野沢水車

2022年09月26日

下北沢X物語(4555)―野沢水車の謎―

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(一)深沢秋山家を訪問して驚いた。何と別棟の応接室の壁に大きな水車が掛かっていたからだ。「どこの水車ですか?」「野沢水車のです」と秋山光男さん。ここの水車の経営に関わっていたからだとのこと。が、これがうまくのみ込めない。どうして秋山家に水車が置かれているのか?謎だった。秋山家訪問時に同行された当会会長の谷亀さんから情報を得た。水車経営者の一覧だ、所有者は「深沢371 谷岡慶治」とある。秋山家の名はない。謎は深まった。それで調べることにした。

以前に野沢水車のことは調べたことがある。検索で調べてみると2007年02月15日の「荏原南北ペダル漂泊行(2)」に記述があった。もう15年前のことである。

鶴ヶ久保公園の南東、700m余りのところだ。野沢3丁目10番である。品川用水の流れを利用した「荏原最大の水車」があった。そこに手書きの案内図がある。「川の流れを利用した工業で精米麦製粉として水車が有った。野沢水車は荏原最大で明治14年から大正末まで営まれた。水輪の直径5m石臼6個杵20本落差を利用した上がけ式水車建物22m×13mと云う大きな『カヤ』屋根の建物であった。」

ここに記した案内図は今もある。確か詳しい解説もあった。行けばきっと手がかりを得られるだろうと思った。水車は品川用水の流れを活用している。

 品川用水は、多摩郡境村(現武蔵野市境)の分水口から玉川用水から別れて荏原台上を流れていく。尾根筋を通っていた用水は野沢3丁目で左折して南東方向に進路を変える。荏原台の台地を降りて目黒台方向に流路を変える。いわば最大斜度がここで得られる。そのことからここに野沢水車を作った。

 現場を訪れるに限る。が、品川用水の水路跡は今はほとんど残っていない。それでも流路はほとんどが道として使われている。そこを辿ってみる。野沢龍雲寺バス停から南に向かう。すると野沢交番前で南東に向かう道がある。下り坂だ、ここが荏原台を降りていく傾斜である、用水の流路跡だ。その坂を下ると降りるとバス停がある、水車橋だ。ここの脇に私製の看板が建っている。

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2022年09月17日

下北沢X物語(4549)―世田谷の旧家訪問:深沢秋山光男邸 ―

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(一)呑川源流部の支流の一つが秋山家の庭に流れている。この川は地味な川である、が、指折り数えてみるとこのほとりに住み始めてもう半世紀は経っていた。何十年とつきあってきた川である、家を出て西に向かうとすぐに深沢だ、今は歩きが中心だ、一昨日深沢図書館に珍しく自転車で行った、川を遡行していくのだがその斜度が負荷として感じられた。ところが帰りは自転車は滑るように走った。川の勾配が身にしみて感じられた。以前、上流部で大雨が降った。その川の水が一気に流れていった。下流の大田区では晴れていたが、このときに呑川の工事をしていた人が溺れ死ぬことがあった。このことから川は急流であることを知った。そう言えば五十年前七夕の笹を何人もが川に投げ捨てていた。色あせた短冊がずっと残っていたことを思い出す。

 秋山家の森は今でも残存している。かつて武蔵野と言われた雑木林は各所にあった。ほとんどが消滅してしまったが秋山の森は武蔵野を彷彿させるこんもりとした木々が残っている。が、武蔵野というのはいわゆる自然林ではない。造成林である。

 秋山家に近い深沢八丁目に住んでいた荒木進さんが記録を残している。『昔思い起こすまま 桜新町深沢あたり』非売品 1991年刊)に近隣に残っていた森について書き記している。

 自然といっても原始的なものではなく、人間の営みに関わり合いながら、なお天然の純朴さを保っていた自然といえようか。植生には暖地のような猛々しさがなく、寒地の如く単純でもない。その風物には粗野でもなく人工的でもない自然の優美さがあり、繊細で一脈の抒情性が漂っていた。それが私の味わった武蔵野の風趣であり、全国的に類例のない貴重な存在だったと思う。その趣は私の家の近辺にも多く残っていた。村境の辺地だったかもしれない。

 深沢界隈には趣のある雑木林が多く残っていたという、が、今は秋山の森だけである。深沢の土地の文化観を「村境の辺地」だと比喩的に述べているが正鵠を得ている。

 深沢は高級住宅地である、一戸の敷地面積が広く緑が多い。住環境として申し分ない。が、静寂が保たれているのは環境がいいからである、が、好環境と便利さは比例しない。交通環境的には不便である。代わりにバスが走っている。自由が丘行きの東急デマンドバスは頻繁に走っている。

 秋山家の森だが、眼についたのは欅だ、黒松もあった、赤松も樫もあるはずだ。
この秋山家は「元和から寛永年間に烏山の秋山喜兵衛から分家し、深沢に移った」といわれる。約400年近くこの地に居を構えていた。屋敷を囲む植生は家を保たせるためのものでもある。欅は家の材となった。これで臼も作った。人工的に造成された森が生活に結びついていた。
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(三)
 秋山家には離れに応接間があった。何とその壁に水車が飾ってあった。
「野沢水車で使っていたものです」
「えっ、野沢水車ですか!」
 荏原郡最大の八連水車である。
「なぜ、ここにあるのですか?」
「水車組合に関係していたと思うのですよ」と秋山さん。

 谷亀�冢困気鵑�送ってくれた資料によると設置許可は明治29年に下りている。
杵はなんと48本もある、荏原最大と言われる由縁だ。
 経営者の名が記されている「深沢371 谷岡慶二」とある。谷岡は深沢城の末裔、やはり大地主である。
 
世田谷区野沢にあった「野沢水車」は八連水車、直径 5mもある大きなのもあった。明治 15年に設置され大正時代の終わりまで使用されたとある。
 相当な投資がなければ経営は難しい、谷岡慶二氏は、同じ域内の大地主秋山家に出資を願ったのではないだろうか。それでその残存物が秋山家にはある。
(写真は、秋山邸に保存されている野沢水車。写真下、世田谷代田駅前にドラマ撮影用に模擬バス停が造られたとのこと、谷亀�冢沙當鷆 �


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