタクトを頼まれたようだ。
その叔父さんというのはて87歳で、子どものときに山本薫隊長に出会ったというのである。なんとも「耳を疑う」話である。
「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」を私は調べた。多くの資料を漁ってきた。
会報 特攻 平成13年2月 第46号 特攻戦没者慰霊平和記念協会発行に「特攻隊の裏方 飛行第一〇八戦隊 菱沼 俊雄」という文章がある。その末尾だ。
その夜、八紘荘では武揚隊がささやかな宴をはって壮行会がおこなわれていた。一方、私はこの特攻隊を台湾の基地まで誘導せよ、という命令を受領した。
その夜というのは昭和20年4月4日のことだ。八紘荘は九州新田原飛行場内にあった乗務員宿舎である。台湾行きを命ぜられた武揚隊はいよいよ目的地に向かう。日本最後の夜だというので祝宴を張った。
私は、彼らの足跡を求めて新田原飛行場まで行った。八紘荘跡は、兵どもの夢の跡、そこにはどこまでも茶畑が広がっているだけだった。そこで空を見上げては台湾の方を見遣った。ここを飛び発った彼らはどうなったのか?
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2017年09月08日
下北沢X物語(3356)―鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場へ―
(一)世田谷代沢小、東大原小は浅間温泉に疎開した。昭和二十年二月、学童らは思いがけない出会いをする。それは突然に当地にやってきた飛行機乗りである、子どもらにその正体は分からない。が、彼らは、「と号第三十二飛行隊(武剋隊)」と「と号第三十一飛行隊(武揚隊)」の隊員だった。前者の隊長は、広森達郎中尉、後者は山本薫中尉だ。発足から特攻突撃するまでこの隊の歴史を追ってきた。この頃分かってきたことは、武剋隊、武揚隊が発足する前に、両隊長の運命は決まっていたと知った。二人は陸士五十六期生である。卒業しての進振で軽爆に配属された。これによって搭乗する機種も決定した。事実、二人が陸軍松本飛行場にやってきたとき飛行機は、軽爆、九九式襲撃機であった。この機に乗るべく訓練を受けていたのが「鉾田陸軍飛行学校原ノ町分教場」である。この因縁の飛行場は前々から訪ねたいと思っていた。原ノ町へ来たのは二度目だ。常磐線原ノ町、思い出深い駅だ、三十数年前、ここの駅前旅館に泊まったことがある。汽車に乗るためだ、この駅から青森行きの普通列車が出ていた。時刻表を紐解くと「233レ」だった。原ノ町を朝六時に出て終着の青森には夕方の五時に着いた。まる一日中汽車に乗って外を眺めていた。夏なのに寒かったのを覚えている。この一帯浜通り北部は冷害の元凶、「やませ」によく襲われる。太平洋側で春から夏に吹く冷たく湿った東よりの風のことだ。とくには稲作では大きな影響を受ける。地理的に厳しい環境のところだった。当地に飛行場ができたのは地元が率先して誘致に動いたことが大きいようだ。国策施設を置くことで地域の活性化を願った、背景には稲作だけで食べていくことの困難さがあったからだろう。後年浜通りでは原発を誘致するが要因としては同じものがあったと考えられる。

常磐線は、今は寸断されている。原発過酷事故による影響だ。竜田駅と浪江駅の間の帰還困難区域はJRの代行バスが運行されている。しかし、本数が少なく常磐線経由は難しいことが分かった。東京から行く場合、新幹線で福島まで行き、ここから原ノ町行きのバスに乗る方がてっとリ早い。
そのバスに乗って原ノ町に着いた。ここからはタクシーに乗って旧軍飛行場へ行くつもりだ。が、その前にするべきことがある。地方に行って取材をする場合、私は必ず図書館に行く。そして地域資料コーナーのぞくことにしている。その地域でしか見られない資料が必ずあるからだ。幸いにして駅前に南相馬市立中央図書館がある、書棚に見つけたのは「原町戦没航空兵の記録」(白帝社)だ。見ていくと広森隊長の日記があった。
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2017年08月13日
下北沢X物語(3339)―日本偽汽車紀行 常磐線亀有2―
(一)狸の腹鼓は高い音楽性を持っていた。これを向島の名手が打つと一帯にこれが響き渡り、多くの狸をうっとりとさせたという。亀有村の原に住まう狢一家も江戸の方から聞こえてくるこれに憧れた。「ああいう惚れ惚れするような腹鼓が打ちたい」と願った。それでひたすら練習に励んだ。すると「向島の名手のように音に色気がついてきた」との評。名人級に近づいてきた。「よし、お前達もだいぶうまくなった。もう一息だ。それでな、近々お披露目をしたい。明日明後日が満月となる」
亀有狢は、息子二人に伝えた。満月の夜はことさら腹鼓の音色が冴える。
「お父、どこでやるの?」と下の子が聞いた。
「お前達も知ってのとおり向島名人は荒川の土手で腹鼓を打っていた、やはり高いところがよい。それでな近頃できたろう、土手のようなお立ち台が……」
「お父、あれは、鉄道線路でねぇかい、我らの巣穴を壊して作ったものだよ」
長男狢が怒りに満ちた声で言う。
「そうだ、我らの巣穴を壊した奴らに鼓を高らかに叩いて威嚇し、あわせて近所の人たちに我らの技を披露するのだ……」
たちまちに満月の夜となった、煌々と月影が照っている。土手の上に敷かれた二本のレールも青く光っている。申し分ない夜だ。
「よし、行くぞ」
亀有狢の親は右足をちょこんと線路に預けて、まず一発、「ぽん、ちょん、たん」と。すると月の光の降る野原に音が見事に響いた。つづけて二匹の子狸も父に続いた。
「ぽん、ちょん、たた、とん、ちょん、たんつん」
親子そろっての腹鼓の合奏だ。月夜の青い光がいっそうに濃くなる。亀戸狢たちは合奏に聞き惚れ、うっとりして演奏に励む。
この場面を『かつしかの昔ばなし』はこう描く。
親狢が先ずポンと打てば、小狢がポンポンポンと調子を合せ、ポポンと拍手をあげて打つ切れのよさにポンポンポンポンと連れの打ち込みがあたりに冴えわたりました。
そんなときに西の方から「ぴぃぴょ!」という音が聞こえてきた。汽笛だ、どうやら機関車が近づいてきたようだ。しかし、三匹は腹鼓に夢中になっていて、気づかない。
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2017年08月09日
下北沢X物語(3336)―第3回研究大会:世田谷代田「帝音」�供�
(一)今日、九日は長崎原爆忌である。忘れがたい思い出がある。中2のときに学校で長崎原爆資料館に行った。何の気なしに入って原爆の被害のすさまじさに衝撃を覚えた。当時私は不良だった。勉強などはばかにしていた。が、この衝撃は忘れがたく、遠足から戻っての感想には率直な思いを書いた。気づくと二十枚ほどになっていた。それを当時の担任の先生がガリ版に起こし、印刷し皆に配ってくれた。自分に目覚めた思いがした。長崎原爆が自分を覚醒させたのだと思う。現今の文化探査のきっかけとなった。あれから五十七年経った。昨日は終戦記念日の番組の撮影に、テレビ信州のデレクターとカメラマンが家にきた。「戦争だと特攻で行った人にどうしても目が行きがちですけど、裏舞台にいて懸命に任務を果たしていた人がいるんですね。松本に来た特攻二隊、武剋隊や武揚隊の十五機には、全部に整備員がついていたのです。満州から最前線の沖縄や台湾にまでついて行っているんです。機は九九式襲撃機で中古です。くたびれた機の整備は大変だったのです。武揚隊などは台湾に行くまで機体不調で飛べなくなったり、不時着したりした機が多くあったのです。整備員は気が気ではなかったでしょう。しかし、中古機でも手がけていれば愛機ですね、彼らの多くは機とともに運命を共にすると覚悟を決めていました。出撃の段になって隊長に申し出るわけですが、『原隊に復帰せよ』と言われたのです。戦後、彼らは犠牲になって死んだ特攻兵士の家を訪れ、最後の様子を報告していますね。『飯沼伍長は所持金を国防献金しましてね、新聞に載ったのですよ』と武揚隊の整備員は遺族に報告しています。戦争の裏方、そういう人のことも私達は覚えておくことが必要ですね……」
時代はめくられる。が、その時々で何であろうと与えられた仕事にを懸命に懸命に生き生きて存在したものがあった。しかし、時代とともにふっと消えてしまい。そのまま忘れられてしまうものもある。整備員もそうだ。彼らがいて苦闘したことはほとんどは知らない。
今回の取材、『鉛筆部隊』が、童話作家高田充也さんによって童話化された。長野の地元ではこれが評判になっているようだ。この関連での取材でもある。
☆子どもたち、また戦争を知らない時代に向けて、メッセージをお願いします。
鉛筆部隊の学童たちは鉛筆を握って戦いました。ひたすらに手紙や日記を書きました。それらが今残っています。それらを読んで、文章力の高さを思います。小学生のレベルを超えていると思いました。ひたむきに書くこと、大事なのは手で書くことですね。
文章というのは面白いもので書く力がつくと思考力が高まります。物事の善し悪しがわかってきます。批評力ですね。あれはおかしい、これはよい。ものを見る目ができてくると世の中のことも分かってくる。思うに、この批評力こそが平和に結びつくものだと私は信じています。
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2017年07月25日
下北沢X物語(3326)―狐狸幻想:偽汽車と鉛筆部隊―
(一)旅の目的は、鉛筆部隊ゆかりの人と出会うことだった。しかし、本筋が横道に逸れて知らず知らずに狐狸に取り憑かれてしまった。気づくと三台の車に分乗した鉛筆部隊の関係者は安曇野の狐狸のふるさとを追っていた。そして玄蕃稲荷神社に行き着き狐に出会った。三台は別れて帰路についた。ところが皆と別れて帰る途中、狸が憑いたらしく山道で迷った。見知らぬ道を走るうちに出会ってしまった、それは道の真ん中に大の字になって転がっていた。狸である、どうやら車にひき殺されたようだ。「偽汽車ならぬ、偽車に化けて現れて死んでしまったのか?」、そんな噂をしたことだ。今回の旅、狐狸に始まって狐狸に終わった。例年の夏恒例行事となった浅間温泉への旅である。
2012年に『鉛筆部隊と特攻隊』が発刊された。毎年関係者が集まって浅間温泉、目の湯で同窓会を開いている。続けようといって継続してきたわけではないのに数えてみると六回目となる。この二十二日に開催した。毎回顔ぶれが違う、今回は二人のご夫婦が加わられた。まず一組目は、武揚隊山本薫中尉の甥御さん山本富繁さんと山本喜美代さん夫妻だ。二組目は『私のお嫁さんになってね』、特攻隊と疎開学童とのふれあいを絵本にした童話作家高田充さんとその奥さんである。
常々私達は、人知れぬ歴史・文化を追っている。今回の会も密かな出会いとなった。
2012年、浅間温泉に滞在していた「と号」第三十一飛行隊・武揚隊の隊員が別れの言葉を記したサイン帳が見つかった。彼らの隊が当地にいたことを裏付ける資料だ。
昨年、2016年、今度はこの隊の隊長だった山本薫中尉のご遺族から連絡があり、武揚隊の最後の旅路を記した手記があることを知らされた。思ってもない情報だ。
資料を得て思ったのは、割り符である。すなわち二枚にわかれていた割り符だ、サイン帳と手記、これが合わさったことで今まで埋もれていた隊の歴史が明瞭となった。
昭和二十年二月十日、満州国新京で大本営直轄の特攻四隊が編成された。武揚隊、武剋隊、蒼龍隊、扶揺隊である。すべて誠隊だ、第八航空師団所属の特攻隊だ。三月末敵機動部隊が沖縄に接近してきた。九州新田原へ誠隊は集結してくる。各隊は所属の台湾に行かずに九州から直接沖縄に突撃を敢行した。が、四隊のうち武揚隊だけが台湾へ行くことを命令された。中古機を駆っての遠距離飛行は惨憺たるものだった。これらの経過は、今回四国徳島の山本家資料を得て初めて分かったことだ。
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