鉄道文学

2021年08月23日

下北沢X物語(4312)―鉄道文学的リニア批判序説・中―

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(一)「日本三大名工の汽車文学−鏡花、賢治、百痢廖別じ刊)をまとめた。汽車文学とは鉄道文学のことだ。日本に鉄道文学は確立していない、が、可能性が高いのはこの三人をおいて他にいないだろう。根拠としては「希有な時代を生きた三大名工」と提起した。この例えとして自身は「鉄道ハビタブルゾーン」と述べた。これは何か、地球と似た生命が存在できる天文学上の領域を言う。地球は奇跡とも言えるゾーンにある、太陽との距離が遠すぎても近すぎてもいけない。生命居住可能領域は極めて狭い。ゾーンは幅のことを言うが、鉄道文学に関しては時間の狭小さを言う。鉄道爛熟期の時間が極めて短かった。つまりこの期間に生きて、鉄道美学を存分に書いたのが泉鏡花であり、宮沢賢治であり、内田百里任△襪箸いΔ海箸澄8世┐佚監司験悗呂海了或佑能わった、終焉した。鉄道の未来はリニアに託された、が、この超高速列車からは文学は生まれない。後にも先にもこの三人で終わりということだ。

鏡花文学における鉄道は極めて魅力に富んでいる。一つの見方として鉄道文学はフレーズにあると言ってもよい。一例としては鏡花の『歌行燈』が挙げられる。冒頭部分では、桑名に着いた主人公喜多八が、乗ってきた汽車を見遣る場面がある。「汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼な野路を光って通る。…」、汽車文学の名文だ。月夜の明かりに浮かんだ鉄路の向こうを汽車がおもむろに去って行く、その光景がリアルに浮かんでくる。文章力の素晴らしさだ、月光を浴びて彼方に進みゆく汽車を筆の力で浮き立たせている。やはり汽車文学の名工である。

 鏡花の鉄道ものとしては『風流線』がある。北陸線敷設をめぐって起こった騒動を素材としている。鏡花自身は鉄道好きである。ところがこの『風流線』、『続風流線』では鉄道を文明批評的に述べている。ここでは村夫子に鉄道敷設による弊害を語らせている。

  山は崩す、水は濁す、犬猫は取って喰ふ、草は枯らす、樹は倒す、石は飛ばす、取り分けて目指されるのが、眉目形(みめかたち)の優れた婦人じゃ。
 殺されたものもあり、死んだものもあり、好い衣服を着て帯を締めたのが、草の中に倒れ居たり、裸体で野原に曝されたり、何がさて、出来た鉄道の三里まわり、手足な、髪な、ばらばらにして暴れて居ったわ。
 何とも可恐(おそろし)い、二條の鉄の線(はりがね)は、ずるずると這(は)い込んで、最うそれ、昨日一昨日あたりから此の川上で舌なめずり、丁ど貴女が行かれるという、鞍(くら)ヶ岳の麓は鎌首を擡(もた)げる處じゃ、私の留めるのは此の事だで、はい。」
    鏡花全集 巻八 岩波書店 一九七四年刊


 村夫子は、田舎の知者だ、彼は地元民の立場から鉄道の弊害を説く。まずは環境破壊だ、それと風紀の乱れ、とくには婦女子が乱暴狼藉者の餌食になって酷い目に遭っていると述べる。二條の鉄線は破壊者として目に映っている。

 現在リニア敷設については「山は崩す、水は濁す、犬猫は取って喰ふ、草は枯らす、樹は倒す、石は飛ばす」のうち、わんにゃんは当たらないが、他はすべて合致している。リニア沿線では工事による環境破壊が大きな問題となっている。

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2021年08月22日

下北沢X物語(4311)―鉄道文学的リニア批判序説・上―

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(一)芥川竜之介の遺作に『機関車を見ながら』というエッセイがある、ここに「我々は子供と大人とを問はず、我々の自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つ所におのづから自由を失つてゐる」と記している、人間の限りない欲望はひたむきに軌道を突進する機関車である。「この軌道は或は金銭であり、或は又名誉であり、最後に或は女人であらう」と言う。最後のは性欲である。なるほどと思う。ひたすらに速度を求めるとその先頭車両はいきりたった男根に近づいていく。リニアの先端はまさにこれだ。超高速を求めるこれは南アルプスという自然の処女地を尖った先端部が犯していく。まっしぐらに名古屋に向かうこれは脇見しない。鉄道文学の根幹は脇見である。「雨に濡れし夜汽車の窓に/映りたる/山間の町のともしびの色」(石川啄木『一握の砂』)は好例だ。リニアの窓辺は黒一色だ。「黒いものがちらちらしたと思ったら名古屋だ!」、超高速列車には溜がない、これが全くないリニアには文学は育ちようがない。人間の心がないということだ。

 中原中也の詩に『桑名の駅』がある。この第一連だ。

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
夜更の駅には駅長が
綺麗な砂利を敷き詰めた
プラットホームに只独り
ランプを持つて立つてゐた
「中原中也詩集」岩波文庫 一九八一


文学というものの真髄だ、出だしから面白い、韻が踏まれている。「桑名」と「暗」と「コロコロ」のKが微妙に響き合って笑いを醸し出す。韻が踏まれているだけではない。それとなく文学韻も踏まれている。『東海道中膝栗毛』である。

桑名の夜は暗かった、寂しげに蛙がコロコロ啼いているばかりだった。しかも長いホームには人影はなく、唯一駅長がカンテラを下げて手持ち無沙汰な様子で立っていた。
 この第一連は枕だ、中也は不思議さを感じる。第二連はその種明かしがされる。

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
焼蛤貝の桑名とは
此処のことかと思つたから
駅長さんに訊ねたら
さうだと云つて笑つてた


汽車が駅に着いた、ホームには「くはな」とあった。もしかしてあの桑名か?ホームにいた駅長に
「駅長さん、ここが焼蛤で有名な桑名ですか?」
「ええ、そうですよ」
 駅長は笑う。中也も「そうかそうだったか」と笑う。まさかと思っていたがあの有名な「その手は桑名の焼蛤」の本場だったのだ。
 
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